ケテロモンキ・クリカマリカ・カピロカシカ・カンピーカンピ・カンパラポンポン・バポチョ・パナチョ・ムシポナリ・オヨヨダネ・しろくまの戦い
| 時期 | 1598年頃 |
|---|---|
| 場所 | 北方草原、北氷海沿岸 |
| 原因 | 毛皮交易路と白熊の儀礼的所有権 |
| 結果 | 停戦儀礼の成立、三日市の創設 |
| 交戦勢力 | ケテロモンキ同盟ほか |
| 死者数 | 推定231人から4,800人 |
| 指揮官 | バポチョ・ナヒル、パナチョ・デュル |
| 通称 | 白熊戦役、ポンポン停戦 |
ケテロモンキ・クリカマリカ・カピロカシカ・カンピーカンピ・カンパラポンポン・バポチョ・パナチョ・ムシポナリ・オヨヨダネ・しろくまの戦い(けてろもんき・くりかまりか・かぴろかしか・かんぴーかんぴ・かんぱらぽんぽん・ばぽちょ・ぱなちょ・むしぽなり・およよだね・しろくまのたたかい)は、末のにおいて、毛皮交易路と儀礼用熊皮の所有権をめぐって発生したとされる連合部族間の衝突である[1]。後世にはの名を冠した象徴的事件として記憶され、からに至るまで各地の探検記に断片的に記録されたと伝えられている。
概要[編集]
この戦いは、からにかけて活動していた半遊牧民の諸集団が、冬季の毛皮交易と白熊の毛皮標章をめぐって衝突した事件として知られている。名称は、敵味方双方の同盟名を後世の写字生がつなぎ合わせた長大な呼称に由来し、当時の口承では単に「の熊騒ぎ」とも呼ばれたという[2]。
事件の実体については、軍事衝突というよりも、交易権、婚姻同盟、儀礼的な贈答が一挙に破綻した結果生じた連鎖的暴力であったとする説が有力である。一方で、系の商人が持ち込んだ塩樽をめぐる争奪が発端であったとの異説もあり、史料ごとに原因がやや異なる。
背景[編集]
16世紀後半の北方草原では、沿岸の毛皮需要が急増し、系の港湾商人と内陸の熊皮採集集団が複雑に結びついていた。とりわけ冬至祭で用いられる白熊皮は、単なる商品ではなく、首長の正統性を示す「歩く旗印」とみなされていたのである。
同盟の長バポチョ・ナヒルは、交易税を一律17%から19%へ引き上げたことで知られるが、この数字があまりにも中途半端であったため、隣接する側の記録係が侮辱と受け止めたとされる。また、同盟間の婚姻交渉で贈られた白熊の子が、実は灰色の子熊であったことも緊張を高めた。
経緯[編集]
前哨段階[編集]
衝突はの初冬、川の氷結点に設けられた臨時市場で始まった。市場の監督官であったクリカマリカ出身のパナチョ・デュルが、熊皮13枚を「湿りすぎている」として差し戻したことを契機として、双方の若武者が木槍を振り回したと記されている。なお、同市場では当日だけで発泡魚の燻製が1,240皿売れたとする帳簿が残るが、信憑性には疑問がある[要出典]。
本戦とされる局面[編集]
翌日、側の斥候がの氷上宿営地を夜襲し、これに対してバポチョ配下の弓兵団が応戦した。戦闘は三つの氷丘を中心に展開し、各陣営が打ち鳴らした太鼓の拍数を合図として前進したとされる。史料によっては、双方の隊列があまりに複雑であったため、実際には「戦っていたというより、互いに道を譲らずに回り続けていた」とも描写されている。
この局面で特筆されるのが、の老女戦士オレムが、氷割れを利用して白熊1頭を中央の祭壇へ追い込み、両軍の注意をそらした逸話である。後世の年代記では、この白熊が交渉の「第三の使者」として扱われ、以後の停戦儀礼で必ず白い毛皮の代用品が置かれるようになった。
停戦と終結[編集]
戦闘は三日目の夕刻、の星見役が「北極星が二度くしゃみをした」と宣言したことで収束したと伝えられる。実際には、両軍の保存食が尽き、さらに馬鈴薯粥に混入した香草のせいで戦意が急速に低下したことが大きかったらしい。
停戦条項では、白熊皮の所有権を「捕獲地ではなく、最初に歌を終えた者に帰属させる」と定める奇妙な規定が採用された。これにより、戦闘は終結したが、以後30年以上にわたり各地で歌合戦が武装紛争の代替手段として流行した。
影響[編集]
この戦いの最大の影響は、北方草原における交易紛争を軍事行動ではなく儀礼競争へと置き換えた点にある。戦後、との両陣営は「三日市」と呼ばれる季節市を共同運営し、毛皮、魚油、白樺の樹皮文書の交換を制度化した。
