大関ノート
| 分類 | 相撲文化・私記帳・部屋内文書 |
|---|---|
| 成立 | 明治末期ごろとされる |
| 起源地 | 両国周辺の相撲興行圏 |
| 主な用途 | 昇進記録、体調管理、取組反省、番付予測 |
| 所蔵慣行 | 引退時に弟弟子へ譲渡されることが多い |
| 代表的様式 | 朱書き二段罫、付箋式索引、勝敗折れ線 |
| 関係団体 | 相撲協会記録保全委員会(通称) |
| 象徴色 | 深緑と朱 |
| 俗称 | 関取の帳面 |
大関ノート(おおぜきノート、英: Ozeki Note)は、の経験者が引退後に記すとされる、昇進・減俸・稽古法・体重変動を一冊に集約した私記帳である。もとは末期にの相撲興行界で生まれたとされ、のちに内の部屋制度と結びつき、半ば儀礼、半ば実務書として継承された[1]。
概要[編集]
大関ノートは、に昇進した力士が、稽古内容や取組の心理状態、食事量、腰痛の発生時刻までを書き留めるとされる帳面である。表向きは個人の備忘録であるが、実際には内での作法、番付運用、後進への戒めを兼ねる準公式文書として扱われたとされる[2]。
このノートが注目されるのは、単なる日記ではなく「昇進の代償を可視化する装置」として機能した点にある。すなわち、勝ち越しの快挙よりも、その後に訪れる取材増加、体重管理の失敗、締め込みの摩耗などが細かく記録され、初期の相撲界では、これを読むことで一門全体の戦略が立てられたという[3]。
成立と背景[編集]
大関ノートの原型は、ごろ近くの貸席で用いられた「番付覚え」だとする説が有力である。これは元来、茶屋の女将が力士の好物や怪我の癖を整理するために作った簡易台帳であったが、ある時期から大関経験者が自ら加筆するようになり、内容が急速に個人化したとされる。
特に40年代、の紙問屋・大井田文左衛門が製造した「三層和紙帳」が普及したことで、墨・朱・薄墨を使い分ける記法が定着した。これにより、稽古で成功した型を黒、禁忌を朱、番付変動の予想を薄墨で記すという、きわめて読みづらいが実用的な表現体系が成立したのである。なお、当初は横書きで書かれていたが、以降は縦書きが標準となった[4]。
書式と記載内容[編集]
基本構成[編集]
典型的な大関ノートは、左頁に稽古、右頁に飲食と体調を記し、巻末に「心持ち」欄が設けられる。心持ち欄には、対戦相手への敬意、土俵入り時の視線、髷の締まり具合などが短文で書かれ、空欄のまま提出すると一門長から再提出を命じられたという。ページ数は平均前後であるが、稀にを超える“二場所分合冊型”も存在する[5]。
数値記録[編集]
最も特徴的なのは、数値の異常な細かさである。例えば「夕食のちゃんこ鍋、白菜、鶏肉、味噌」「四股、すり足」のように、実戦に直結しない数字まで残される。大正期の系統では、体重の記録を単位で行う慣行があり、誤差が大きい日は紙面に『本日は湿度のため未確定』とだけ書かれた例がある[6]。
図版と付箋[編集]
また、ノートの余白には、土俵際の足運びを示す矢印図、負け越しの原因を示す蜘蛛の巣状メモ、さらには「観客の咳が遅い日」などという謎の観測記録が添えられることがある。昭和後期には、の印刷会社が製作した“回し貼り付け用付箋”が流行し、貼る位置で運気が変わるという噂まで広まった。
歴史[編集]
明治から大正[編集]
初期の大関ノートは非公開であり、実際には「勝負勘を盗まれぬための暗号帳」であったとされる。たとえばの「春ノ記」には、ある大関がの稽古場で一日二回だけ笑うと強くなる、という記述が残るが、真偽は不明である。これが部屋制度内で神秘化され、弟子が師匠のノートを覗く行為は禁忌視された。
昭和期の普及[編集]
、の老舗文具店が「関取用罫紙」として市販を始めたことで、一般力士にも大関ノートの写しが広がった。とりわけの開始後は、勝敗だけでなく姿勢や所作の自己評価が求められるようになり、ノートは半ば内省の記録として重視された。
一方で、には、ある大関がノートに「前夜のすき焼きが多すぎた」と正直に書いたため、翌場所の取組前に記者がその箇所を先に読み上げてしまい、会場が軽く騒然となった事件があったとされる。この件以後、食事欄には符丁を用いる者が増えた。
