『I字カミソリとシェービング・ジェル』
| ジャンル | 現代実写映画(社会派・身体表象) |
|---|---|
| 制作年 | |
| 監督 | 鎌谷 眞和(かまたに まこと) |
| 脚本 | 鈴門 梨玖(すずかど りく) |
| 撮影 | 西川 苑都(にしかわ そのと) |
| 主要ロケ地 | (、)ほか |
| 上映時間 | 97分(劇場版) |
| 配給 | 反転シネマ流通合同会社(通称:反転流通) |
| テーマ | 性別の自己決定/鏡の距離感/言葉の未確定性 |
『I字カミソリとシェービング・ジェル』(あいじかみそりとシェービング・じぇる)は、の実在映像作法にも似た手つきで、身だしなみの手技を通じて性の境界を揺さぶる実写映画である。監督はを拠点に活動してきた映像作家で、の初回上映以後、やを主題にした作品として論じられてきた[1]。
概要[編集]
『I字カミソリとシェービング・ジェル』は、洗面所の光景を反復的に映し、滑らかな剃り跡(とされるもの)を「言い換え不可能な自己」として提示する実写映画である。とりわけ、I字カミソリの“刃の角度”をめぐる会話が、身体の境界線をどこに置くかという問いへ接続される構造が特徴とされる[1]。
物語の中心には、性別の自己表象に揺れがある人物たちが置かれる。彼らは作中で、として自認する/しないのどちらも絶対視せず、の状態を「議論」ではなく「日常の肌触り」として扱うため、観客に“理解”より“同調できない感じ”を残すと論じられている[2]。
本作は、劇中で反復される小道具の具体性—たとえばシェービング・ジェルの硬化時間や、刃を洗う水温—が、社会制度の硬さと対応しているように見える点で知られる。なお、制作側は「肌と制度を同列に扱ったものではない」との声明を出したとされるが、観客の解釈はむしろ制度の方へ引っ張られたとも言われる[3]。
あらすじ[編集]
主人公の青年・朝霧(あさぎり)は、共同住宅の一室で、鏡の前に立つことを少しずつ“条件付き”にしていく。彼は、剃り作業が始まるときだけ自分の声が明瞭になると感じており、I字カミソリを手に取るたびに「今日は何者として振る舞うのか」を決め直す[4]。
ある日、彼の隣室に転居してきた女性—と彼女自身が呼ぶ人物—が「名前を選ぶために刃を立てる」と言い出す。2人は洗面台の前で共同作業をすることになるが、実際には“共同”が継続条件付きのまま崩れていく。結果として、剃り跡がきれいかどうかよりも、沈黙がどれだけ長く保てるかが重要になるよう演出される[5]。
終盤、朝霧は劇中の会話に出てくる“硬化時間”の数値を思い出し、定量化できない感情の輪郭に触れようとする。彼は刃を入れる前に、言葉の順序(先に自己紹介をするか、後で呼称を直すか)を逆にしてみるが、そこに生じたズレが、観客の側の「理解しきれないまま進む日常」を呼び起こすとされる[6]。
製作と背景[編集]
起案の経緯:“身だしなみ”から“言語”へ[編集]
本作は、鎌谷 眞和監督が東京都内の試写会で受け取った匿名の手紙から着想されたとされる。手紙の内容は「剃るのではなく、呼ばれ方を試したい」という一文だけだったと報じられたが、監督はそれを“感情の手技”として翻訳したという[7]。
鎌谷は、当初タイトルを『刃と呼称』にする案もあったと語っている。しかし脚本の鈴門 梨玖は、刃の話を抽象化すると“議論っぽくなる”と懸念し、具体物(I字カミソリとシェービング・ジェル)を残す方針に切り替えた[8]。この方針が、のちに「社会派のくせにやけに生活臭がする」と評価を分ける要因になったともされる。
撮影手法:水温、硬化時間、鏡の距離[編集]
撮影はの小規模スタジオと、の協力施設で行われた。制作チームは撮影日ごとに小道具の“再現性”を追い、シェービング・ジェルの硬化を「室温23℃で88秒、ただし風速0.6m/sを超えると92秒」と計測したとされる[9]。この数字は脚本の小ネタとして入れられたが、当時の制作資料にそのまま残っていたため、後の批評で頻繁に引用された。
さらに、西川 苑都撮影担当は鏡の距離を被写体の顔から「28〜31cmの範囲に固定した」と言及している。一般の映画用距離ではないため、観客は“身体の距離感”を読もうとし、議論が加速したとされる[10]。ただし制作側は、これはカメラのレンズ収差を抑えるための技術判断だったとも説明したと伝えられる。
編集の設計:沈黙を“場面転換”にする[編集]
編集では、台詞が成立している時間より、台詞が成立しない“間”を長く残す手法が採られた。具体的には、会話が止まってから画が暗転するまでの平均を「3.4秒」とし、その誤差をあえて一定にしない方針が取られたとされる[11]。
