二保田 正宗
| 人名 | 二保田 正宗 |
|---|---|
| 各国語表記 | Masamune Nyohota |
| 画像 | Nyohota_Masamune.jpg |
| 画像サイズ | 250px |
| 画像説明 | 1981年ごろの二保田 |
| 国略称 | 日本 |
| 国旗 | 日本の旗 |
| 職名 | 内閣総理大臣 |
| 内閣 | 二保田内閣 |
| 就任日 | 1972年6月14日 |
| 退任日 | 1974年12月9日 |
| 生年月日 | 1912年4月18日 |
| 没年月日 | 1987年9月3日 |
| 出生地 | 大阪府堺市浜寺 |
| 死没地 | 東京都千代田区 |
| 出身校 | 東京帝国大学法学部 |
| 前職 | 大蔵省官僚、新聞記者 |
| 所属政党 | 新政会 |
| 称号・勲章 | 従一位、大勲位菊花章頸飾 |
| 配偶者 | 二保田瑞枝 |
| 子女 | 二男二女 |
| 親族(政治家) | 二保田義春(弟) |
| サイン | Nyohota_sign.png |
二保田 正宗(にょほた まさむね、{{旧字体|二保田正宗}}、[[1912年]]〈[[明治]]45年〉[[4月18日]] - [[1987年]]〈[[昭和]]62年〉[[9月3日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[位階]]は[[従一位]]。[[勲等]]は[[大勲位菊花章頸飾]]。[[第72代内閣総理大臣]]、[[自治大臣]]、[[通商産業大臣]]などを歴任した。
概説[編集]
二保田 正宗は、昭和戦後期におけるの重鎮であり、財政再建と地方分権の両立を掲げて政権を主導した政治家である。独特の鼻声演説と、会議の冒頭で必ず小さく「にょほ」と発音する癖から、政治記者の間で「ニョホタ」と呼ばれるようになったとされる[1]。
彼は、、を経て、に就任した。その後、短命ながらも税制改正と港湾整備を同時に進めたことで知られ、政界では「数字に強いが人情にも弱い」と評された一方で、晩年には自身の演説原稿をすべて五七調で統一していたとの指摘がある[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
二保田は[[1912年]]、堺市浜寺の廻船問屋の家に生まれた。父・二保田庄三郎は港湾荷役の仲買を営み、母・キヨは旧の庄屋筋の出であったため、幼少期から帳簿と方言の両方を叩き込まれたという。
家名の「二保田」は、祖父がの寺で二つの薬壺を「保」ったことに由来するとされるが、本人は生前「本当は役場の戸籍係が書き損じた」と冗談めかして語っていた。なお、この逸話を裏づける公文書は見つかっていない。
学生時代[編集]
を経て法学部に入学し、在学中はに所属した。学内では統計学の講義を好み、出席簿に「二保田は必ず最後に来る」と記されたという。
同年、学友会の討論会で「港は国家の肋骨である」と演説し、これがのちの港湾税制論の原型になったとされる。もっとも、彼のノートには港と肋骨の関係図が鉛筆で何度も描き直されており、当時から比喩の強引さは際立っていた。
政界入り[編集]
卒業後はに入省し、主としてに勤務した。終戦直後の混乱期に税収予測表を短期間で再構成したことから注目され、[[1947年]]にから衆議院議員総選挙に立候補して初当選を果たした。
政界入りの契機については、新聞記者時代の知己であったの勧誘が有力であるが、本人は「選挙ポスターの髭が気に入った」と語ったこともあり、経緯は一貫しない。いずれにせよ、当選後は予算委員会の常連となり、「数字で相手を黙らせる男」として頭角を現した。
通商産業大臣時代[編集]
[[1963年]]、下でに就任した。二保田は輸出振興策の一環として、臨海工業地帯における夜間電力の割引制度を拡大し、これによりの製鉄所稼働率が一時的に9.7%上昇したとされる[3]。
当時の逸話として、会議で配られた新鋼材の見本を「これは鉄ではなく未来の皮膚だ」と評した話がある。工業界では名言として扱われたが、彼自身は後年「あれは暑さで頭が回っていなかった」と述懐している。
内閣総理大臣[編集]
[[1972年]]、党内の調整の末にに就任し、二保田内閣を組織した。就任直後から、、の三本柱を掲げ、初閣議で「国家は大きな家計簿である」と発言したことが記録されている。
政権運営では、各省庁の会議時間を原則42分に制限する「四二分制」を導入した。官僚からは不評であったが、記録によれば会議件数は3か月で18%減少した一方、議事録の末尾に意味不明な数式が増えたという。
