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| 人名 | 久世 ねお |
|---|---|
| 各国語表記 | Kuze NEO(英)/ 久世 ねお(仏表記) |
| 画像 | Kuze_Neo_portrait.png |
| 画像サイズ | 260px |
| 画像説明 | 『賛同札(さんどうふだ)』を掲げる久世の公式肖像(推定) |
| 国略称 | JP |
| 国旗 | 日本国旗 |
| 職名 | 内閣総理大臣・大蔵大臣・内務大臣 |
| 内閣 | 第六十八次久世内閣 |
| 就任日 | [[1954年]]〈[[昭和]]29年〉[[3月6日]] |
| 退任日 | [[1955年]]〈[[昭和]]30年〉[[12月28日]] |
| 生年月日 | [[1896年]]〈[[明治]]29年〉[[4月12日]] |
| 没年月日 | [[1967年]]〈[[昭和]]42年〉[[10月3日]] |
| 出生地 | 佐世保湾岸(当時の北松浦郡) |
| 死没地 | 港区 |
| 出身校 | 法科 |
| 前職 | 逓信官僚(検閲局附属調査班) |
| 所属政党 | 国民協和党 |
| 称号・勲章 | 大勲位菊花章頸飾、正二位、勲一等旭日桐花大綬章 |
| 配偶者 | 睦月(むつき)・旧姓 |
| 子女 | 久世玲(長男)、久世眞琴(長女)、久世澄雄(次男) |
| 親族(政治家) | 甥:大倉ひかる(国民協和党衆議院議員) |
| サイン | 「いいねください」風の略署名(円環押印) |
**久世 ねお(くぜ ねお、旧字:久世 ねお、[[1896年]]〈[[明治]]29年〉[[4月12日]] - [[1967年]]〈[[昭和]]42年〉[[10月3日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[位階]]は[[従一位]]。[[勲等]]は[[大勲位菊花章頸飾]]。内閣総理大臣に就任し、同年に内閣を率いて『いいねください国民運動』を制度化したことで知られる[1]。
概説[編集]
久世 ねおは、[[日本]]の[[政治家]]であり、内閣総理大臣に就任した際、街頭演説の合図として「いいねください」を合言葉化したことで知られる[2]。
史料によれば、彼は『賛同率(さんどうりつ)』を政策評価の軸に据える独自の行政手法を提唱し、のちに複数の省庁で類似の運用が行われたとされる[3]。もっとも、当時の新聞では“国民の良心を数値で飼いならす危うさ”も同時に論じられた[4]。
戦後の政局においては、久世が「いいねください」を単なる依頼語ではなく、意思決定の手順(合図→集計→反映)だと説明した点が象徴的である。のちにこの考え方は、与野党を問わず「賛同札行政」として語られるようになった[5]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
久世ねおは[[1896年]]〈[[明治]]29年〉[[4月12日]]、[[長崎県]]佐世保湾岸の造船下請け一族に生まれたとされる[6]。父は「図面を引くほど言葉が増える」として、家の帳場に毎月“賛同欄(さんどうらん)”を設けた人物であった[7]。
当時の家計簿には、家族それぞれの気分に合わせて「いいねください」相当の手書き記号(○、△、×)を付けた頁が残っているとされ、久世はそれを“最初の社会調査”だったと語った記録がある[8]。もっとも、家計簿の現物は見つかっていないとする指摘もある[9]。
学生時代[編集]
久世は[[東京帝国大学]]法科に入学し、在学中は行政制度研究会に所属したとされる[10]。特に、検閲行政と世論の接続をどう設計するかという議論で頭角を現したとされる。
同大学の寄宿舎では、夜の雑談を止める代わりに“賛同音(さんどうおん)”という合図が用いられていたという逸話が残っている。具体的には、唱歌の伴奏が終わった瞬間に全員が小さくうなずき、最後に「いいねください」を口にする習慣であり、久世はこれを「同意の遅延を減らす訓練」と呼んだという[11]。
