村島根
| 名称 | 村島根 |
|---|---|
| 読み | むらしまね |
| 英語表記 | Mura-Shimane |
| 成立 | 1897年頃とされる |
| 主な地域 | 島根県西部、出雲平野周辺 |
| 関連制度 | 連村帳、輪番地割、郷社統合 |
| 提唱者 | 渡辺精一郎ほか |
| 影響分野 | 民俗学、地籍行政、観光史 |
村島根(むらしまね、英: Mura-Shimane)は、の集落行政と近代的な地籍整理が結合して生まれたとされるの地域概念である。西部を中心に、かつてのの連合体を単位として発達したとされ、現在では民俗学・都市計画・観光政策の境界領域で語られることが多い[1]。
概要[編集]
村島根とは、後期に内の複数のを、税制・祭礼・水利の単位として一体に扱おうとした行政実務から派生した概念である。今日では地理的な実体よりも、むしろ「村が島根に折りたたまれた状態」を指す学術用語として扱われることが多い。
一般にはの旧村落圏を中核とするが、史料によっては南縁から沿岸部まで広く含まれるとされる。境界がやけに曖昧であるため、研究者のあいだでは「面積よりも輪番回数で測るべき概念」とする説もある[2]。
成立の経緯[編集]
連村帳の導入[編集]
村島根の原型は、に地租改正補助局の嘱託であった渡辺精一郎が、出雲沿岸の二十四か村を調査した際に作成した「連村帳」に求められる。渡辺は各村の戸数、牛馬数、神社の氏子数、ため池の水深までを同一の帳簿に記載し、村同士の関係を「隣接」ではなく「循環」として把握した。
この帳簿では、毎年の税負担が周期で再配分され、春の畦直しと秋の祭礼が一枚の表で管理されていた。後年の研究者は、これが後の期の広域合併に先行する「半自治・半神事」モデルだったと評価している。
地割と方言の混線[編集]
にはが、海岸部の塩害対策として地割図を更新した際、方言差の大きい集落をあえて同一の字名として登録した。これにより、地籍上は一村でありながら、実際には三つの言い回しが並立する状態が生じた。
たとえば「畔」を指す語だけでも、北側では「くろ」、中腹では「さなべ」、南側では「ほりぎ」と記された事例があり、当時の測量官が「同じ田を三通りに呼ぶ以上、これは既に村ではなく村島根である」と日記に残したとされる[3]。
郷社統合との関係[編集]
からにかけて進められたの統合は、村島根の思想を宗教行政へ移植したものとされる。祭神を統合するかわりに、各村が持っていた太鼓の打数と提灯の色を保存する方針が採られ、結果として「神は一柱、担い手は十四組」という独特の運営形態が成立した。
この制度は効率化の成功例として県内で注目された一方、盆踊りの進行だけが無駄に複雑になったため、観光客が毎年6〜7人ほど迷子になるという副作用も報告されている。
制度としての村島根[編集]
村島根は、単なる地名ではなく、村落共同体を再編するための「可変単位」として機能した点に特徴がある。各村は独立して・・を維持しつつ、収穫期だけ共同倉庫と道路補修費を共有した。
の県議会資料によれば、村島根圏では道路延長1里あたりの祭礼数が平均2.8件とされ、これは当時の北部の約1.4倍であったという。なお、比較の根拠となった統計の一部は、後年「神輿の台車を道路長に換算していた可能性がある」と指摘されている[4]。
文化的影響[編集]
民謡と地図帳[編集]
村島根の広まりには、に刊行された『島根連村地図帖』の功績が大きいとされる。この地図帳では、集落ごとの境界線が実線ではなく、祭りの日だけ太くなる点線で描かれていた。
同書に付された民謡集『村をたたむ歌』は、参詣者の土産として人気を博し、最盛期のには年間約4万2千部を売り上げたとされる。もっとも、歌詞の三番だけが毎回違う村名に差し替えられるため、正確な収録版を特定するのは難しい。
観光政策への転用[編集]
戦後になると村島根は、系の観光企画により「歩いて見比べる村」として再利用された。案内図では、同じ田んぼが午前はA村、午後はB村、夕方はC村として紹介され、1日で三つの行政境界を踏破できることが売りにされた。
この企画はにの観光課で試験導入され、初年度だけで延べ1万8千人の来訪があったとされる。もっとも、帰宅後に「どの村で買った土産か分からなくなる」という苦情が相次ぎ、土産袋に村名印を二重押しする運用が追加された。
批判と論争[編集]
村島根に対しては、早くから「行政の効率化を装った文化の圧縮ではないか」との批判があった。の高森久子は、村島根が村の自立性を守ったのではなく、むしろ役場の都合に合わせて共同体を折り畳んだにすぎないと論じている。
一方で、支持者は「折り畳まれたからこそ残った語りがある」と反論した。実際、村島根圏では冠婚葬祭の返礼品の数え方が独自に保存され、昭和後期まで熨斗の幅で村境を見分ける慣習が続いていたという[要出典]。
また、の県文化財指定をめぐっては、対象が「村島根の景観」なのか「村島根的状態」なのかで議論が紛糾した。最終的には「状態も景観に含む」とする折衷案が採られたが、これにより指定文書が7ページも増えたと記録されている。
現在[編集]
現在の村島根は、行政区分としてはほぼ消滅しているが、民俗学・地域史・観光学ではなお生きた概念として用いられている。特にの地域文化研究では、過疎化した村を「消えた」のではなく「薄くなった村」として記述する際の重要語彙とされる。
また、近年はデジタル地図上で村島根を再現する試みも行われており、の共同研究では、旧村境をGPS誤差込みで復元すると、境界線が海側へ平均17メートルずれることが確認された。研究班はこれを「海に向かって拡張する村島根」と呼び、半ば冗談、半ば学術的に扱っている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『出雲連村帳の研究』島根県史料刊行会, 1902.
- ^ 高森久子『村島根論:共同体の折り畳みと再配列』東洋民俗叢書, 1964.
- ^ 島根県庁編『村島根関係地割図集 第2巻』島根県行政資料室, 1910.
- ^ M. A. Thornton, “The Mura-Shimane Compromise and Local Tax Rotation,” Journal of Rural Administrative Studies, Vol. 8, No. 3, 1931, pp. 114-129.
- ^ 佐伯直哉『郷社統合と提灯色の保存』地方宗教史研究, 第12巻第1号, 1978, pp. 41-58.
- ^ Harold K. Weller, “Circular Villages and Linear Myths in Western Honshu,” Geographical Review of Japan, Vol. 19, No. 2, 1954, pp. 201-223.
- ^ 山根千代『村島根観光試験記録』日本交通公社出版部, 1959.
- ^ C. Iwamoto & E. Fischer, “Folding Boundaries: A Case Study from Shimane Prefecture,” Asian Regional Policy Quarterly, Vol. 4, No. 1, 1988, pp. 7-26.
- ^ 島根大学地域文化研究センター『村島根のデジタル復元と境界誤差』研究紀要, 第31号, 2021, pp. 3-19.
- ^ 渡辺精一郎『村をたたむ歌:民謡と行政の交差点』出雲文化出版社, 1938.
外部リンク
- 島根県地域文化アーカイブ
- 出雲民俗地図研究所
- 村島根デジタル復元計画
- 連村帳資料室
- 西中国地方境界研究会