ケテロモンキ・クリカマリカの戦い
| 戦争名 | ケテロモンキ・クリカマリカの戦い |
|---|---|
| 年月日 | 1478年9月18日 |
| 場所 | ケテロモンキ平野(カスピ海西岸) |
| 結果 | クリカマリカ側の戦術的勝利、翌年の講和で両者痛み分け |
| 交戦勢力 | カリム朝遊牧連合 / クリカマリカ自由評議会 |
| 指揮官 | バフルーン・アル=サイディー / ニコラ・ヴァルナス |
| 兵力 | 約18,400人 / 約12,900人 |
| 損害 | 死者・行方不明 約4,300人 / 約3,100人 |
| 関連史料 | 塩税台帳、黒帆年代記、ミルザ・ダーヴィト写本 |
ケテロモンキ・クリカマリカの戦い(けてろもんき・くりかまりかのたたかい)は、に西岸の要衝で起きた会戦である[1]。とが衝突し、後世には「塩と鏡の戦い」とも呼ばれた[2]。
背景[編集]
この戦いは、沿岸の塩交易と鏡細工の流通をめぐる後半の緊張の高まりに端を発するとされる。当時、はからの隊商路と方面の海路を結ぶ結節点であり、の倉庫税収は年間で銀貨約2万8,000枚に達していたという[3]。
一方、内陸のでは、遊牧民の冬営地確保が不安定化し、が塩専売権の再配分を求めて軍を動員した。これに対し、率いる自由評議会は、港湾都市の民兵とギリシア系傭兵、さらにアルメニア人砲術手を混成して迎撃態勢を整えたと伝えられる[4]。
また、近年の研究では、両者の対立は単なる軍事衝突ではなく、鏡の輸出権をめぐる契約不履行が発火点であったとする説が有力である。ただし、として扱われるには、戦争の原因を「婚礼で割れた八角鏡一枚」に帰す記述があり、史家の間で評価が割れている。
経緯[編集]
開戦前夜[編集]
1478年9月16日、側は平野北縁の干潟に木杭を2,400本打ち、湿地を利用した防御線を構築した。これは当時としては珍しい「泥沼誘導陣」と呼ばれるもので、敵騎兵を意図的に速度低下させる工夫であった[5]。
これに対し軍は、ラクダ隊を三列に並べて側面迂回を図ったが、前夜の豪雨で砂糖樽が水を吸って重くなり、補給列の進行が大きく遅れたとされる。なお、塩と砂糖を同一車両に積載する規則はこの戦後に廃止された。
主戦闘[編集]
9月18日午前、は港湾砲6門を干潮に合わせて浅瀬へ移設し、霧のなかで斜線射撃を行った。砲弾は実戦用というより威嚇目的であったが、予期せぬ跳弾がの旗手列を崩し、軍旗が二度倒れたことから、後世「二旗転倒事件」とも呼ばれる[6]。
正午ごろ、は中央突破を命じたが、前線に散布された鏡片が太陽光を反射し、騎馬隊の視界を著しく妨げたと記録されている。これが実際にどの程度効果を持ったかは不明であるが、少なくとも敵方の馬が一斉に水を飲みに走ったため、戦列の再編に30分以上を要したという。
終結[編集]
夕刻、側の左翼が崩れ始めたものの、自由評議会の民兵も潰走寸前であり、両軍は決定的勝利を得られなかった。最終的には塩倉庫3棟と帆布工房14軒が焼失し、翌朝、双方の捕虜交換のために白布を掲げた使節が出た。
その後のでは、塩税の上限、鏡の輸出関税、干潟の放牧権をめぐる取り決めが結ばれた。講和文の署名には、、が併記され、最後にで「反射は神の所有」と記されたとされるが、これは後世の加筆とみる説もある。
影響[編集]
この戦いの直接的影響として、は港湾防衛を強化し、翌年にはを新設した。これにより鏡細工職人の登録制度が導入され、職人証の発行枚数は初年度だけで1,126枚に及んだという[7]。
また、では敗戦を受けて軍制改革が進み、遊牧騎兵に対して盾持ち歩兵を混成する「二重陣」戦術が標準化された。なお、この改革の過程で、会計係が誤っての古地図を参照したため、軍旗のサイズが一時的に過剰に大型化したという逸話が残る。
文化面では、この会戦を題材にした叙事詩『塩鏡歌』がとで流行し、16世紀にはの商人が酒席で口にする早口言葉として定着したとされる。
研究史・評価[編集]
18世紀のは、この戦いを「交易国家が武勇より記帳術で勝敗を左右した稀有な例」と評した。一方、19世紀のは、鏡片の反射効果を過大評価し、「近代電磁戦の先駆」とみなしたが、現在では強く支持されていない[8]。
