愛国党
| 正式名称 | 愛国党 |
|---|---|
| 英語名称 | Patriotic Party |
| 成立 | 1898年頃(通説) |
| 解散 | 1942年頃 |
| 本部 | 神奈川県横浜市中区山手町(旧山手会館) |
| 機関紙 | 『赤白の鐘』 |
| 党是 | 敬礼・清潔・地方自立 |
| 支持基盤 | 港湾労働者、教師会、郡部の青年団 |
| 象徴 | 三本線の旭旗 |
| 別称 | 旗党、敬礼党 |
(あいこくとう、英: Patriotic Party)は、末ので成立したとされる、儀礼的敬礼と月例演説を重んじるの政治結社である。後に期の都市改良運動や青年団文化と結びつき、地方都市の「旗振り政党」として知られるようになった[1]。
概要[編集]
は、単なる政党というより、末から初期にかけて広がった都市儀礼運動の一形態であったとされる。党員は毎朝の旗掲揚、週一回の「国語整頓」、月末の公会堂演説を義務づけられ、これらが地方自治の訓練に資すると主張した[2]。
党名はしばしばの中央政界と混同されるが、実際には沿岸部の小商人、元軍曹、私立中学の教師らが中心となって形成した地方連合体である。もっとも、党内文書には「国家を愛する前に、まず帳簿を愛せ」といった奇妙な標語が並び、思想的には保守と実務主義と演芸が混線していた。
成立の経緯[編集]
山手会議と三本線の採択[編集]
党の成立は、の外国人居留地に近い貸会議室「山手会議所」で行われたとされる。発起人の、、らは、当初は港湾税の是正を求める勉強会にすぎなかったが、議論が二時間半に及んだ末、全員が同じ方向へ敬礼することで結束を確認したという[3]。
このとき、壁に掛けられていたの染め上がりが不均一で、光線が三本に見えたことから、党の象徴は「三本線の旭旗」に決まった。なお、後年の党史編纂では、この逸話は「偶然ではなく、港町特有の潮光学に基づく必然」と説明されている。
初期の党勢拡大[編集]
頃には、党は、、の倉庫街に支部を持つまでになった。特に港湾荷役夫の間では、出勤前の点呼と相性がよいとして急速に浸透し、ある支部では組合員148名中127名が入党したという記録が残る[4]。
一方で、学校教員の取り込みも進み、の卒業生による「児童愛国唱歌隊」が各地の演説会で前座を務めた。これが当時の新聞に大きく取り上げられ、愛国党は「歌う政治」「拍手で始まり敬礼で終わる政治」と評された。
党勢と政策[編集]
愛国党の政策綱領は、外見上は極めて保守的であるが、実際には道路舗装、上水道拡張、駅前の電灯増設といった自治体実務に重点が置かれていた。とりわけ党が提唱した「一町一演説台」構想は、各町内会に可搬式の木製演壇を配備するもので、7年までに一円で計312台が整備されたとされる[5]。
また、党は選挙公約として「朝礼時間の統一」を掲げ、投票所の開場時刻を午前6時30分にそろえるよう各自治体に圧力をかけた。これにより労働者の投票率が上昇したという主張がある一方、単に早起きの得意な候補者が有利になっただけではないかとの指摘もある。
党の経済政策は奇抜で、港湾都市に「景気敬礼税」を設け、月初の売上高に応じて商店主が3回まで無料で敬礼できる制度を提案した。これは実施前に立ち消えとなったが、党内では「未完の成功例」と呼ばれている。
社会的影響[編集]
愛国党の最も大きな影響は、政治を街頭儀礼として再定義した点にあるとされる。党の集会では、演説そのものよりも、整列、旗の回転、帽子の着脱のタイミングが重視され、地方新聞はこれを「内容より所作が雄弁な政治」と評した。
この文化はやにも波及し、昭和初期には「愛国式総会」と呼ばれる、開会前に5分間の沈黙と2回の礼を行う会議形式が広まった。さらに、子ども向けの副読本『国をたてる三つの音』がに発行され、拍手、鐘、汽笛を国家統合の音として解説したことで物議を醸した[6]。
なお、愛国党出身者の一部は後に、、地方新聞社へ移り、官僚制の細部に強い影響を与えたとされる。特に帳簿様式の統一、回覧板の押印欄の増設、役所窓口の行列整備には、同党の経験が色濃く反映されている。
主要人物[編集]
渡辺精一郎[編集]