平成以降[編集]
期に入ると、ノートは紙から電子化され、内の一部部屋ではタブレット端末による「大関ノート・ライト」が試験導入された。だが、画面を素手で触ると運が逃げるという迷信が根強く、結局は紙に戻す部屋も多かった。なお、には相撲博物館で関連資料の小展示が行われ、来場者の約が「想像よりレシピ本に近い」と回答したという[7]。
社会的影響[編集]
大関ノートは相撲界内部にとどまらず、企業研修や部活動の反省帳にも模倣された。特に「成功した日の行動を定量化する」という発想は、内のスポーツ科学研究会や、周辺のゼミで引用され、自己管理の一手法として流通したとされる。
また、ノートの一部様式は書店の文具コーナーに逆輸入され、「大関式目標管理帳」として一般販売された。売上はのピーク時で月間に達したとされるが、購入者の多くは3週間で挫折し、余白に猫の絵だけが増える傾向があったという。
批判と論争[編集]
批判の多くは、ノートが力士の私生活を過度に数値化し、敗因を自己責任へと還元する装置になったという点に向けられた。とりわけには、一部の親方から「勝負は紙で取るものではない」との反発があり、記録の詳細さを減らすべきだという議論が起きた。
ただし、反対派の中にもこっそりノートを付ける者は多く、系統では「見せる用」と「焼却用」の二冊体制が慣例化したとされる。なお、ある研究者は「大関ノートの発達は、近代日本における感情労働の先駆的事例である」と論じたが、相撲界からは『そこまで深いものではない』と一蹴された[8]。
現存資料[編集]
現存が確認されているものとしては、の特別収蔵庫に保管される『大関ノート断簡集』、の民間相撲資料館にある『朱書き三号本』、およびの個人宅から見つかった『春雨帳』などがある。いずれも完全な形ではなく、頁の半分以上が汗染みで判読不能である。
中でも『春雨帳』は、雨の日だけ体重が増えるという謎の記述で知られ、研究者の間では「湿度を体格に組み込んだ唯一の大関ノート」として半ば伝説化している。なお、所有者が孫に譲渡を試みた際、誤って町内会の回覧板と一緒に綴じられたため、発見が10年遅れたという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『関取私記帳の成立と部屋内統治』日本相撲史学会紀要, Vol. 12, 第3号, 1998, pp. 41-68.
- ^ Margaret A. Thornton, "Quantification and Ritual in Ozeki Memoranda," Journal of East Asian Sports Studies, Vol. 8, No. 2, 2006, pp. 115-139.
- ^ 小林信太郎『大関ノート考—朱書き頁の文化史—』勁草書房, 2011.
- ^ 佐久間里子『近代相撲と身体記録』東京大学出版会, 2004, pp. 203-227.
- ^ Hiroshi Kaneko, "The Green Covers of Ryogoku: Stationery and Sumo Memory," Bulletin of Japanese Material Culture, Vol. 15, No. 1, 2014, pp. 9-33.
- ^ 宮城谷健『番付の心理学』岩波書店, 1997.
- ^ 田中芳樹『大関ノートと湿度の相関に関する覚え書き』相撲資料研究, 第7巻第1号, 2020, pp. 5-19.
- ^ Elizabeth K. Moore, "Scribal Discipline in Professional Sumo," Asian Studies Review, Vol. 31, No. 4, 2018, pp. 402-426.
- ^ 藤原恒雄『記録する力士たち』中央公論新社, 2009, pp. 88-104.
- ^ 大井田文左衛門『三層和紙帳製法とその応用』東京文具工業協会出版部, 1909.
外部リンク
- 相撲資料デジタルアーカイブ
- 両国私記帳研究会
- 関取文具史料館
- 大関ノート普及促進委員会
- 墨田区民俗文庫