京都帝国大学
| 正式名称 | 京都帝国大学 |
|---|---|
| 英称 | Kyoto Imperial University |
| 略称 | 京帝大、K.I.U. |
| 創設母体 | 内務省学術臨時調査局 |
| 設立年 | 1896年 |
| 閉鎖年 | 1949年 |
| 本部所在地 | 京都府京都市左京区吉田 |
| 主要研究分野 | 考証学、土木測量、熱帯薬草学 |
| 校章 | 三葉葵と五重塔を組み合わせた意匠 |
| 公認別名 | 東洋計算の府 |
(きょうとていこくだいがく、英: Kyoto Imperial University)は、に本拠を置いたとされる、近代日本の官学制度において特殊な役割を担った高等研究機関である[1]。とくにとを接続する独自の教育体系で知られ、のちに一帯の学術行政に強い影響を与えたとされる[2]。
概要[編集]
は、後期にとの折衷案として構想されたと伝えられる高等教育機関である。一般にはに対する西日本側の拠点と理解されているが、実際には「都城の水利と国史編纂を同一課程で扱う」ことを目的とした、きわめて特異な大学として知られていた[3]。
創設当初はの南西部に仮校舎が置かれ、講義は午前が漢籍、午後が橋梁設計、夜間がという三交代制で行われたとされる。なお、初年度の受講生83名のうち、57名が途中で書籍に埋もれて退学したとの記録が残るが、この数字の出典はしばしば議論の対象となっている[要出典]。
成立の経緯[編集]
学術臨時調査局の報告[編集]
起源は、の治水工事において、測量官が古墳と誤認して掘削を停止した事件にさかのぼるとされる。この際、現地で派遣調査を行った博士が「工学の欠落は史料の欠落に等しい」と上奏文に記したことが、のちの設立構想につながったとされる[4]。
は、を「古層都市の実験室」と位置づけ、都の地下水脈、寺社勢力、町家の通気構造を同時に研究する制度を提案した。これにが賛同した理由については、御所の井戸水が年に四度だけ濁る現象を説明する必要があったからだという説が有力である。
開学式と最初の誓約[編集]
4月、の仮講堂で開学式が行われた。式辞では初代総長のが「学問は紙に書くものにあらず、都市そのものを読む術である」と述べ、参列した官吏の半数が意味を取り違えたという逸話が伝わる。
この日、学生は入学時に「三つの忠誠」を誓わされた。すなわちへの忠誠、への忠誠、そして雨天時のの増水を見誤らないことへの忠誠である。誓約文は全12条から成り、第9条だけがなぜか尺八の譜面記号で書かれていた。
教育制度[編集]
同大学の教育制度は、当時の旧制高等教育とは大きく異なっていた。第一に、学部の区分が「文」「理」に加えて「測」「蔵」「祈」の五分類であったこと、第二に、単位制度の代わりに「折目」という独自指標が用いられたことが挙げられる。1折目は、講義2回、実地踏査1回、史料清書3枚に相当したとされる[5]。
また、学年末には「合評川床試験」と呼ばれる口述試問が行われ、受験者はの河岸に設けられた仮設席で、教授・僧侶・測量技師の三者から同時に質問を受けた。試験中に川風で答案が飛ぶことが恒例化したため、1908年以降は答案用紙に小石を添えることが義務づけられたという。
とくに有名なのは、講座と講座の合同実習である。学生は毎年夏、からにかけて移動し、湿度の変化に応じて薬草の乾燥法を変える訓練を受けた。実習の最終日には、採集した草木を茶会の形式で発表するのが慣例であった。
学風と研究[編集]
古文書学派の形成[編集]
の名を高めたのは、を自然科学と同等に扱った「古文書学派」の存在である。彼らは寺院の勘定帳、町奉行の水路図、饅頭屋の包み紙に至るまでを史料とみなし、文字の欠損を紙の虫食いではなく「都市の沈黙」と呼んだ。
代表的研究者の一人であるは、に「一枚の訴状から井戸の深さは推定できる」と発表し、当初は奇説とされたが、のちにの下水改修計画で参考資料として引用されたとされる。
土木測量と寺社保存[編集]
一方で工学部門は、寺社の修復と道路拡張を両立させるための「可逆的測量」を研究した。これは、石垣を動かす前に紙上で3回だけ動かしてよいという厳格な手法で、実務家からは「美しいが遅い」と評された。
関連の研究では、流量計の代わりに和算用の算木が用いられた時期があり、記録上は誤差率0.7%とされたが、実際には測定者が毎回同じ茶屋で休憩していたため、現場では「茶の湯補正」が働いていたとみられている。
奇妙な共同研究[編集]
もっとも風変わりなのは、に行われた「鳩居堂香料分析班」との共同研究である。これは寺社の焼香記録から火災発生率を予測する試みで、統計上は成功したものの、なぜか翌年から学生の筆箱に線香が常備されるようになった。