この方針は、トランスジェンダー当事者のインタビューを下敷きにしたものではなく、当時の編集者が“説明されないまま進む生活のリズム”として学習したことに由来すると説明された。ただし、この点については後年、「当事者の語りを“沈黙の美学”で置き換えた」と批判された[12]。
社会への影響[編集]
公開後、本作は大学のジェンダー研究会や、地域の多文化支援団体でワークショップ教材として扱われた。とくに、剃り作業の反復が“制度の反復”に見えるという指摘が広まり、の公共図書館では関連展示(小道具のレプリカを含む)まで組まれたとされる[13]。
一方で、作品の人気が先行するあまり、日用品を“自己決定のシンボル”として消費する言説も生まれた。SNSでは「ジェルは88秒で硬化するから、人生の区切りも計測できる」などの投稿が出回り、監督は公式アカウントで「物語は計測可能ではない」と訂正を行ったとされる[14]。もっとも、この訂正が逆に“数値の呪い”を強めたという逆説も報告されている。
さらに、業界側では、映画館で上映後に行われるトークイベントが増えた。企画会社の(仮名に近いが、当時の契約書に表記があるとされる)は「沈黙の設計が学びになる」と売り込んだとされるが、実際には登壇者の多くが制作側と近い立場だったという[15]。そのため、視聴者が“議論の場”に期待したほどには、論点の幅が開かなかったとの批評もある。
批判と論争[編集]
批判の中心は、“自己の揺れ”を物語として美化しすぎたのではないか、という点にあった。特定の観客からは「剃り跡を“正解の肌”のように見せるカットがある」という指摘が出て、配給側は当該シーンを“誤読しうる映像設計”と認めつつも、編集意図は否定しなかったとされる[16]。
また、当事者性の扱いに関しても論争が起きた。脚本は複数のコンサルタントによりチェックされたと公式では述べられているが、関係者の名が公開されないため、編集部に寄せられた手紙では「相談した人の声が作品の中でどれだけ残っているのか分からない」との疑義が提起された[17]。この手紙は匿名扱いのまま、翌月の業界紙で“雰囲気記事”として引用されたとされる。
さらに、終盤の数値小ネタ—室温23℃で88秒という硬化時間—が“生物学的根拠”として誤解されるケースもあった。あるレビューサイトでは、硬化の数値が医療機関の推奨基準と誤って結びつけられ、科学的裏付けがないとして批判された[18]。ただし制作側は「そもそも数値は比喩」と繰り返し説明したとされ、論争は“比喩の受け取り方”へ移っていった。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 平松 朱里『刃の比喩と呼称の映画論』みなと出版, 2022.
- ^ Kang, E. R. “Domestic Objects as Gender Signals in Contemporary Japanese Film.” *Journal of Media and Identity*, Vol. 14, No. 2, pp. 33-58, 2023.
- ^ 鎌谷 眞和『試写会のあいだ:『I字カミソリとシェービング・ジェル』制作記録』反転流通編集部, 2021.
- ^ 鈴門 梨玖『沈黙を脚本にする方法』月光書房, 2020.
- ^ 西川 苑都『撮影距離学:鏡とレンズの27〜32cm』映像技術協会, 2022.
- ^ 田代 陽真「硬化時間は比喩か:数値ディテール批評の可能性」『映像評論』第68巻第1号, pp. 101-129, 2022.
- ^ Sato, M. “Silence Cuts and Queer Interpretability.” *Asian Screen Studies*, Vol. 9, Issue 4, pp. 201-219, 2024.
- ^ 反転シネマ流通合同会社『劇場版97分の根拠(社内配布資料)』反転流通, 2021.
- ^ 北青映画企画『ワークショップ台本:剃り作業は何を教えるのか』北青企画出版, 2023.
- ^ Matsui, Y. “The Razor Angle and the Politics of Self-Naming.” *International Review of Film Practices*, Vol. 5, No. 3, pp. 77-99, 2021.
外部リンク
- 反転シネマ流通公式アーカイブ
- 港区映画資料室
- ジェンダー映画研究会(講義メモ集)
- 鏡と距離の撮影講座(録画置き場)
- 映像評論バックナンバー倉庫