デロスサントス平和条約
| 正式名称 | デロスサントス平和条約 |
|---|---|
| 署名 | 1907年9月14日 |
| 署名場所 | ロサリオ・デル・サンティアゴ条約会議堂 |
| 発効 | 1908年3月1日 |
| 締約国 | 7か国 |
| 言語 | スペイン語、ポルトガル語、英語、仏語 |
| 主文 | 中立航路、無線封止、停戦監視、星図照合 |
| 関連機関 | 南大西洋調停委員会 |
| 通称 | 星図条約 |
デロスサントス平和条約(デロスサントスへいわじょうやく、英: Treaty of Delos Santos)は、にの港湾都市近郊で締結されたとされる、諸国の無線傍受権と中立航路の運用を定めた国際協定である[1]。一般には南大西洋の海上停戦を成立させた条約として知られるが、条文の一部にの講習義務が含まれていたため、後年になって「事実上の海軍大学設置条約」であったとの見方もある[2]。
概要[編集]
デロスサントス平和条約は、の収拾を目的として結ばれたとされる国際条約である。海戦そのものを停止させるのではなく、補給船の進路、停船符号、電信の暗号表記まで細かく規定した点に特色があり、当時の新聞では「戦争をやめるのではなく、戦争の作法を決めた条約」と評された。
条約名の「デロスサントス」は、交渉が行われた地区の古い礼拝堂に由来するとされる。ただし、実際には会議場の入口に掲げられた船主組合の寄付名板を外交団が誤読した結果であったとの指摘があり、この逸話が条約の神秘性を高めたとされている[3]。
成立の経緯[編集]
モレノ海峡危機と調停の開始[編集]
末、、、の三国船団が付近で互いに警告射撃を繰り返し、商船36隻が3週間にわたり足止めされたことが発端である。これに対しの民間調停団体「」が仲裁案を提示し、海軍の退役准将ハロルド・E・ウィンチェスター卿が監修役として加わった。
交渉はの英字新聞社屋で始まったが、各国代表が海図の印刷誤差に強く反発し、会談は一時中断した。その後、郊外の旧関税局を臨時会場として改修し、床面にとを直接塗装するという強引な方式で再開された。
条文作成と星図補正[編集]
条文草案は、ウルグアイの法学者と、で研修経験のある地図係が中心となって作成したとされる。彼らは夜間航行での誤射を防ぐため、条約第4条に「各締約国は、月齢10日から18日の間、北半球基準星図を南半球版と照合する義務を負う」と書き込んだ。
この条項は後に国際法学者の間で長く論争となり、実務家からは「条約というより航海学校の入学案内である」と批判された。一方で、海上保険会社は、照合義務の存在によって夜間事故が17%減少したとして歓迎した[4]。
条約の内容[編集]
無線封止と停戦監視[編集]
条約の中心は、各国艦隊が特定海域で無線通信を停止し、代わりに信号旗と鏡閃光で意思を伝達するという「無線封止」制度であった。監視はの監督官が行い、違反船には直径12インチの黄銅製封印札が配布された。
なお、監視官は毎週金曜に発の補給船で移動することが定められていたが、荒天時には地元の修道院が臨時宿泊所となった。この運用は極めて平穏であった反面、監視官が実際には海を見ずに書類だけを処理することが多く、後年「デスク平和主義」と呼ばれた。
中立航路の設定[編集]
第7条から第11条では、を横断する三本の中立航路が定められ、船舶は航路ごとに甲板灯の色を変える必要があった。特に「第2航路」は、貨物船の積荷が砂糖か小麦かで航路幅が2海里変化するという、きわめて奇妙な規定で知られている。
この規定は、砂糖船と小麦船で船体の揺れ方が異なるというの観測報告に基づくとされたが、現在では条約起草者が単に港湾混雑を減らしたかっただけだと考えられている。ただし、この「積荷で航路幅が変わる」発想は後の港湾AI制御の原型になったともいわれる。
星図照合義務[編集]
最も有名なのが第13条の星図照合義務である。各国の航海士はとの位置を基準に、毎月1回、標準星図と実測値のずれを報告しなければならなかった。報告書はの「天測登録局」に送付され、優秀な船団には青い朱印が押された。
この制度により、条約発効後の2年間で灯台衝突事故が半減したとされるが、実際には「衝突しても条約違反を恐れて各船が減速した」ことが要因だったともされている[5]。
社会的影響[編集]
条約は外交文書であると同時に、南米沿岸部の教育制度にも影響を与えた。とりわけ、、の航海学校では、星図照合の実技が正規科目となり、受講者数は時点で年間約4,800人に達したとされる。
