メイサンガリア戦役
| 名称 | メイサンガリア戦役 |
|---|---|
| 別名 | 梅山港争奪戦、三国塩税戦 |
| 時期 | 1898年 - 1901年 |
| 場所 | 南満洲沿岸、遼東半島北部 |
| 結果 | 三国共同監督化、塩税委員会の設置 |
| 関与勢力 | 日本、ロシア帝国、清、現地商人連合 |
| 主な原因 | 塩田の越境利用と灯台用石炭の横流し |
| 死傷者 | 戦闘死 417名、疫病死 1,203名とされる |
| 後継制度 | 梅山港臨時海関規程 |
メイサンガリア戦役(メイサンガリアせんえき、英: Meisangaria War)は、末から初頭にかけて沿岸で起きたとされる、とをめぐる地域紛争である。の三者が関与したと伝えられ、後年のに大きな影響を与えたとされる[1]。
概要[編集]
メイサンガリア戦役は、北西岸にある梅山港一帯で発生したとされる準軍事的衝突である。名称の「メイサンガリア」は、現地語の「梅山」と、航海図上の誤記「Garia」を併せたもので、のちに文書で慣用化したとされる[2]。
この戦役は通常の領土戦争というより、、、、および沿岸貨物の保管権をめぐる制度衝突として理解されることが多い。ただし、当時の記録には戦列艦の砲撃よりも、帳簿の差し押さえや通訳の引き抜きが頻出しており、実態は「戦役」というより大規模な行政事故に近かったとの指摘もある[3]。
歴史[編集]
発端[編集]
起源は冬、の塩商人組合が系の航路会社に対し、積荷検査料の免除を認めたことにさかのぼるとされる。これに対して地元の側監督官・が、塩田の境界杭を37本動かしたとして告発し、のちの紛争の火種となった。
3月、で開かれた非公式会合において、日本人通訳のが「梅山の塩は三国の胃袋を支える」と発言したと伝えられ、この文言が新聞により過度に拡大解釈された。実際には単なる宴席での比喩だったともいわれるが、翌週にはの商社が護衛船の派遣を検討しはじめたという。
戦闘の推移[編集]
初期の戦闘は、1898年夏に梅山港外ので起きた「塩俵事件」が象徴的である。これは日本側の倉庫船が、ロシア側の検問を避けるために夜間搬入を行った際、灯台守が誤って信号灯を3回ではなく8回点滅させ、これを増援要請と誤認したことに始まる。
その後、から派遣された警備艇2隻、清側の河川警備船4隻、さらに現地の商人連合が所有する曳舟11隻が入り乱れ、港湾は一時的に「世界で最も書類の多い戦場」と呼ばれた。なお、記録上の交戦は合計19回とされるが、そのうち7回は積み荷の押収命令をめぐる口論であった。
終結と講和[編集]
1月、における臨時協議で、三国は梅山港の共同監督に合意した。これにより塩税の徴収はが行い、灯台燃料は月ごとに各国が1/3ずつ拠出する制度が導入された。
もっとも、講和文書の最終条項には「海霧の濃い日は、いかなる国も勝利を主張してはならない」という奇妙な一文が挿入され、交渉担当者のが後年「最も平和的で、最も屈辱的な条項だった」と回想したとされる。これが後のにおける曖昧な共同管轄制度の先例になったという見方がある。
背景[編集]
梅山港一帯は、古くからとが入り組んだ地形で、税関・灯台・検疫の境界が曖昧になりやすかった。とくに後半には、港湾近代化の名目で敷設された桟橋が3か国の測量図でそれぞれ別の位置に描かれており、これが行政上の混乱を深めたとされる。
また、当時の国際情勢としては後の勢力再編と前夜の緊張が重なり、各国が「小規模だが象徴的な港」を強く意識していた。梅山港は軍事的価値よりも、塩と灯油の補給拠点として過大評価され、結果として各国の面子が必要以上に絡むことになった。
主要人物[編集]
日本側[編集]
日本側の実務責任者は海軍少佐とされる。彼は砲艦外交よりも帳簿外交を好んだ人物として知られ、戦役中に「港湾は、まず簿記で制圧されるべきである」と述べたという逸話が残る。なお、この発言は後年の講演録でしか確認できず、真偽は不明である[要出典]。
通訳として活動したは、官話に加えての港湾用語に詳しく、塩俵の単位換算をめぐって双方の怒りを鎮めた功労者とされる。
ロシア帝国側[編集]
ロシア帝国側では少佐が現地警備を統括した。彼は灯台の光度を「帝国の尊厳の単位」とみなし、石炭1トンあたりの照度まで交渉材料にしたと伝えられる。
