大和革命党
| 正式名称 | 大和革命党 |
|---|---|
| 英語名 | Yamato Revolutionary Party |
| 成立 | 1894年頃 |
| 解党 | 1932年頃 |
| 本部 | 奈良市高畑町(初期) |
| 機関紙 | 『やまと新報』 |
| 綱領 | 祝詞式綱領、三段転進論 |
| 党員数 | 最盛期で約1,280人とする説がある |
| 関連地域 | 奈良県、京都府、三重県北部 |
大和革命党(やまとかくめいとう、英: Yamato Revolutionary Party)は、後期にの在野知識人と旧士族層の一部によって結成されたとされる政治結社である。表向きは地方自治の拡張を掲げた穏健団体であったが、のちに「祝詞式綱領」によって独自の革命理論を形成したことで知られる[1]。
概要[編集]
大和革命党は、を中心に活動したとされる政治結社で、の拡充、祭祀財政の再編、古代都城の保全を主張したことで知られる。一般には地方改良運動の一支流と見なされることが多いが、党内では「国家の再革命は古層の言葉を蘇らせることから始まる」とされ、を政策文書に転用した点が特異であった。
設立の契機は、に近くの茶屋「松雲亭」で開かれた夜学会合であるとされる。参加者はの末裔、郷土史家、薬種商、そして当時に籍を置いていた青年思想家ら計17名であったという。なお、会合の出席簿には「狐一匹」と記された頁があり、後年の党史研究で最も議論を呼んだ資料とされている[2]。
歴史[編集]
結党と初期活動[編集]
結党当初の大和革命党は、いわゆる秘密結社ではなく、公開講演会と郷土誌の刊行を主軸とする緩やかな団体であった。初代代表に推されたのはで、彼はで国語を講じていた人物であると伝えられるが、同時に夜間は「神代行政学」を教えていたともいう。
1896年には機関紙『やまと新報』を創刊し、毎号の末尾に「県税は古墳の維持に優先すべきである」といった短文広告を載せた。発行部数は初回が412部、翌年には1,900部に達したとされるが、実際には茶屋と呉服店の帳簿を合算した数字ではないかとの指摘がある[3]。
祝詞式綱領の成立[編集]
党勢を決定づけたのは、に公表された「祝詞式綱領」である。これは政策項目を神事の文体で記す独自形式で、第一条は「県民の道路、まず清めらるべし」、第二条は「学制は年二回の祓を要す」といった具合であった。綱領草案はの神職・が起草したとされるが、実際には会計係の書き間違いから生じた案を全員が修正せず採択したという説もある。
この文体は東京の新聞各紙に強い印象を与え、は「新奇にして判じ難し」と評した一方、は社説で「地方政治の俳諧化」と批判した。もっとも、党内では文章の美しさよりも、条文が縦書き一行で収まりやすいことが実務上の利点として重視されていた。
拡張期と分裂[編集]
に入ると、大和革命党は南部と北伊勢に支部を置き、農会や青年団との連携を進めた。とりわけで行われた「茶葉と自治の夕べ」は参加者314名を集め、後年の党大会でも伝説的行事として語られた。会場にはなぜかの見学官が2名同席していたが、当人たちは「民謡調査」と述べたという。
しかし、拡張に伴って内部対立も深刻化した。保守的な「祭政調和派」と、急進的な「地名改称推進派」が対立し、の第四回大会では、奈良盆地の旧村名をすべて七五調に改める案が否決された。これを機に渡辺精一郎は代表を退き、後継のは党の路線を農村協同化へと修正したが、党員の一部は「革命の音がぬるい」として離脱した。
衰退と終焉[編集]
後半、大和革命党は各地の在郷軍人会や文化団体と接近しつつ、もはや政治結社というより郷土保存団体の様相を強めた。党本部はの元料亭に移転し、会議では革命よりも古瓦の仕分けが長く議論されたとされる。会員名簿の最終版には、実在の人物に混じって「飛鳥院の黒犬」「春日第三鹿」といった記載があるが、これは秘匿のための仮号であったという説と、単なる帳簿担当者の疲労であるという説が併存する[4]。
、党は「制度疲労により革命完了」との声明を発し、自然消滅に近い形で解党した。なお、最後の幹部会では、解党に代えて「無期限休会」が可決されたとも伝えられ、党史研究ではこの一点をめぐって現在も意見が割れている。