なお、久世が法科を卒業した年については[[1921年]]説と[[1922年]]説があり、同級生の回想が食い違っているとの指摘がある[12]。
政界入り[編集]
久世は逓信省系統の官僚として採用され、検閲局附属調査班を経て政策文書の“反応率(はんのうりつ)”を試算する業務に転じたとされる[13]。当時の調査は、郵便物の遅延だけでなく、投書の熱量の推移まで扱っていたという。
[[1927年]]〈[[昭和]]2年〉、久世は国会議員の秘書官を務めるため官職を退き、翌年に[[衆議院議員総選挙に立候補]]したとされる[14]。初当選を果たした時、彼は選挙区の戸別訪問で「いいねください」を連呼するのではなく、無言で“手のひらサイズの紙札”を差し出したと伝えられる[15]。
この札は“賛同だけを集める紙”ではなく、苦情も書かせる形式であったとされる一方、当時の批判者は「苦情欄の文字が薄くなるよう設計されている」と主張した[16]。
五次・〇〇大臣時代[編集]
久世は複数の閣僚職を歴任し、[[大蔵大臣]]としては財政評価の指標に「賛同率」を採り入れたとされる[17]。その施策は、歳出の増減を“賛同率×生活実感(せいかつじっかん)”で補正するという、非常に細かい計算式に基づいたと記録されている[18]。
具体的には、地方の補助金配分において「賛同率80%以上で係数1.0、60〜79%で0.92、59%以下で0.81」という三区分が採用されたとされる[19]。ただし、当時の官庁文書は写ししか残っておらず、数値自体が脚色された可能性もある[20]。
外交面では[[外務大臣]]に就任した時期があるとされ、対話の席では必ず「いいねください」を“相手の手続き負担を減らす言葉”として用いたと伝えられる[21]。
内閣総理大臣[編集]
久世は[[1954年]]〈[[昭和]]29年〉[[3月6日]]、内閣総理大臣に就任し、続く数か月で「賛同札行政」を閣議決定したとされる[22]。その骨子は、行政から国民へ一方的に発信するのではなく、国民の反応を定型手順として回すというものであった。
第六十八次久世内閣では、各省が毎週“賛同率報告”を提出することになり、報告書の書式は縦横の罫線まで指定されたという[23]。当時の内規によれば、紙面の右上にスタンプのような円環押印を行い、押印の位置が0.5mmずれると差し戻されたとされる[24]。
一方で、制度導入から半年後の内部点検では「賛同が高い案件ほど、なぜか後から修正が多い」という逆相関が見つかったとの記録がある[25]。この点については“熱量の高い層が声を出しやすい”という技術的な説明がされたものの、政治的な恣意があったのではないかとする見方も存在する[26]。
退任後[編集]
久世は[[1955年]]〈[[昭和]]30年〉[[12月28日]]に退任し、その後は政界に留まりつつ、助言機関として“賛同率研究評議会”を主宰したとされる[27]。
晩年には地方巡回を重ね、演説の最後に必ず同じ所作を行ったと伝えられる。具体的には、演台の端を指で二回だけ叩き、観衆に「いいねください」を促すのではなく“促されたと感じない程度に”声を短くする、という癖であったという[28]。
久世は[[1967年]]〈[[昭和]]42年〉[[10月3日]]、[[東京都]]港区で死去した。死因については“心不全”とする記録がある一方、当時の診療メモの筆跡が一致しないとして別説も流通した[29]。
政治姿勢・政策・主張[編集]
久世の内政は「賛同率を通じた行政の最適化」を掲げるものであり、制度の目的は“国民の不満を消す”ことではなく“反映までの距離を縮める”ことにあると説明された[30]。そのため、各省の政策案には必ず「賛同率の見込みレンジ」が添付され、レンジ外の推進が発見された場合は局長級が事情聴取される仕組みとされた[31]。
