松平 八右衛門
| 人名 | 松平 八右衛門 |
|---|---|
| 各国語表記 | Hachiemon Matsudaira |
| 画像 | Matsudaira_Hachiemon.jpg |
| 画像サイズ | 220px |
| 画像説明 | 第2次松平内閣期の松平八右衛門 |
| 国略称 | 日本 |
| 国旗 | 日本の旗 |
| 職名 | 内閣総理大臣 |
| 内閣 | 松平内閣 |
| 就任日 | 1958年4月22日 |
| 退任日 | 1964年11月8日 |
| 生年月日 | 1898年4月17日 |
| 没年月日 | 1972年8月9日 |
| 出生地 | 愛知県岡崎市 |
| 死没地 | 東京都千代田区 |
| 出身校 | 東京帝国大学法学部 |
| 前職 | 内務官僚、新聞社顧問 |
| 所属政党 | 清政会 |
| 称号・勲章 | 従一位、大勲位菊花章頸飾 |
| 配偶者 | 松平 澄子 |
| 子女 | 松平 恒一、松平 みどり |
| 親族(政治家) | 松平貞次(父) |
| サイン | Hachiemon_Matsudaira_signature.png |
松平 八右衛門(まつだいら はちえもん、{{旧字体|松平八右衞門}}、[[1898年]]〈[[明治]]31年〉[[4月17日]] - [[1972年]]〈[[昭和]]47年〉[[8月9日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[位階]]は[[従一位]]。[[勲等]]は[[大勲位菊花章頸飾]]。第73・74代[[内閣総理大臣]]、[[大蔵大臣]]、[[外務大臣]]、[[内務大臣]]などを歴任した。
概説[編集]
松平 八右衛門は、戦後日本における「調整型保守政治」の完成者として位置付けられる政治家である。[[清政会]]の中枢にあって行政改革と財政再建を掲げ、官僚機構と地方利益の折衝を巧みに進めたことで知られる[1]。
一方で、松平は「沈黙の説得」と呼ばれた独特の答弁術を用い、記者会見では3分間の無言の後に要点のみを述べることで、かえって発言の重みを増したとされる。なお、この手法は後に[[日本放送協会|NHK]]の新人アナウンサー研修で「松平式間合い」として引用されたという[要出典]。
その経歴は、[[大蔵大臣]]としての金融統制、[[外務大臣]]としての対米通商交渉、そして第73・74代[[内閣総理大臣]]としての二期にわたる政権運営へと連なる。松平内閣期には、国鉄貨物の電算化試行、瀬戸内工業回廊計画、首都圏の深夜電灯規制緩和など、実務偏重の政策が並んだ。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
松平は[[1898年]]、[[愛知県]][[岡崎市]]の旧士族・松平貞次の長男として生まれる。家は[[徳川家]]の末流を称したが、実際には[[明治]]期に養子縁組を繰り返して家名を整えた家系であったとされる。幼少期から帳簿と地図を好み、村落の用水路改修に関する意見書を11歳で村長に提出した逸話が残る。
[[旧制第五高等学校]]への進学を望んだが、家計の事情により[[東京帝国大学]]への道を選んだ。父の松平貞次は、息子に「剣より算盤が家を救う」と述べたとされ、この言葉が後年の松平政治の基調になったとみる向きがある。
学生時代[編集]
松平は[[東京帝国大学法学部]]に[[1918年]]に入学し、当時の行政法学者・黒川敬三のゼミに所属した。そこで[[内務省]]の地方行政資料を精読し、自治体財政の均衡化を論じた卒業論文「府県補助金配分に関する数量的考察」は、のちに省内で秘かに回覧されたという。
同年、学生自治会の臨時委員に選出され、学内では「無言の討論王」と呼ばれた。これは討論会で最後まで挙手せず、締切直前に要点だけ述べて全体をまとめる癖に由来するもので、友人らは彼を「沈黙で人を動かす男」と評した。
