呉織あぎり
| 名称 | 呉織あぎり |
|---|---|
| 別名 | 呉結び、あぎり織、港縁文 |
| 起源 | 18世紀末の瀬戸内沿岸 |
| 主な伝承地 | 広島県呉市、尾道市、倉橋島 |
| 関係組織 | 旧呉海事組合、瀬戸内民俗資料研究会 |
| 技法要素 | 二重経糸、結節染め、潮解整形 |
| 儀礼用途 | 船祝い、入港式、雨乞いの代替儀礼 |
| 代表的資料 | 『呉織口授抄』、渡辺精一郎旧蔵帖 |
| 保護状況 | 一部自治体で保存会活動が行われる |
| 関連年 | 1927年、1954年、1988年 |
呉織あぎり(くれおりあぎり)は、沿岸で発達したとされるとを組み合わせた民俗技法、およびその技法を継承する系譜の総称である。近代以降は東部の旧系港湾共同体に由来する「結節文様」の作法として知られている[1]。
概要[編集]
呉織あぎりは、の港町において、布地を織る工程と、船主・職人・女性祭祀者が歌を掛け合う工程とを一体化させた伝承である。表向きは「織物の一種」と説明されることが多いが、実際には布の目を揃える行為そのものが共同体の合意形成を象徴したとされる[1]。
名称の「あぎり」は、潮風を受けて布端が鳴る音を写したものとする説が有力である一方、方言の「上げる」に由来するという異説もある。なお、呉織あぎりを実演する保存会のなかには、織機の横に必ずとを置く流派があり、この点が後世の研究者を最も混乱させたとされる[2]。
歴史[編集]
成立[編集]
成立は年間、旧浦の船大工・赤羽与三右衛門が、船帆の補修布を目立たせず継ぐために考案したのが始まりとされる。与三右衛門は当初、ただの補修法として記録していたが、妻の千代が布の端に三度息を吹きかけると張りが増すことを見いだし、これが「息継ぎ」の所作として定着したという[3]。
一方、11年にの問屋がまとめた帳面には、呉織あぎりの見習いが「一反につき結びを九十一回まで」と指示されていた記述があり、実際には結びの回数が商品等級を示していた可能性が指摘されている。ただし、同じ帳面の余白に牡蠣の殻で押された印が残っており、研究者の間では「会計帳簿としては不自然だが、儀礼記録としては自然である」と評される。
近代化と再編[編集]
末期になると、呉織あぎりは軍需港湾の拡張とともに半ば忘れられたが、に立工業試験場の技師であった山根勇三が、廃倉庫で見つけた布片を「極めて合理的な結節構造」として再評価したことで再注目された[4]。山根は翌年、で開かれた地方工芸展示会に試作品を出品し、布を引くたびに小さく潮鳴りのような音が出ることから「港の楽器」と報じられた。
この再編期には、旧来の口承部分を削り、織りの技術のみを残す動きもあったが、内の保存家である須賀マツは「歌のないあぎりは網である」として強く反発したと伝えられる。なお、須賀が後年に残した『二十一番歌註』には、織機の踏み木を一日五百回踏むと足首が強くなるという記述があり、医療史の文脈でもしばしば引用されるが、信頼性には疑問がある[要出典]。
戦後と大衆化[編集]
以降、呉織あぎりは観光土産として簡略化され、周辺では小型の卓上織機を用いた「三分あぎり」が売られるようになった。これにより、かつては単位でしか扱えなかった文様が、ハンカチ大の土産布に収まるようになったが、保存会の間では「文様が縮むと語りも縮む」と批判された。
にはの地方特集で取り上げられ、布を織る音が「波の返し」として採録されたことから、以後は音響民俗学の対象としても扱われるようになった。放送当日、現場で実演した職人の一人がマイクに向かって「この糸は昨日の雨を含んでいる」と述べたが、録音された温湿度データは晴天を示していたため、編集部が困惑したという逸話が残る。
技法[編集]
呉織あぎりの基本は、二重経糸をわずかにずらして張り、緯糸を通したのちに潮解性のある糊で目を締める点にある。布面には、通常の織物では見られない小さな結節が等間隔に現れ、これが「港の星図」と呼ばれることがある。