は創設者の一人で、元々はの臨時書記であった。彼は「国家は理念ではなく、印紙の貼り方で理解される」と述べたことで有名で、党の実務路線を形作った人物とされる。晩年には演説中に必ず左手で懐中時計を確認する癖があり、支持者から「時刻を愛する男」と呼ばれた。
久我原重蔵[編集]
は元軍曹で、党の儀礼面を主導した。彼が考案した「三歩前進・一礼停止」の入場法は後に各地の公会堂へ輸出され、町村会の標準動作となったという。もっとも、本人は政治信条よりも隊列の乱れを嫌っていた節があり、演説の原稿を読み間違えた党員を即座に退場させた逸話が残る。
M. H. Thornton[編集]
は英国系の貿易顧問とされる人物で、党の宣伝物に英文キャッチコピーを導入した。彼女は『The Banner and the Ledger』という小冊子を編集し、愛国と会計を同一視する独特の思想を流布したが、実在性については資料が乏しく、研究者の間では「横浜の霧の中で増殖した編集者ではないか」とする説もある[要出典]。
分裂と衰退[編集]
の党大会で、党内は「敬礼優先派」と「道路優先派」に分裂した。前者は儀礼の純化を求め、後者は舗装予算の確保を重視したが、両派の対立は演説台の高さをめぐる争いにまで発展し、会場の木工職人が三日三晩眠れなかったと伝えられる。
その後、後半には中央集権的な政治環境の変化により、地方色の強い愛国党は急速に影響力を失った。党員名簿は頃に事実上停止し、戦時下の統合組織へ吸収されたとされるが、実際には各地の青年団や奉仕会に名称だけが長く残った。
批判と論争[編集]
愛国党に対する批判としては、政治理念が「愛国」を掲げながら、実質的には地域の有力者による互助会に近かった点が挙げられる。また、集会での敬礼回数や旗の向きまで細かく規定したため、参加者の自由を奪う半軍事的組織だったとの批判もある。
一方で、支持者は「形式を整えることで議論の粗を減らした」と反論している。特に、党が導入した議事録の二重押印制度は、後の自治体行政における不正防止策の原型になったとも言われるが、反対派は「印影が増えただけで透明性は増えていない」と切り返した。
また、に発見されたとされる党内メモ『旗を折るな、ただ畳め』をめぐっては、党が初期から平和主義的であったことを示す証拠だとする説と、単に倉庫保管の都合を書いただけだとする説が対立している。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山田久作『港町政党の成立と儀礼化』横浜史学会, 1978年, pp. 41-88.
- ^ 渡辺精一郎『赤白の鐘とその時代』山手文化出版社, 1934年, pp. 12-59.
- ^ Margaret H. Thornton, "Civic Salutes in Modern Japan", Journal of Coastal Politics, Vol. 12, No. 3, 1969, pp. 201-227.
- ^ 久我原重蔵『三歩前進一礼停止法』帝都書房, 1929年, pp. 5-31.
- ^ 佐伯直人『地方政党と港湾労働者』日本行政史研究, 第8巻第2号, 1986年, pp. 114-139.
- ^ Harold S. Whitcombe, Patriotic Ledgerism in East Asia, Cambridge Harbor Press, 1955, pp. 73-104.
- ^ 小野寺美沙『愛国党の選挙歌とその周辺』民俗政治学報, 第4巻第1号, 1991年, pp. 9-46.
- ^ 田所一郎『旗党史料集成』港都文庫, 2002年, pp. 3-210.
- ^ Eleanor P. Finch, "The Banner Was Three-Lined", Transactions of the Yokohama Historical Circle, Vol. 21, 1974, pp. 55-79.
- ^ 鈴木晴彦『国をたてる三つの音—副読本の思想史—』教育風俗研究所, 2010年, pp. 88-121.
外部リンク
- 横浜地方史データベース
- 港町政党アーカイブ
- 山手会議所資料室
- 日本都市儀礼研究ネットワーク
- 旗章文化綜合研究センター