政界入り[編集]
卒業後、松平は[[内務省]]に入省し、地方課・警保局を経て[[1929年]]に[[香川県]]の特別行政監督官に転じた。[[昭和]]初期の米騒動対策や港湾税の再編で手腕を示し、同年には[[衆議院議員総選挙]]に立候補するよう地元財界から強く要請された。
[[1932年]]、旧岡崎選挙区から初当選を果たした。選挙戦では「配るのではなく、戻す政治」を標語に掲げ、投票所の近くで握手をせず、代わりに政策要綱を封筒で配布したことが話題となった。これにより、彼は「地味だが落ちない候補」として清政会内で一目置かれるようになった。
大蔵大臣時代[編集]
松平は[[1952年]]に[[大蔵大臣]]に就任し、戦後復興期の財政収支均衡を最優先課題に据えた。特に「三段階予算整理令」と呼ばれる通達を主導し、各省の予算要求を3回に分けて査定する制度を導入したことで、霞が関に強い緊張感を生んだ。
この時期、彼は通貨安定のために全国の主要駅へ「臨時利子相談所」を設置したが、相談員の半数が税務署OBであったため、利用者からは「相談するほど税が増える」と揶揄された。もっとも、松平自身は「財政とは国家の礼節である」と述べ、無駄の削減を美徳として繰り返し説いた。
内閣総理大臣[編集]
[[1958年]]、清政会内の派閥調整の結果、松平は第73代[[内閣総理大臣]]に就任した。同年の組閣は、官僚出身者と地方選出議員を半々に配する異例の人事であり、「二重帳簿内閣」とも呼ばれた[2]。
第2次内閣では、首都圏の慢性的渋滞を背景に「道路静穏化法案」を提出し、主要幹線道路の一部を夜間のみ片側通行にする実験を行った。これに対して商工団体は激しく批判したが、松平は「物流は速度ではなく、確実性である」と答えたとされる。
[[1960年]]には第74代内閣総理大臣に再任され、[[日米安全保障条約]]改定後の国会混乱を収拾する役回りを担った。その後、対外経済の拡大を受けて東南アジア歴訪を行い、[[バンコク]]での演説では通訳を介さずに数字だけを並べる独特の外交を試みた。
退任後[編集]
[[1964年]]、東京オリンピック閉幕後の国政再編を機に退任した。退任後は清政会最高顧問に就いたが、実際には政策文書の最終校閲をすべて握り続け、「院政ならぬ原稿政」と呼ばれた。
晩年は[[千代田区]]の私邸で財政史研究会を主宰し、若手官僚に「国家の帳尻は最後に人格で合う」と説いた。[[1972年]]に死去し、葬儀には与野党の現職議員234人が参列したとされる。
政治姿勢・政策[編集]
内政[編集]
松平の内政は、中央集権を維持しつつ地方の裁量を限定的に広げる「制御された分権」を特徴とした。彼は地方交付税の配分式を改め、人口だけでなく「夜間灯火率」を算定要素に加えたことで知られる。
また、[[日本国有鉄道]]の赤字対策として貨物駅の統廃合を進めたが、同時に駅舎の待合室を図書室に転用する案を推進した。これにより、地方の小駅が「行政窓口兼読書室」と化し、住民の評判は概ね良好であった。
外交[編集]
外交面では対米協調を軸にしながら、対アジア援助の拡充を図った。松平は[[外務省]]の内部資料で「静かな同盟論」を提唱し、軍事より通商と港湾整備を先行させるべきだと主張した。
[[1961年]]の[[ワシントンD.C.]]訪問では、[[ジョン・F・ケネディ]]との会談で相互輸入枠をめぐり細部まで議論したとされる。なお、会談後に松平が「英語で話したのは7語のみで、残りは算盤だった」と日記に記したという逸話が残る[要出典]。
人物[編集]
性格・逸話[編集]
松平は寡黙で実務的な人物であったが、酒席では異様に細かい数字を挙げる癖があった。例えば、ある宴会で「三本締めは拍数が合わない」として、代わりに17拍の独自拍手を提案したため、同席者を困惑させたという。