外交では、同盟国に対する説明文書に同じ語尾を揃えるという作法を導入し、「相手が読み終えるまでの時間を見積もってから約束をする」ことが重要だと主張した[32]。この主張は、交渉用メモの封筒に“読み終え速度(よみおえそくど)”の欄を設けることで実務化されたとされる[33]。
一方で、久世は“反対の声”を否定しないとしながらも、政治用語としての「いいねください」が感情操作に近づく危険が指摘された[34]。このため、彼の政策は“技術としては合理的だが、倫理としては揺れる”とまとめられることが多い[35]。
人物[編集]
久世は性格面では「言葉の圧を測る人」と評され、演説では強い断定を避けつつ、代わりに数字と手順を積み上げる傾向があったとされる[36]。特に、閣議の前には必ず机上の積み木を7段に揃える習慣があり、7段目が崩れるとその日の決定は“賛同率が低い案件”に振り替える、という内輪の約束があったとされる[37]。
語録としては「いいねくださいは命令ではない。手続きの合図である」や、「国民の沈黙を“低温の賛同”とみなすな」といった言い回しが残っている[38]。ただし、語録の出典は演説の速記録が統一されていないため、後年の編纂による可能性もあるとされる[39]。
また、久世は贈答品に関して妙なこだわりを見せた。地方視察の際、同じ県には同じ茶葉を2回送るのではなく、必ず“香りの立ち上がりが10秒早いもの”を選んだという[40]。この逸話は過剰な細部へのこだわりとして笑い話になったが、側近は「時間のずれが政策の誤差になる」趣旨だったと説明した[41]。
評価[編集]
久世の評価は賛否が分かれており、支持者は「行政の説明責任を定量化した先駆者」であるとし、反対派は「同意の演出を制度化してしまった」と批判した[42]。
支持側の論拠としては、賛同率報告によって政策修正までの平均期間が、導入前の中央値で37.2日から、導入後は21.6日へ短縮されたという試算が挙げられる[43]。ただし、この“導入後”がどの月から数えられたかで結果が変わるという反論もあり、データの定義には注意が必要とされた[44]。
批判側の論点は、賛同率が高い案件が実務では後から難航しやすいという逆相関、そして言葉としての「いいねください」が“断ることの心理コスト”を上げうる点にあった[45]。このため、久世の政策は「民意の回路を作った功績があるが、設計が政治的に偏る危険も内包した」と総括されることが多い[46]。
家族・親族(系譜)[編集]
久世ねおの配偶者は[[睦月]](旧姓)であり、彼女は教育行政の現場に深く関わったとされる[47]。夫婦の間には、長男の久世玲、長女の久世眞琴、次男の久世澄雄が生まれたとされる[48]。
久世眞琴は、建設省系統の“地域合意監査室”に勤務し、賛同率報告の監査実務を担ったと伝えられる[49]。一方、久世玲は早くに官界を離れ、商社向けに世論調査用の集計器を設計したとされるが、その実在性は不確かとされる[50]。
親族の政治的なつながりとしては、甥の大倉ひかるが国民協和党から出馬し、[[衆議院]]で久世の政策言語(賛同率、レンジ、円環押印)を引き継いだとされる[51]。この系譜は“手続き文化の世襲”とも呼ばれた[52]。
選挙歴[編集]
久世は[[1928年]]〈[[昭和]]3年〉の[[衆議院議員総選挙に立候補]]で初当選を果たしたとされる[53]。選挙区は当初、海運関連の票田を含む複合区であり、久世は個別訪問の際に“賛同札”を机の引き出しから取り出す所作で印象づけたと伝えられる[54]。
その後は同党公認で数回当選し、[[1932年]]〈[[昭和]]7年〉、[[1937年]]〈[[昭和]]12年〉にも当選を果たしたとされる[55]。ただし、[[1937年]]〈[[昭和]]12年〉の得票率が、ある資料では41.3%であり、別資料では39.8%とされるなど、政党名簿の改訂や回収票の算定差が疑われている[56]。
晩年の[[1953年]]〈[[昭和]]28年〉には、内閣総理大臣直前の総選挙で再選を果たしたとされる[57]。この時、久世の選挙戦は「いいねください」を直接言わず、代わりに“拍手の回数指定(3回・間隔0.8秒)”が話題になったと記録される[58]。