一方で、彼の部下である測量士は、梅山港の潮位表を日記に細かく書き残しており、結果としてこの戦役に関する最も信頼できる資料が軍事記録ではなく潮汐メモだったことが知られている。
清側・現地勢力[編集]
清側の監督官は、塩田管理の厳格さで知られた人物である。彼は境界杭の移動を「領土の侵略ではなく、帳面の訂正にすぎない」と主張したが、これが逆に各国の不信感を煽った。
また、現地商人連合の頭目であったは、三国の貨幣を同じ秤で量る独自の換算表を作成し、戦役の混乱期に利益を最大化した。彼の事務所からは、後に「塩税と幸福は必ずしも比例しない」と書かれた帳簿が見つかっている。
戦術と後方支援[編集]
メイサンガリア戦役における特徴は、砲火よりも後方支援の過密さである。各勢力は小型砲艦や警備艇を動員したが、実際に勝敗を左右したのは、氷室、倉庫、通訳宿舎、そして灯台守の当直表であった。
とくに有名なのが「三重封印方式」で、これは押収した塩俵に、、の3種の封印を押す手続きである。封印の乾燥待ちに平均11時間かかるため、結果として兵站が膠着し、その間に商人たちが別の港へ荷を逃がす事態が常態化した。
社会的影響[編集]
戦役は港湾制度に長く影響を残し、には、、の港務局が「灯台燃料共同補給協定」を結ぶ契機になったとされる。また、梅山港で使われた塩税台帳の様式は、その後の東アジア沿岸の税関書式に影響を与え、罫線がやけに細かいことで有名になった。
民衆のあいだでは、この戦役をもとにした説話「三国の塩を盗んだ男」が流行し、芝居や講談で繰り返し語られた。なお、のには、梅山港の講和式を見物するために「商人87人、船頭143人、犬12匹」が集まったとの記述があるが、この数字は誇張の可能性が高い。
批判と論争[編集]
メイサンガリア戦役の実在性については、後世の研究者のあいだでも議論がある。とくにのは、主要な一次史料がいずれも港務帳簿の写しであることから、「軍事衝突の規模は戦役というより港湾行政の摩擦に近い」と結論づけた。
一方で、の民間史料館が所蔵する「梅山港雨天日記」には、連日の砲声とともに「本日も書類が届かず」と繰り返し記されており、これをどう解釈するかで対立が続いている。また、講和条約の副本に押された朱印が後から羊皮紙ごと貼り替えられた形跡があることから、外交文書そのものの信頼性を疑問視する声もある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 川村房吉『梅山港取締日誌』海軍省文庫, 1904年, pp. 17-48.
- ^ 林修二「メイサンガリア戦役再考」『東洋史研究』Vol. 42, No. 3, 1958年, pp. 201-229.
- ^ Sergei Ryabkin, The Tide Tables of Meisangaria, Imperial Maritime Press, 1902, pp. 5-61.
- ^ 渡辺精一郎『港湾通訳心得』文陽館, 1899年, pp. 3-19.
- ^ 劉徳順『梅山塩務録』奉天官報局, 1901年, pp. 88-114.
- ^ Margaret A. Thornton, Salt, Signal, and Sovereignty in Late Qing Harbors, Journal of Maritime Administration, Vol. 18, No. 2, 1976, pp. 143-170.
- ^ 趙万里『三国勘定帳』梅山商業会, 1902年, pp. 1-77.
- ^ ニコライ・P・ヴァルラーモフ「沿岸警備と灯台燃料」『帝国海軍月報』第9巻第4号, 1900年, pp. 12-34.
- ^ 佐伯友信『共同監督港の制度史』岩波港湾叢書, 1984年, pp. 211-260.
- ^ H. J. Pembroke, The Curious Case of the Meisangaria Docking Quotas, Proceedings of the Royal Asiatic Harbor Society, Vol. 7, 1906, pp. 9-26.
- ^ 木村玲子『書類が戦った海域――梅山港講和の実務』有斐閣, 1999年, pp. 55-93.
外部リンク
- 梅山港文書館
- 東アジア港湾史データベース
- 灯台燃料協定研究会
- 奉天近代海関アーカイブ
- 海霧条項コレクション