また、[[岡崎市]]の旧邸には「政策メモ専用の引き出し」が48個あったとされ、1つでも間違った場所に書類が入ると翌朝まで機嫌が悪かった。秘書官はこの習性を「八右衛門カレンダー」と呼び、実際には毎日が締切であったと回想している。
語録[編集]
松平の語録として有名なのは「政治とは、国民に見えない場所で整える舗装である」である。
また、「予算は増やすものではない。通るように削るのである」とも述べたとされる。なお、地方演説では「港は海の玄関ではなく、国家の靴紐である」と発言し、新聞の見出しを賑わせた。
評価[編集]
松平八右衛門は、戦後保守政治の安定化に寄与した一方で、官僚主導を強めたとして批判されている。[[東京大学]]の政治学者・長谷川隆一は、松平を「選挙に勝つ能力より、政策を折り畳む能力に秀でた総理」と評した[3]。
一方で、地方自治体の財政再建に実効性を持たせた点は高く評価され、特に[[静岡県]]と[[広島県]]での港湾再編は「松平モデル」として長く参照された。もっとも、反対派からは「数字だけで国を運営しようとした男」とも批判され、後年の行政改革論争ではしばしば引き合いに出される。
また、松平内閣の政策文書には、担当官の筆跡が本人よりも美しかったために決裁が早まったという奇妙な記録が残る。これについては、秘書官が事実上の共同執筆者であったとの指摘がある。
家族・親族[編集]
松平家は、[[三河国]]以来の土着名望家を称する家系であり、父の松平貞次は旧制中学の校長を務めた人物であった。母の松平きぬは、地域の共同井戸の管理を担い、八右衛門の公共心に影響を与えたとされる。
妻の澄子は、東京女子高等師範学校出身で、戦時中は配給調整に関わった。長男の恒一は通商官僚、長女のみどりは地方新聞の論説委員となり、政治家一家というより「行政と新聞の家系」として知られた。なお、松平の甥にあたる松平義直は[[参議院議員]]を務めたとされるが、家系図には改竄の痕跡があるとの指摘もある。
選挙歴[編集]
松平は[[1932年]]の[[衆議院議員総選挙]]で初当選を果たしたのち、[[1942年]]、[[1946年]]、[[1949年]]、[[1952年]]、[[1955年]]、[[1958年]]、[[1960年]]の各総選挙に立候補し、いずれも当選したとされる。
特に[[1958年]]選挙では、対立候補が演説中に台風で三度も日程を変更した一方、松平は予定表を一切変えずに「雨ならば屋内、風ならば倉庫」と言って街頭を回った。この柔軟性が票に結び付いたとされ、岡崎選挙区では最高得票率58.7%を記録した。
栄典[編集]
松平は[[従一位]]を追贈され、[[大勲位菊花章頸飾]]を受章した。ほかにも[[勲一等旭日大綬章]]、[[文化勲章]]に準ずる特別表彰を受けたとする資料があるが、後者は内閣官房文書の整理過程で誤記された可能性が高い。
また、[[1965年]]には[[フランス共和国]]からレジオンドヌール勲章グランクロワを授与されたと伝えられるが、実際には同日付の式典で受けたのは記念盾のみであったという異説もある。
著作/著書[編集]
『財政は夜明けを待つ』([[1954年]])は、松平の代表的著作とされる。これは大蔵大臣時代の講演録を基にしたもので、税制と国土開発を一冊にまとめた異様に実務的な著作であった。
ほかに『静かな同盟論』([[1962年]])、『帳尻の哲学』([[1967年]])がある。なお、未刊行原稿『道路静穏化法の夢』は、本人の死後に秘書官が誤ってコピー機の下から発見したとされる。
関連作品[編集]
松平八右衛門を題材とした作品として、映画『夜の予算委員会』([[1975年]])、テレビドラマ『無言の総理』([[1989年]])、舞台『17拍の拍手』([[2008年]])が挙げられる。
また、[[NHK]]のドキュメンタリー『昭和の帳尻』では、松平の演説原稿に赤字で書き込まれた「削る」の文字が印象的に映され、政治家像より書類の山が主役になったことで話題となった。
脚注[編集]
注釈
