望月牧合戦
| 名称 | 望月牧合戦 |
|---|---|
| 戦争形態 | 局地衝突・牧場争奪戦 |
| 年月日 | 天正12年7月頃 |
| 場所 | 甲斐国望月牧一帯 |
| 結果 | 望月牧管理権の再編 |
| 交戦勢力 | 望月牧奉行方、諏訪系牧守方、周辺国衆連合 |
| 兵力 | 推定1,200名前後 |
| 損害 | 死者37、負傷者91、馬の流出143頭 |
| 主な史料 | 『牧帳附録』、『甲州軍馬記』 |
望月牧合戦(もちづきまきかっせん)は、に東縁ので発生したとされる、をめぐる局地衝突である[1]。のちに上の転回点として語られ、の軍事・牧制研究においてしばしば引用される[2]。
概要[編集]
望月牧合戦は、の山間放牧地であるをめぐって起きたとされる衝突である。一般には滅亡後の牧地再配分に伴う混乱の一環として説明されるが、実際には馬の徴発権、蹄鉄の補給権、さらには冬季の「草の三分配」をめぐる細目争いが中心であったとされる[1]。
この事件は規模こそ小さいものの、周辺の・・から牧士が集結したため、後世の編纂史料ではしばしば大戦のように描かれた。また、当時の文書に「牧における面目」「馬の先争い」といった独特の表現が残ることから、軍事史だけでなく農政史・動物管理史の文脈でも注目されている[2]。
背景[編集]
望月牧は、において甲斐と信濃の境目に置かれた半公的放牧地であり、の末期には名目的に系の牧守が管理していたとされる。しかし年間に入ると、周辺の国衆が軍馬の調達を急ぎ、牧地の境界杭を年に3回も打ち替える慣行が常態化した。これにより、毎春の「入牧式」が実質的な権利確認の場となった。
さらに、頃から南麓で凍結被害が続き、牧草の生育が不安定になったことが争いを激化させたとする説が有力である。『牧帳附録』によれば、この年の牧草収量は平年比で67%に落ち込み、牧守の間で「三日おきの馬替え」が義務化されたという。なお、この数値は後世の写本で過度に整えられた可能性が指摘されている[3]。
経緯[編集]
牧場封鎖と初動[編集]
天正12年初夏、望月牧の東口に設けられた木柵が夜半に倒され、の牧士16名が通行不能となったことを契機として、両派はそれぞれ「先に柵を見つけた者が境を得る」とする古い慣例を持ち出した。これに対し、望月牧奉行方はではなく、馬を驚かせる目的で銅鑼9面を用いたと伝えられる。
最初の衝突は、牧の中央にある給水池「一斗沢」で生じた。ここで双方が水桶を引き合い、結果として桶3個が破損、うち1個は後にの古物商に渡ったという記録がある。史料上は小競り合いであるが、現地伝承では「水桶の飛距離が二十間を超えた」と誇張され、のちに武勇譚として流布した。
主力の到着[編集]
7月上旬、経由で周辺勢力が加勢し、兵力は合計1,200名前後に膨れあがったとされる。もっとも、実態は弓持ち、草刈り役、馬方、境界見届け役が混在しており、現代の研究では「戦闘員と事務方の区別がつきにくい典型例」と評される。
午後二刻、望月牧奉行方は、馬を横一列に並べて「牧壁」と呼ばれる進路遮断を行った。これに対して諏訪系牧守方は、馬の首に白布を巻き、敵味方を識別する代わりに「所有権の未確定」を示したとされる。この布が風で絡まり、騒動が一時的に拡大したことが、戦いの象徴的場面として記憶されている。
終結[編集]
夕刻、から来た調停役・が、牧地中央の石塔に和紙を巻き付け、「来月まで一切の入牧を停止する」との裁定を読み上げたことで、双方は一応の停戦に入った。だが、夜になると負傷馬の引き取りをめぐって再び口論が起き、翌朝までにさらに7頭が逸走したという。
この結果、望月牧は名目上側の統括下に置かれたが、実際には年2回の共同管理へ移行した。後世の郷土史ではこれを「妥協による勝利」と表現することが多いが、牧士の間では単に「馬がいなくなったから終わった」と語られることもある。
影響[編集]
望月牧合戦の直接的影響として、一帯では牧地の境界確認に文書を要する慣行が定着した。これにより、境界札、写し帳、見届け証文が大量に作成され、としては珍しく、合戦後に書類仕事が急増した事件として知られている[4]。
また、この衝突は成立後の馬政にまで影響を及ぼしたとされる。とりわけのは、軍馬調達の安定化を目的として、牧場ごとの「年貢ならぬ年草」を数式で管理する方式を採用した。これが後の「牧高制」の原型になったとする説があるが、同時代史料との整合性には疑義もある。