また、の宣教師アンダース・リュンドは、この戦いを「北方諸民の法が、剣ではなく熊によって測られた事例」と記し、の講義録に引用したとされる。もっとも、同講義録の頁数が毎回27頁目で止まっていることから、後世の書写過程で相当な改変があったとみられている。
研究史・評価[編集]
古典的研究[編集]
末、の民俗学者ニコライ・ベレゾフは、現地調査の結果としてこの戦いを「北方草原における毛皮国家形成の最初の危機」と位置づけた。彼の調査ノートには、現地の案内人が繰り返し「カンパラポンポン」と歌っていたことが記されており、学術的記述と旅行記の境界が曖昧である。
20世紀以降の再評価[編集]
にで刊行された研究では、実際の戦闘死者は数十人規模であった一方、後世の叙事詩が盛られた可能性が高いとされた。しかしにで発見された木簡群には、白熊皮3枚をめぐる「大いなる争奪」が明記されており、事件の核が誇張ではなかったことも示唆されている。
なお、の編者は、地名の長さそのものが記憶装置として機能したと主張したが、同書の索引が本編より長いことから、読者の多くは実用性に疑問を呈している。
遺産[編集]
現在でも北部の一部集落では、冬至祭の際に白い毛布を盾のように掲げて円を描く「しろくま回し」が行われる。これは戦いの記憶を薄めるための平和儀礼とされるが、実際には子どもが毛布の下で転倒しやすいため、自治体から毎年注意喚起が出ている。
さらに、の民俗芸能研究会では、この事件を題材にした仮面劇「ケテロモンキ長名叙事」の上演がに試みられたものの、登場人物名が長すぎて配役表だけで15枚を要し、結果的に初日で公演時間が4時間を超えたという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Nikolai Berezov『Studies on the White Bear Conflict of the Northern Steppe』Imperial Ethnographic Press, 1899, pp. 41-88.
- ^ アンダース・リュンド「北方草原の熊皮と外交儀礼」『Uppsala Historical Review』Vol. 12, No. 3, 1937, pp. 201-229.
- ^ 山辺 恒一「ケテロモンキ同盟の交易税率と戦争形態」『北方史研究』第8巻第2号, 1964, pp. 77-104.
- ^ M. Ilyushin, "On the Ponpon Truce and Its Ritual Origins," Journal of Steppe Antiquities, Vol. 5, Issue 1, 1972, pp. 15-39.
- ^ 佐々木 伝之助『しろくまの戦いと北氷海交易圏』白樺書房, 1981, pp. 9-156.
- ^ Petra Lindholm, "The Bear as Third Messenger: Conflict Mediation in Arctic Oral Tradition," Nordic Folklore Quarterly, Vol. 18, No. 4, 1998, pp. 333-360.
- ^ 高橋 みどり「ムシポナリ川市場帳簿の再検討」『交易史料集成』第21巻第1号, 2006, pp. 5-31.
- ^ Ivan Karamzin『The Camp of Kampara-Ponpon: A Reconstructed Chronicle』Baltic Academic Publishing, 2011, pp. 117-203.
- ^ Elena Voronina, "When Bears Became Borders," Arctic and Steppe Studies, Vol. 9, No. 2, 2017, pp. 44-70.
- ^ 黒田 玄『オヨヨダネの星見役と停戦儀礼』北海文化研究所, 2020, pp. 61-92.
- ^ Jean-Paul Mirabeau, "The Syntax of Extremely Long Battle Names," Revue des Nominalismes Historiques, Vol. 3, No. 1, 2022, pp. 1-18.
外部リンク
- 北方草原史料アーカイブ
- 白熊戦役研究会
- オヨヨダネ古文書館
- 三日市民俗資料室
- ケテロモンキ叙事詩データベース