栄典[編集]
久世は在職中に複数の叙勲を受け、特に[[大勲位菊花章頸飾]]は首相在任時の政務整備功労として授与されたとされる[59]。叙位は順次進み、最終的に[[従一位]]に叙されている[60]。
また、勲一等旭日桐花大綬章を受章したとされ、政務の“定型手続き化”が評価されたという説明が付されている[61]。ただし、受章日については[[1955年]]〈[[昭和]]30年〉の[[1月]]説と[[1954年]]〈[[昭和]]29年〉の[[11月]]説があり、同時期の公報の突合が未完であるとされる[62]。
死後には名誉職として“賛同率文化賞”の制定に関わったと伝えられ、賞のメダルの直径がちょうど30mmであるとされる点が細部として語られている[63]。
著作/著書[編集]
久世の著作は、主として行政手続の設計論と、世論の数値化に関する論考からなるとされる[64]。代表的な著書として『賛同率の政治学』、『円環押印の行政学』、『沈黙のレンジ論』が挙げられることが多い[65]。
『賛同率の政治学』では、政策の成立条件を「賛同」「反対」「未回答」に分け、未回答を無視せず“温度帯”で推定する考え方を示したとされる[66]。一方で、読者からは「未回答の推定が都合よく働きすぎる」との批判もあった[67]。
また、彼は手紙の書き方にも理論を持ち込み、返信率を上げるための文章長を“原稿用紙17.5枚前後”に収めるよう推奨したとされる[68]。この枚数は彼が幼少期に家の帳場で見た月次集計の量に由来すると説明されたという[69]。
関連作品[編集]
久世ねおをモデルにしたとされるドラマとして、テレビ番組『円環の総理』が挙げられる[70]。作中では主人公が「いいねください」を政治的合図として制度に取り込み、やがて“賛同が現実を上書きする”危険に直面する筋書きとなっている[71]。
同様に、漫画『賛同札の少年』は、選挙戦で賛同を集める少年が、紙札の設計ミスで誤った集計を信じてしまうエピソードが人気になったとされる[72]。
また、映画『港区の円環』では、久世の死去地として[[東京都]]港区が強調され、円環押印がラストシーンで象徴的に使われると報じられた[73]。ただし、これらの作品は実在の政治家としての久世と一致しない部分も多いとされる[74]。
脚注[編集]
参考文献[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
脚注
- ^ 久世文治『賛同率の政治学』東京大学出版局, 1958.
- ^ 北園清郎『円環押印と官僚制—制度の裏側』岩波書房, 1961.
- ^ H. Brandt, “Please-Approval Metrics in Postwar Governance”, Journal of Civic Administration, Vol.12 No.3, pp.41-66, 1964.
- ^ 田辺澄人『街頭語の政策化—合図としての文句』清流社, 1970.
- ^ 森川縫子『検閲調査班の統計慣行』日本評論社, 1952.
- ^ S. Tanaka, “Reply Latency and Administrative Persuasion”, International Review of Public Policy, Vol.7 Issue 1, pp.109-133, 1959.
- ^ 大倉ひかる『親族継承の手続き文化』国民協和党政策局, 1966.
- ^ 『第六十八次久世内閣閣議記録(写本)』内閣官房庶務課, 1954.
- ^ 久世ねお『沈黙のレンジ論』賛同率文化社, 1960.
- ^ 佐佐木真琴『港区の記憶と円環—政治史の読み替え』文藝春秋, 1969.
外部リンク
- 賛同率文化アーカイブ
- 円環押印記念館
- 国民協和党政策資料室
- 戦後閣議速記録データベース
- 港区円環文化財団