[1] 松平家文書では生年が1897年とする系図も残るが、官報掲載は1898年である。 [2] 組閣人事の呼称は当時の新聞社説によるもので、政府公式文書では用いられていない。
出典
[3] 長谷川隆一『戦後保守政治の沈黙と調整』東京大学出版会、1978年、pp. 214-219. [4] 佐伯直人「松平内閣における道路政策の再検討」『公共政策研究』Vol. 12, No. 3, 1984, pp. 41-58. [5] 杉浦芳子『清政会史料集 第4巻』中央公論社、1991年、pp. 88-93. [6] 村瀬雄一「予算統制と行政礼節」『財政学季報』第27巻第1号、1966年、pp. 7-26. [7] 石黒一彦『松平八右衛門日記抄』みすず書房、2002年、pp. 5-14. [8] 山本紘平『昭和政治家列伝 帳尻篇』勁草書房、2011年、pp. 131-140. [9] Margaret L. Halloway, "The Quiet Alliance Doctrine in Postwar Japan", Journal of East Asian Policy, Vol. 8, No. 2, 1994, pp. 77-95. [10] 「松平八右衛門関係文書目録」国立公文書館、1974年版、pp. 1-32.
参考文献[編集]
長谷川隆一『戦後保守政治の沈黙と調整』東京大学出版会、1978年。
佐伯直人『道路静穏化法案をめぐる政治過程』有斐閣、1985年。
杉浦芳子『清政会史料集 第4巻』中央公論社、1991年。
石黒一彦『松平八右衛門日記抄』みすず書房、2002年。
山本紘平『昭和政治家列伝 帳尻篇』勁草書房、2011年。
Margaret L. Halloway, The Quiet Alliance Doctrine in Postwar Japan, University of California Press, 1994.
川島文子『総理の無言術』講談社現代新書、2006年。
中園啓一『財政国家の礼節』岩波書店、2018年。
大塚泰治『松平八右衛門の政治技法』PHP研究所、2020年。
藤堂真一『国会と拍手の社会史』法政大学出版局、2023年。
関連項目[編集]
[[清政会]]
[[戦後日本の政治]]
[[内閣総理大臣]]
[[大蔵大臣]]
[[地方交付税]]
[[官僚主導]]
[[戦後復興]]
[[岡崎市]]
[[三河国]]
[[東京帝国大学]]
外部リンク[編集]
国立国会図書館デジタルコレクション 松平八右衛門特集
首相官邸アーカイブ 松平内閣資料室
岡崎市史編さん室 松平家文書索引
日本近代政治人物事典オンライン 松平八右衛門項目
昭和政治口述史アーカイブ『松平語録』
脚注
- ^ 長谷川隆一『戦後保守政治の沈黙と調整』東京大学出版会, 1978年.
- ^ 佐伯直人『道路静穏化法案をめぐる政治過程』有斐閣, 1985年.
- ^ 杉浦芳子『清政会史料集 第4巻』中央公論社, 1991年.
- ^ 石黒一彦『松平八右衛門日記抄』みすず書房, 2002年.
- ^ 山本紘平『昭和政治家列伝 帳尻篇』勁草書房, 2011年.
- ^ 川島文子『総理の無言術』講談社現代新書, 2006年.
- ^ 中園啓一『財政国家の礼節』岩波書店, 2018年.
- ^ 大塚泰治『松平八右衛門の政治技法』PHP研究所, 2020年.
- ^ Margaret L. Halloway, "The Quiet Alliance Doctrine in Postwar Japan", Journal of East Asian Policy, Vol. 8, No. 2, 1994, pp. 77-95.
- ^ 藤堂真一『国会と拍手の社会史』法政大学出版局, 2023年.
外部リンク
- 国立国会図書館デジタルコレクション
- 首相官邸アーカイブ
- 岡崎市史編さん室
- 日本近代政治人物事典オンライン
- 昭和政治口述史アーカイブ