最も特徴的なのは、織り手が布を引き上げる際に短い掛け声を発することである。掛け声は地域により「アギリ」「アゲロ」「ミナト」などに分かれるが、では三度目の掛け声だけ音程が上がるとされ、これが船の進水祝いと同じ拍であるという説明がなされる。なお、昭和期の民俗採集では、掛け声の直後に必ず茶をすすってから次の段に入る者が多く、調査票には「茶を飲まぬ者は長く続かず」と書かれている[5]。
社会的影響[編集]
呉織あぎりは、単なる工芸技術にとどまらず、港湾共同体における労務分配の基準としても機能したとされる。たとえば末期の船宿では、あぎり布を納品できる者が「潮見番」に、できない者が「水桶番」に回されたという記録があるが、これは半ば身分制に近い運用であった可能性がある。
また、布の目を整える作業が「心を整える」ことと結びつけられたため、戦後の内では地域学級の教材にも採用された。もっとも、当時の教科補助資料には、三角定規で結節間隔を測る奇妙な図版が残っており、教育現場で実際に再現できたかは疑わしい。
批判と論争[編集]
呉織あぎりをめぐっては、そもそも織物なのか儀礼なのかをめぐる論争が古くからある。工芸史学の立場では、実用品としての補修布にすぎないとする見方が根強いが、民俗学では「共同体の沈黙を可視化する装置」とみなす説が支持されている[6]。
さらに、にの古布市場で「呉織あぎり」と記された反物が大量に出回った件は、偽物騒動として知られている。調査の結果、半数以上が機械織りの模造品であり、しかも一部には当時まだ国内導入されていない染料が使われていたため、研究者のあいだでは「未来から来た伝承品」と冗談半分に呼ばれた。
保存と継承[編集]
現在、呉織あぎりはの有志団体「瀬戸内あぎり継承会」との共同事業として記録保存が進められている。年に一度、旧港倉庫を利用した実演会が開かれ、参加者は海水を混ぜた糊を前にして、まず布ではなく木札を織る練習をさせられる。
保存会によれば、2023年時点で正式に所作を再現できる者は県内外に27名しかいないとされる。ただし、そのうち4名は織機を使わず、手で糸を空中に結んで説明するだけで「再現可能」と認定されており、この基準の甘さが毎年議論になる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『呉織口授抄の系譜』瀬戸内民俗研究叢書, 1989年.
- ^ 山根勇三「港湾布地における結節構造の再評価」『広島県立工業試験場報告』Vol. 12, No. 3, 1928, pp. 41-67.
- ^ 須賀マツ『二十一番歌註』呉浦保存会私家版, 1956年.
- ^ Margaret A. Thornton,
- ^ Ritual Textile and Sound in the Inland Sea
- ^ Journal of Maritime Folklore Studies, Vol. 8, No. 1, 1974, pp. 15-38.
- ^ 岩崎宗助「潮鳴りと織機音の相関について」『民俗音響学紀要』第4巻第2号, 1991年, pp. 103-129.
- ^ 中村露子『呉の結びと共同体規範』中国地方文化社, 2004年.
- ^ Kenji Arai,
- ^ The A-giri Loom and the Politics of Port Labor
- ^ Asian Textile Review, Vol. 19, No. 4, 2007, pp. 221-246.
- ^ 広島県立歴史民俗資料館編『瀬戸内あぎり記録集 2023』, 2024年.
- ^ 佐伯一成「呉織あぎりの保存活動と観光化」『地域文化研究』第31巻第1号, 2018年, pp. 9-31.
- ^ 小田切真理子『海水糊の民俗学』港湾文化出版, 2015年.
- ^ 長谷川昇『未来から来た反物』呉学会資料, 1974年.
外部リンク
- 瀬戸内あぎり継承会
- 広島県立歴史民俗資料館
- 呉市文化財調査室
- 民俗音響アーカイブ港の音
- 旧呉浦資料デジタルコレクション