社会文化面では、「望月牧を越える」という言い回しが、無理難題を押し通そうとすることの比喩として甲州方言圏に残った。なお、期の郷土教育では、この戦いを「馬と境界の民権運動」と説明した教科書が一時期使われたが、現在では編集方針が過度に独創的であったとして問題視されている。
研究史・評価[編集]
近世から明治期の解釈[編集]
近世の地誌類では、望月牧合戦はしばしばの最後の抵抗として描かれた。一方、期の歴史家・は、これを軍事衝突ではなく「牧地行政の暴発」と分類し、史料にみえる刀傷の記述は実際には囲い柱の裂傷ではないかと指摘した。彼の論考は当初ほとんど注目されなかったが、後に牧政研究の基本文献となった。
戦後研究と再評価[編集]
40年代以降、との共同調査により、牧地周辺の炭化種子や蹄鉄片が発掘され、事件の実在性は概ね肯定された。ただし、出土した蹄鉄のうち3点は明らかに期製であり、展示の際に一度だけ「時空を超えた資料」として紹介されたことがある[5]。
現在では、望月牧合戦は単なる地方抗争ではなく、からへ移る過程で、共有資源の管理が武力と書類の双方により再編されていく典型例として評価されている。もっとも、地域の保存会は「合戦」と呼ばれること自体に違和感を示し、毎年の再現行事では参加者の多くが軍装よりも草鞋と縄を重視している。
遺産と影響[編集]
望月牧合戦に由来するとされる慣習の一つに、毎年7月の「牧見回り」がある。これは東部の複数自治体で行われる行事で、境界杭の点検と馬鈴薯の出来具合を同時に確認するという、やや珍しい運用が続いている。観光資源としては成功しており、周辺では「牧合戦弁当」が販売され、楕円形の飯団子の中央に干し肉を1本差すのが正式とされる。
また、以降の地域振興では、事件を題材にしたAR展示が公開され、来訪者はスマートフォン越しに「馬が柵を押し戻す様子」を閲覧できる。もっとも、演出の一部で馬の数が実際より8倍に増やされており、公式説明文に小さく「再現イメージ」とあるのが親切である。
学術面では、牧地争いと軍事動員の接点を考える際の比較対象として、の遊牧地紛争やの放牧権争議と並べて論じられることがある。こうした比較研究により、望月牧合戦は日本史の局地事件でありながら、国際的な資源管理史の文脈にも位置づけられるようになった。
脚注[編集]
[1] 『牧帳附録』巻三、天正期写本。
[2] 佐伯直人「戦国期牧制と局地衝突」『甲斐史学』第18巻第2号、pp. 41-68。
[3] 内藤弥生「望月牧の草量推計をめぐって」『山岳牧政研究』Vol. 4, pp. 112-119。
[4] 渡辺精一郎『甲州牧制の形成』山陵書房, 1912年, pp. 203-219。
[5] 長野県立歴史館編『蹄鉄と境界札』展示図録, 1987年, pp. 9-10。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯直人『戦国期牧制と局地衝突』甲斐史学会, 1978年, Vol. 18, No. 2, pp. 41-68.
- ^ 内藤弥生『望月牧の草量推計をめぐって』山岳牧政研究所, 1994年, Vol. 4, pp. 112-119.
- ^ 渡辺精一郎『甲州牧制の形成』山陵書房, 1912年, pp. 203-219.
- ^ 小林忠雄『牧場と合戦の境界』信州文化出版社, 1966年, 第2巻第1号, pp. 7-33.
- ^ Margaret A. Thornton, "Horse Commons and Feudal Logistics in Central Japan," Journal of Comparative Pastoral Studies, 2008, Vol. 12, No. 3, pp. 201-228.
- ^ H. S. Bellamy, "A Border Skirmish over Grazing Rights in Kai Province," The Review of Eurasian Military Ecology, 1974, Vol. 6, No. 1, pp. 55-74.
- ^ 大久保宗一『境界杭の政治史』岩波書店, 2001年, pp. 88-104.
- ^ 牧野里恵『武士と馬の管理行政』吉川弘文館, 2010年, 第5巻第4号, pp. 133-150.
- ^ 長野県立歴史館編『蹄鉄と境界札』展示図録, 1987年, pp. 9-10.
- ^ 清水冬子『合戦より草刈りが強かった日』南窓社, 2018年, pp. 61-79.
外部リンク
- 甲州牧政アーカイブ
- 信濃境界史データベース
- 山岳牧場文化研究センター
- 長野県立歴史館デジタル展示
- 戦国牧制史料集成