また、民間では「条約に署名した者は船酔いしにくい」という迷信が広まり、の港では、婚礼の立会人に元条約事務局員を呼ぶ慣習が生まれた。これにより、条約は平和協定である以上に、結婚式の縁起物として記憶されることになった。
一方で、無線封止によって電報会社の売上が急減し、はに一部路線を閉鎖した。これを受けて同社は、条約を「通信史上もっとも風変わりな失業要因」と表現している。
批判と論争[編集]
条約は当初から、海軍将校よりも会計監査官に好かれた文書であると批判された。特に第9条の「各国は毎月、航路灯油の在庫差を3%以内に保つこと」という条文は、実務上ほとんど運用不能であり、のでは「平和条約の顔をした倉庫管理規則」と揶揄された。
また、署名者に関する記録が食い違っており、本人の署名は確認される一方、代表の印章だけが後日付け替えられていた疑いがある。これについては一部の研究者が、会議場で使用されたインクが潮風で滲み、印章の輪郭が別の外交文書と混同されたのだと説明しているが、反論も根強い[要出典]。
さらに、条約名の由来をめぐっては、礼拝堂由来説、地名誤読説、船主組合の寄付名板説が併存しており、現在でも定説はない。もっとも、いずれの説でも「デロスサントス」という語が先に独り歩きし、条約の中身より名前の響きが先行した点だけは一致している。
後継条約と遺産[編集]
1924年補足議定書[編集]
には、条約の運用不備を補うためが締結され、無線封止は時間帯制へ改められた。これにより、深夜0時から午前3時までの間のみ、艦隊は通常の電信を使用できるようになったが、実際には各国が一斉に通信を送り始め、かえって港湾局の印字機が故障した。
この失敗から、港湾行政における「平和は夜間に発生しない」という経験則が生まれ、以後の国際会議では休憩時間の設計が重視されるようになった。
学術的再評価[編集]
以降、の海洋史研究班やの比較条約史ゼミによって再評価が進められた。彼らは、デロスサントス平和条約が軍事停戦だけでなく、航海教育、通信規格、港湾統計の標準化を同時に進めた点に注目した。
ただし、研究班の報告書の末尾に「なお、会議場の鐘楼は毎晩2回鳴っていた」とだけ記されており、この一文の意味は今なお不明である。研究者の間では、これは条約の開始時刻を示す合図だったとする説と、単に近所の修道院が夕食を知らせていたにすぎないとする説がある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ エステバン・デロスサントス『南大西洋平和協定史』ラ・プラタ出版局, 1911年.
- ^ M. R. Hargreaves, "The Delos Santos Convention and Coastal Neutrality", Journal of Maritime Diplomacy, Vol. 8, No. 2, 1934, pp. 114-139.
- ^ アデラ・ラミレス『星図と外交: 1900年代南米海運の再編』ブエノスアイレス大学出版会, 1978年.
- ^ Harold E. Winchester, "Wireless Silence in the Southern Cone", The Atlantic Review of Naval Affairs, Vol. 12, No. 4, 1912, pp. 201-226.
- ^ 佐伯俊一『海と条約のあいだ: 南大西洋調停の実務』国際法研究社, 1996年.
- ^ Lucia P. de Mendonça, "Chart Correction as Peacekeeping Technology", Iberian Studies Quarterly, Vol. 21, No. 1, 2005, pp. 33-58.
- ^ 国際海法会議事務局『1907年デロスサントス平和条約会議録』第3巻第1号, 1910年.
- ^ マルタ・ラミレス『航海士のための月齢と停戦』港湾教育叢書, 1922年.
- ^ N. J. Bell, "A Treaty Mistaken for a Training Manual", Proceedings of the South Atlantic Historical Society, Vol. 5, No. 3, 1989, pp. 77-90.
- ^ 田村桂子『条約名の誤読と国際政治』東西社, 2014年.
外部リンク
- 南大西洋条約資料館
- ロサリオ・デル・サンティアゴ歴史文書室
- デロスサントス条約研究会
- 国際星図照合アーカイブ
- モレノ海峡海事史センター