退任後[編集]
[[1974年]]に退任したのちも、二保田は新政会の最高顧問として影響力を保った。晩年はの別邸で過ごし、週に一度だけ秘書官を呼んで「国庫の机上整理」を行っていたという。
[[1987年]]に死去すると、政界では従一位追叙と大勲位菊花章頸飾の授与が決定された。葬儀では参列者の多くが黒いネクタイの裏に青い小さな紙片を忍ばせており、これは二保田が生前に「悲しみは青から始まる」と述べたためだとされている。
政治姿勢・政策・主張[編集]
内政[編集]
二保田の内政思想は、財政規律と自治体裁量の両立を目指す「折衷自治論」に集約される。彼は一極集中を批判し、地方港湾都市を「第二の首都圏」と位置づけたことで、やの港湾再投資が進んだと評価される。
また、税制では消費税的な広域負担の前身となる「生活整備付加金」を提唱したが、制度名が長すぎるとして与党内で難航した。結局、実務担当者が略称として「ニョ税」と書類に記したところ、二保田本人が「響きが軽すぎる」と却下したという。
外交[編集]
外交面ではの安定を最優先としつつ、との経済技術協力を拡大した。とくにとにおける港湾技術研修団の派遣は、のちの海運政策に影響したとされる。
一方で、会談の冒頭で必ず相手国首脳の年齢を先に確認する癖があり、外務省関係者はこれを「年齢先行外交」と呼んだ。相手に心理的優位を与えないための工夫であったとも、単に名簿の字が見えにくかっただけとも言われる。
人物[編集]
性格・逸話[編集]
二保田は寡黙である一方、身内には妙に饒舌であり、深夜の政務室での食べ方を20分かけて講釈したという逸話が残る。秘書の証言によれば、彼は机上の灰皿を必ず東西南北に向け直してから会議に臨んだ。
また、来客の名刺を受け取ると必ず裏返し、紙質を指で弾いてから返す癖があった。これは「紙は国の皮膚である」という持論によるが、本人の実家が紙商だったという説と、単に手癖が変だったという説が併存している。
語録[編集]
「予算は、削るより先に並べ替えるべきである」
「港に船が来ぬなら、会議を先に迎えに行け」
「にょほ、というのは笑いではない。判断の前に置く間である」
これらの語録は政務録に由来するとされるが、後年の回想録ではかなり誇張されており、実際には「うむ」「そうか」が半分を占めていたとの指摘がある。
評価[編集]
二保田は、戦後日本における「官僚出身の実務型政治家」の代表格として評価される一方、政治的な情念を数字に置換しすぎる傾向があったとして批判も受けた。特にをめぐる強硬な進め方は、地方議会との摩擦を生んだ。
しかし、地方財政の再配分を体系化した点や、災害時の物流確保に先見性を示した点は高く評価されている。なお、一部の経済史研究では、彼の政策によって「首都圏の朝刊到着が平均7分早まった」とまで算出されているが、算定方法はかなり怪しい[4]。
家族・親族[編集]
二保田家は、堺の廻船問屋から転じた地方名望家の系譜にある。父・二保田庄三郎、母・キヨのほか、弟の二保田義春は議員を務めたとされ、政治家一家として知られる。
妻の瑞枝は旧姓・で、の出身であった。長男の正巳は銀行員、次男の寛は外交官となり、長女の澄子は地方紙の編集委員、次女の百合は学校法人の理事を務めたという。家族写真では、全員がなぜか同じ角度で首を傾けていることで有名である。
選挙歴[編集]
[[1947年]]の衆議院議員総選挙でから初当選を果たしたのち、以後9回連続当選した。特に[[1955年]]の選挙では、得票率41.8%ながら投票所ごとの偏りが極端で、「港沿いに強い候補」と新聞に書かれた。
[[1969年]]にはの公認をめぐって一時無所属となったが、地元支援団体「浜寺を守る会」の動員で再選した。選挙カーの上で必ず1分だけ沈黙する演出は二保田の代名詞となり、対立候補が逆に落ち着きを失うと評された。
栄典[編集]
[[1987年]]、死去に伴いが追贈されたほか、を受章した。生前には、も受けている。
また、およびから名誉市民を贈られたとされるが、本人が受け取った記念盾を「大きすぎて机に入らない」として書斎の天井に立てかけていたため、晩年の来客は常にそれを見上げることになった。
著作/著書[編集]
二保田は著作家としても知られ、『港と国家会計』(1966年)、『自治は静かな積み木である』(1970年)、『にょほと国家』(1978年)などを著した。特に『にょほと国家』は刊行初週で3万8,400部を売り上げ、霞が関の若手官僚に広く回し読みされたとされる。
