ともめ
| 氏名 | 苫目 友芽 |
|---|---|
| ふりがな | とめ ともめ |
| 生年月日 | 7月13日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 前衛地図作家 |
| 活動期間 | - |
| 主な業績 | 「移動相関表」体系化、航路迷路図の大判制作 |
| 受賞歴 | 期 地図学貢献賞、初期 都市整序記念章 |
苫目 友芽(とめ ともめ、 - )は、の前衛地図作家である。迷路のような航路図と行政用「移動相関表」を残した人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
苫目 友芽(とめ ともめ)は、の前衛地図作家である。とくに、港湾の動線を「相関」で表す手法は、当時の都市計画関係者に「地図が統計になる」という衝撃として受け止められた。
友芽は、既存の地図が「場所」だけを示すのに対し、移動が生む“つながり”を図面上に可視化した点で特徴づけられるとされる。なお、彼女の図面はしばしば航路を“迷路”のように描くため、一般には読みにくいと批判されつつも、書き手の意図は行政資料として利用されたとされる[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
友芽は7月13日、の海運倉庫で働く一家に生まれた。父は帳簿係であり、友芽は幼少期から「数字は嘘をつかないが、読む人の頭が嘘をつく」と言われて育ったという[3]。
彼女が地図に執着した直接の契機は、の大雪で港の倉道が封鎖された経験に求められるとされる。このとき、倉道が塞がれた“回数”は合計、通行止め解除は平均して単位でずれたと、後年の自筆メモに記されていた[4]。
青年期[編集]
、友芽は函館から上京し、仮事務所として利用されていたの倉庫街で測量補助を経験した。彼女はに師事しつつも、実測の結果をそのまま写すのではなく、移動の“待ち”を加味するようになっていったとされる[5]。
青年期に友芽が作った習作のうち、特に有名なのが「沈黙の航路図」である。図面は、船の出港時刻を描かず、港での滞留をとして配置したとされる。この作法は、読者が時刻表ではなく“気配”を読むことを強いるとして、当時の新聞で好意的に紹介された一方、測量機関からは眉をひそめられたという[6]。
活動期[編集]
、友芽は「相関航路製図室」を名乗り、都市の流れを図面化する仕事を始めた。彼女が最初に手がけたのはの埠頭区域で、行政との打ち合わせでは「歩行者の迷い」を“変数”として扱うことが提案されたとされる[7]。
には、友芽の代表作の一つである『移動相関表・第七巻』が完成した。ここで彼女は、動線の交点を「会合点」と呼び、会合点の密度を「1平方尺あたり平均」のように数値化した。さらに、交点の並びを階層化し、最終頁では「風向に見える行政の癖」を示す独自の凡例が付されたとされる[8]。
作風はしばしば“迷路”に見えたが、友芽はこれを「迷うための図ではなく、迷いが生む統計を読むための図」と説明した。なお、この言い回しは、後にの内部資料に転用された形跡があるとして、地図史研究者の関心を集めた[9]。
晩年と死去[編集]
代、友芽は「図面が多すぎると政策が迷子になる」として、地図の“要約化”に取り組んだ。彼女は同一の事象をで描き分け、「現場」「帳簿」「噂話」の3層で理解させる方針を示したとされる。
、友芽は自らの活動を「収束期」と呼び、最後の大判制作『相関迷路断章』を仕上げた。彼女は11月2日、でで死去したと記録されている[10]。死因については、健康上の理由とされる一方で、「徹夜の凡例書き直しが続いた」という逸話も残されている。
人物[編集]
友芽は、几帳面でありながら他者の視線を極端に気にする性格であったとされる。彼女の机には常に「地図用の鉛筆が減る速度」を記す小帳面が置かれ、減りが早い日は集中できないと判断していたという[11]。
逸話として語られるのが、会議中に同僚が水をこぼした際、友芽が落ちた場所を即座に図面へ点置し、「ここは“事故の起点”ではなく“回復の起点”である」と発言した場面である。これが過剰な解釈として笑われたのち、翌週に実際の調整手順へ反映されたことがあったと伝えられる[12]。
また、彼女は不思議な愛称を好んだとされ、地図の線を「糸」、交点を「結び目」と呼び、凡例を“口承”として語り直させることがあった。本人は「図面は説明ではなく、誰かの記憶を呼び起こす装置だ」と語ったとされる。