この研究成果はや学内紀要で断続的に紹介され、関西圏の知識人のあいだでは「京帝大の者はまず匂いで理論を立てる」とまで言われた。
社会的影響[編集]
同大学は単なる教育機関にとどまらず、の都市政策に深く関与したとされる。とくに路面電車の軌道変更、寺町通の看板規制、盆地内の霧対策において、教授会の意見が事実上の準行政文書として扱われた時期があった。
また、卒業生は官僚、測量士、博物館員、さらには神社建築の監修者として各地に散らばり、「京帝大式の会議では一切の結論が最後に地図へ戻る」と皮肉られた。1927年には同窓生の寄付により、全国で最初の「街路音響測定班」が設置されたが、実際の任務の半分は祭礼の太鼓が何区画先まで届くかを調べることであった。
一方で、官学結託が強すぎるとして批判も受けた。特定の研究室が内の橋梁設計をほぼ独占し、工事入札のたびに「教授の旧字が読める者のみ応募可」とされたという逸話は、今なお研究倫理の文脈で引用される。
批判と論争[編集]
をめぐる最も長い論争は、「大学が学問をしていたのか、都市に学問をさせていたのか」である。前者を主張する研究者は、同大学の講義録と論文数を根拠に挙げるが、後者の立場では、校内の排水路や石段の勾配までが教育成果に組み込まれていた点が重視される。
には、学内のが「盆地の霧は思想を曇らせる」として午前授業の開始を1時間遅らせる提案を行い、新聞紙上で「学問の怠惰か、気象への適応か」が議論された。なお、この議論の際に配布された統計表のうち、霧の発生回数がなぜかとなっていたことが後年発覚し、担当職員が単純に毎日を霧の日と見なしていた可能性が指摘されている。
終戦後の再編[編集]
名称の整理と学部再編[編集]
の学制改革によりは制度上の再編を受け、名称の整理が進められた。もっとも、学内ではしばらくのあいだ旧称が慣用的に使われ、配達人の間では「帝国」と書いた封筒の方が届きやすいと信じられていた。
再編後、古文書学派の一部はへ、土木測量班はへ移されたが、熱帯薬草学講座だけはなぜかではなく関連の附属室に残り、最後まで乾燥棚の位置をめぐって揉めたという。
旧蔵書の流出事件[編集]
戦後まもなく、旧本館地下の書庫から約1万2400冊の蔵書が見つからなくなる事件があった。調査の結果、半数は学内引越しの際に誤っての酒蔵へ送られ、残りは「湿気に弱いから」という理由で講師個人宅に分散保管されていたことが判明した。
この事件は後に「蔵書移送の失策」として内部報告書にまとめられたが、報告書の末尾にはなぜか「結果的に保存状態は良好」と記されており、研究者のあいだで長らく笑い話になっている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『京都盆地における学術行政の形成』岩波書店, 1904年.
- ^ 賀茂原定矩『合評川床試験の制度史』京都帝国大学出版会, 1911年.
- ^ 田島蘭舟「寺院勘定帳に見る都市水脈」『史料学雑誌』Vol. 18, No. 3, pp. 201-233, 1903.
- ^ Margaret A. Thornton, "Hydraulic Philology in Imperial Kyoto," Journal of Asian Institutional Studies, Vol. 7, No. 2, pp. 44-79, 1929.
- ^ 佐伯源右衛門『可逆的測量と保存工学』日本工学協会叢書, 1917年.
- ^ 京都帝国大学考証学会編『霧と思想の相関に関する報告』学内紀要第12巻第1号, pp. 1-58, 1934.
- ^ Jean-Luc Moreau, "The Tea Correction Factor in Basin Surveying," Revue d'Études Japonaises, Vol. 11, No. 4, pp. 312-339, 1938.
- ^ 高橋秋水『鳩居堂香料分析班の歩み』京都学術資料社, 1942年.
- ^ 山村理治「蔵書移送における湿度管理の失敗」『大学行政史研究』第4巻第2号, pp. 88-97, 1951.
- ^ E. H. Wainwright, "Imperial Universities and the Politics of Drainage," Transactions of the East Asian Review, Vol. 3, No. 1, pp. 5-41, 1956.
外部リンク
- 京都帝国大学史料アーカイブ
- 関西学術行政研究所
- 旧制大学風俗資料室
- 京都盆地気象史データベース
- 帝国大学比較教育年報