なお、晩年の口述筆記をまとめた『四二分で終わる会議』は、表紙だけで厚さ1.7センチあり、本文は余白が異様に多かったことから、編集者の間で「もっとも静かなベストセラー」と呼ばれた。
関連作品[編集]
二保田を題材にした作品として、テレビドラマ『港は黙っている』(NHK、1984年)、映画『四二分制の男』(東宝、1991年)、舞台『にょほ、議場にて』(劇団青椅子、2003年)がある。
また、1970年代後半には『二保田マーチ』と呼ばれる応援歌が商店街で流行したが、歌詞の「にょほ」の部分だけ妙にキーが高く、カラオケではたびたび失敗曲として扱われた。
脚注[編集]
注釈
[1] 二保田が「にょほ」と発音した記録は、所蔵の速記録に見えるとされるが、判読には異論がある。
[2] 五七調原稿の習慣は、秘書官・の回想による。
[3] 夜間電力割引の効果測定には特別号が用いられた。
[4] 朝刊到着時間の改善は、新聞販売所連合会の内部資料に基づくとされるが、再現性は確認されていない。
出典
1. 佐伯義隆『戦後政財界の音声史』中央公論新社, 1998年. 2. 野村静一『港湾国家論とその変奏』東京大学出版会, 2004年. 3. Margaret H. Kline, "Fiscal Articulation and Local Autonomy in Japan", Journal of Pacific Policy Studies, Vol. 12, No. 3, 1976, pp. 41-67. 4. 中川俊夫『二保田政権の四二分制』岩波書店, 1988年. 5. 斎藤みどり『昭和政治家の語録集成』河出書房新社, 2001年. 6. Robert J. Ellison, "The Nyohota Doctrine and Maritime Logistics", Asian Political Review, Vol. 9, No. 1, 1980, pp. 5-29. 7. 山岸宏『首都圏物流と港湾再編』日本経済新聞出版, 1992年. 8. 杉本礼子『議場の沈黙と拍手』勁草書房, 2010年. 9. 「二保田正宗氏追悼特集」『週刊政治展望』第14巻第18号, 1987年. 10. Patricia S. Wren, "The Politics of Quiet Speech in Postwar Cabinets", The Kyoto Chronicle of Public Affairs, Vol. 3, No. 4, 1969, pp. 77-94.
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
二保田正宗記念館
昭和政治家アーカイブ
戦後内閣総理大臣人物索引
港湾国家研究センター
議会速記デジタルライブラリ
脚注
- ^ 佐伯義隆『戦後政財界の音声史』中央公論新社, 1998年.
- ^ 野村静一『港湾国家論とその変奏』東京大学出版会, 2004年.
- ^ Margaret H. Kline, "Fiscal Articulation and Local Autonomy in Japan", Journal of Pacific Policy Studies, Vol. 12, No. 3, 1976, pp. 41-67.
- ^ 中川俊夫『二保田政権の四二分制』岩波書店, 1988年.
- ^ 斎藤みどり『昭和政治家の語録集成』河出書房新社, 2001年.
- ^ Robert J. Ellison, "The Nyohota Doctrine and Maritime Logistics", Asian Political Review, Vol. 9, No. 1, 1980, pp. 5-29.
- ^ 山岸宏『首都圏物流と港湾再編』日本経済新聞出版, 1992年.
- ^ 杉本礼子『議場の沈黙と拍手』勁草書房, 2010年.
- ^ 「二保田正宗氏追悼特集」『週刊政治展望』第14巻第18号, 1987年.
- ^ Patricia S. Wren, "The Politics of Quiet Speech in Postwar Cabinets", The Kyoto Chronicle of Public Affairs, Vol. 3, No. 4, 1969, pp. 77-94.
外部リンク
- 二保田正宗記念館
- 昭和政治家アーカイブ
- 戦後内閣総理大臣人物索引
- 港湾国家研究センター
- 議会速記デジタルライブラリ