業績・作品[編集]
友芽の業績は、地図作成の枠を超え、行政・物流・都市整序の実務へと接続した点に特徴がある。特に「移動相関表」体系は、距離や面積に加え、“移動のつながり”を数式ではなく記号で表したことが評価されたとされる[13]。
主な作品としては、『移動相関表・第七巻』()が挙げられる。ここでは、会合点の推定数を「港湾全体で合計」のように桁まで示したとされ、読者には不自然に見えるほど細密な推計が多かった[14]。
次いで『沈黙の航路図』()が知られている。出港の時刻を消し、代わりに滞留を点描で表したため、海運関係者からは「船が“喋らない”地図」と評されたという[15]。さらに『相関迷路断章』()では、最短経路ではなく“迷い続けると最終的に得られる情報”を重視した構図が用いられたとされる。
後世の評価[編集]
友芽の評価は、研究者の間で揺れが大きいとされる。肯定的には、彼女が地図を“統治の言語”へと押し上げた点が挙げられる。とくに、の草案資料に見られる「待ち時間の可視化」方針が、友芽の凡例設計に由来するとする説がある[16]。
一方、批判的な立場では、相関の記号が抽象化しすぎたため、現場の作業者が「図を読むより聞いた方が早い」と判断し、定着しなかったという見解がある。ただし、この評価には“導入段階の説明不足”という反証も付されており、当時の講習記録では図面の使い方が平均の講義で説明されたとされる[17]。
総じて、友芽の仕事は「地図が情報を運ぶ」という常識を、行政側が受け入れる前の段階で試したものとして位置づけられる傾向がある。
系譜・家族[編集]
友芽の家系は、海運帳簿に関わった者が多いとされる。母はの小規模書記を務めたとされ、家では和紙への筆写が代々行われていたと記される[18]。
友芽の兄弟構成については、史料により差がある。『移動相関表・第七巻』の巻末の自註では「兄は人いた」と書かれているが、別の遺稿では「姉が人いた」とされ、整合性が取れていないと指摘されている[19]。この食い違いは、彼女が“相関の表”を作る際に家族の呼称も再編したためではないか、と推定されている。
本人の晩年には、製図を手伝う弟子としての印刷工房と関係があったとされる。弟子は作画担当で、友芽は凡例担当に徹したという分業が長く続いたと伝えられる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 苫目友芽『移動相関表・第七巻』相関航路製図室, 【1912年】.
- ^ 林朔太郎『迷路としての地図――統計前夜の作図術』海港書房, 【1931年】.
- ^ Margaret A. Thornton『Cartography of Transit: Symbolic Waiting in Prewar Japan』Harborline Press, Vol. 3, No. 2, 【1988年】.
- ^ 伊藤良輔『港湾動線の読み替えと行政の文法』明治大学出版部, 第2巻第4号, 【1926年】.
- ^ 佐伯玲子『点描凡例の系譜――苫目友芽の“口承”設計』地図史研究叢書, 【2007年】.
- ^ 高橋正清『【東京府】資料と移動相関表の関係』行政図面研究会, pp. 41-58, 【1936年】.
- ^ O. R. Nakamura『The Myth of Shortest Routes: Corridors, Correlation, and Confusion』Journal of Transit Cartography, Vol. 12, No. 1, pp. 9-27, 【1999年】.
- ^ 石田範子『凡例を売る女――前衛地図作家の経済史』河出図面文庫, 【2014年】.
- ^ Catherine J. Welles『Ports, People, and “Threads”: A Study of Diagrammatic Administration』Urban Script Review, pp. 101-133, 【2005年】.
- ^ 北川亜由『図を“理解させる”講義時間の測定』地図教育学会紀要, 第5巻第3号, pp. 77-82, 【1933年】.
- ^ (微妙に不一致)苫目友芽『沈黙の航路図・改訂増補』相関航路製図室, 第七巻, 【1910年】.
外部リンク
- 相関航路製図室アーカイブ
- 地図史・口承凡例研究会
- 函館海運帳簿資料館
- 都市整序記念章デジタル展示
- 移動相関表講習記録センター