20世紀以降は、戦場発掘で回収された青銅製の秤皿、焦げた干し魚、ガラス粉末の分析が進み、会戦の実像が徐々に明らかになった。ただし、2021年に公表されたでは、戦場から高濃度の真珠粉が検出されており、儀礼的演出が戦闘に混入していた可能性が指摘されている。
このため、現在の通説では、本戦は純粋な軍事衝突というより、交易統制、祝祭、示威行為が複合した「半軍事的会合」であったとする見方が有力である。
関連遺構と記念[編集]
戦場跡の北端にはと呼ばれる小丘があり、毎年9月18日には地元自治体が塩壺を並べる追悼儀礼を行っている。観光資源化は20世紀後半に始まり、現在では年間約4万6,000人が訪れるが、その大半は近隣都市からの日帰り客である[9]。
また、には、戦後に回収されたとされる「鏡装甲の断片」が展示されている。もっとも、金属学的分析では19世紀の補修痕が見つかっており、展示ラベルには小さく「後世修復を含む」と記されている。
なお、地元ではこの戦いにちなみ、塩入りの甘菓子を食べる習慣がある。これは兵站の苦労を忘れないためと説明されるが、実際には19世紀の菓子商が観光客向けに考案したものとする説がある。
脚注[編集]
[1] 事件名の初出は『カスピ海交易年代記』第12巻第4号による。 [2] 「塩と鏡の戦い」は後世の詩人が用いた呼称である。 [3] の税収記録は一部欠落している。 [4] 傭兵の構成比率は写本ごとに異なる。 [5] 泥沼誘導陣の実在性については議論が続いている。 [6] この記述は『黒帆年代記』のみに見られる。 [7] 鏡税局の制度化は翌年秋とする資料もある。 [8] 19世紀の解釈史は後年のナショナル・ロマン主義の影響を受けたとされる。 [9] 観光統計はの内部資料に基づく。
関連項目[編集]
脚注
- ^ A. H. Malkin『Trade, Salt, and Mirrors in the Lower Caspian』Cambridge University Press, 2008, pp. 114-139.
- ^ ニザール・ファルフ『カスピ海東岸交易圏の軍事的転回』『西アジア史研究』第28巻第2号, 1997, pp. 33-61.
- ^ G. R. Holloway『The Battle of Keteromonki-Kurikamarika: Reassessing a Mixed Battlefield』Journal of Steppe Studies, Vol. 14, No. 3, 2016, pp. 201-228.
- ^ 佐伯直人『塩と鏡の中世外交』岩波書店, 2011, pp. 77-104.
- ^ M. Ilyasov『Caravan Logistics and Wetland Warfare』Oxford Historical Review, Vol. 52, No. 1, 2020, pp. 9-31.
- ^ ファリド・ザーヒル『黒帆年代記校注』中央ユーラシア文庫, 1893, pp. 5-19.
- ^ L. V. Emerson『Reflections on War: Optical Confusion in Pre-Modern Campaigns』Harvard Historical Monographs, 2004, pp. 88-117.
- ^ 高橋真弓『クリカマリカ自由評議会税制史』東京大学出版会, 2009, pp. 150-176.
- ^ O. Petrov『The White Cloth Hill Rituals』Balkan-Caspian Quarterly, Vol. 7, No. 2, 1981, pp. 41-55.
- ^ ミルザ・ダーヴィト『交易国家論集』ラズマル学院出版局, 1764, pp. 211-233.
外部リンク
- クリカマリカ海事博物館
- ケテロモンキ州文化観光局
- 中央ユーラシア交易史研究所
- 黒帆写本アーカイブ
- 塩鏡戦役デジタル地図館