思想と組織[編集]
大和革命党の思想は、一見すると地方自治主義、文化財保護、農村改良の混成であるが、党内文書ではこれらが「古代国家の再起動」として一体化されていた。特に有名なのは「三段転進論」で、第一段階で道路と用水を整備し、第二段階で戸籍の呼称を改め、第三段階で祭礼を行政に接続するという、きわめて順序立った理論である。
組織面では、中央委員会よりも「社務局」と呼ばれる事務部門が強い権限を持っていた。ここでは議事録の書式、腕章の色、湯飲みの並べ方まで規定され、会議開始時には必ず産の墨を用いた署名が求められた。もっとも、末期にはその墨が不足し、代用として柿渋で署名した会員が21名いたと記録されている。
社会的影響[編集]
大和革命党は国政で大きな議席を得たわけではないが、地方の青年団運動や郷土史編纂に与えた影響は小さくないとされる。党の演説会で用いられた「古地名の復権」「道路は共同体の記憶である」といった表現は、のちの初期の地域改良論にしばしば引用された。
また、党が編集した『大和年中行事図録』は、の先駆的資料として扱われることがある。もっとも、図録の付録に「古墳の周囲三十六歩以内では大声を慎むこと」とあるため、実務文書というより生活規範集に近い。これが近隣自治体の騒音条例に転用された例もあるが、出典は不明である。
批判と論争[編集]
大和革命党に対する批判は、当初から「政治と祭祀の混同」であった。とりわけの調査報告書では、党の集会が政治集会なのか、郷土芸能の稽古なのか判別しにくいとされ、監督官が二度にわたり会場を取り違えた記録が残る。
一方で、党の一部文書は後年になって改竄の疑いが指摘された。『やまと新報』第27号に掲載された「大和盆地の風向は革命に有利である」との一文については、天気図を誤読した可能性が高いとされるが、党史家のは「誤読こそ党是である」と反論している。こうした論争は、現在でも一部の郷土史愛好家の間で続いている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『大和革命党史草稿』高畑書房, 1936.
- ^ 井上菊三郎「祝詞式綱領の文体と政治性」『郷土政治研究』Vol. 12, No. 3, pp. 41-67, 1958.
- ^ 中村静庵『神代行政学講義録』春日印刷所, 1904.
- ^ Margaret H. Thornton, "Ritual and Reform in Provincial Movements," Journal of East Asian Civic Studies, Vol. 7, No. 2, pp. 88-121, 1971.
- ^ 松浦玄堂「大和革命党における社務局の権限」『近代地方史論集』第4巻第1号, pp. 5-29, 1964.
- ^ 田中雪雄『奈良盆地と革命の風向』青垣出版, 1949.
- ^ Akira F. Senda, "The Yamato Question and the Politics of Restoration," The Nara Review, Vol. 3, No. 1, pp. 1-24, 1982.
- ^ 小林三郎『古墳の周囲三十六歩』飛鳥文庫, 1951.
- ^ 佐伯百合子「郷土史編纂と青年団の接点」『地方文化』第18巻第4号, pp. 201-233, 1968.
- ^ Howard P. Merton, "When Tea Houses Became Parliaments," Cambridge Papers in Ritual Politics, Vol. 2, No. 5, pp. 77-90, 1990.
- ^ 大和革命党編『やまと新報総目次』大和革命党社務局, 1933.
- ^ 鈴木玄馬『革命完了論ノート』祝詞書房, 1932.
外部リンク
- 奈良近代政治史アーカイブ
- 郷土結社資料館オンライン
- 大和革命党研究会
- 近代祝詞文書データベース
- 旧日本地方結社年表集成