梅紅
| 氏名 | 梅紅(うめこう) |
|---|---|
| ふりがな | ばいこう |
| 生年月日 | 1874年2月11日 |
| 出生地 | 日本・ |
| 没年月日 | 1941年9月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 詩画家、色彩調合家、講演者 |
| 活動期間 | 1893年 - 1938年 |
| 主な業績 | 季節色宣言の提唱、梅紅式配色表の作成、紅暦会の設立 |
| 受賞歴 | 帝国装飾協会金章、東京色彩学会特別感謝牌 |
梅紅(ばいこう、 - )は、の詩画家・色彩調合家である。近代における「季節色宣言運動」の中心人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
梅紅は、明治末期から昭和初期にかけて活動した日本の詩画家・色彩調合家である。とくにの花弁に由来する赤系統の色調を、季節・感情・都市景観と結びつけて体系化した「梅紅学」の提唱者として知られる[1]。
その思想は、の商店装飾、の興行看板、さらには管下の色彩教育補助資料にまで影響を及ぼしたとされる。ただし、梅紅本人が残した記録は断片的で、同時代の証言には誇張も多い[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
梅紅は、の酒造家の次男として生まれた。幼少期から酒蔵の杉玉と梅干し壺の色差に強い関心を示し、母・梅野りつが節句ごとに作る紅梅色の布飾りを見て、後年の色彩観が形成されたと伝えられる[3]。
内の寺子屋で読み書きを学んだのち、の私塾「南蘭堂色学講習会」に通い、ここで独学の絵具配合法を磨いた。なお、この講習会は当時の記録では確認が難しく、梅紅本人の日記にのみ現れるため、研究者の間では半ば伝説化している[要出典]。
青年期[編集]
、19歳でへ移り、神田の下宿「松葉館」に住んだ。そこでの周辺に出入りし、のちに師と仰ぐ洋画家・遠峰章甫の講義を聴いたとされる。遠峰は油彩の理論を教えたが、梅紅はそれをほとんど無視し、代わりに紅茶・茜・梅酢・柿渋を混ぜた独自の試験紙を作成したという[4]。
には、の寄席で行った即興講演「紅は夜に強い」が評判を呼び、以後、新聞の文化欄にたびたび登場した。講演では色名を唱えるたびに白い扇を開閉する演出を用い、観客の半数が意味を理解しなかった一方、商店主からは「売り場が華やぐ」と歓迎された。
活動期[編集]
梅紅の活動が頂点に達したのは期である。に結成したは、月ごとに推奨色を定める私的団体であり、会員は最盛期でに達したとされる。会費は月額、ただし色見本帳の損耗が激しいことから、年2回の特別徴収が行われた[5]。
には『梅紅式配色表 初版』を刊行し、「梅紅一番」「梅紅七分」「薄暮の紅」など、独特の色名を整理した。同書はとで限定が流通し、表紙にはの赤レンガと梅枝を合成した図柄が用いられた。また、後の復興広告において、焼失した町並みを「再び紅を置くべき空白」と論じた一節が都市計画家に引用されたという。
にはの依頼で、の百貨店ショーウィンドーを統一監修した。そこでは午前・午後・夕暮れで色温度を変えるという手法が採用され、初日から見物客が集まったと報じられている。もっとも、実際には通行止めの都合で近隣住民が多く含まれており、純粋な鑑賞者数は不明である。
晩年と死去[編集]
に入ると、梅紅は体調不良を理由に表舞台から退き、の借家で執筆と弟子の添削に専念した。晩年は「紅は濃くなるほど静かになる」と語り、室内の壁を毎年少しずつ薄い桃色に塗り替えさせたという。
、の療養先で死去した。享年。葬儀では遺言に従い、棺の周囲にの梅干しと枚の未完成配色表が置かれたとされるが、この習俗は弟子たちの回想が一致せず、実際の配置は不明である[6]。
人物[編集]
梅紅は、極端に寡黙である一方、講演になると突然饒舌になる人物であったとされる。弟子たちの証言では、質問に対して「紅は説明するより先に匂いを持つ」と答える癖があり、意味は不明だが妙に記憶に残る発言として知られる。
また、生活の細部にこだわりが強く、箸の並べ方、原稿紙の罫線の濃さ、の喫茶店で供される砂糖の粒径まで記録していた。特に砂糖については、粒が以下だと「梅紅一番の発色を損なう」と主張したとされ、周囲は半ば迷信として扱っていた。
逸話としては、の講演会で照明係が赤ランプを点け忘れた際、梅紅が即座に懐中時計の裏面を観客に向けて「これで十分に紅い」と言い切り、拍手を浴びた件が有名である。
業績・作品[編集]
梅紅式配色表[編集]
代表作は『梅紅式配色表』であり、色相を季節・気候・感情に分けて整理した点が特徴である。特に「雨上がりの紅」「駅舎の紅」「未着信の紅」など、現代では再現困難な色名が多く含まれていた。
この配色表は、の包装指導資料や、の車内広告にも流用されたとされる。もっとも、実際に色見本がどこまで統一されていたかは不明で、刷り上がりごとに差異が大きかったという。
詩画集と講演録[編集]
『紅暦抄』『梅のある街角』『色は音を持つか』などの詩画集も刊行した。なかでも『色は音を持つか』は、にギャラリーで展示され、観覧者が作品の前で無意識に咳払いを控えたという奇妙な効果が報告された[7]。
講演録『紅の社会学』では、都市の看板、駅弁の包み紙、選挙ポスターまでを「紅の公共圏」として論じている。後年のデザイン史家はこれを先駆的と評価したが、実際には梅紅が締切直前に新聞広告を眺めながら書いた寄せ集め原稿だったともいう。
教育活動[編集]
梅紅はの外部講師も務め、には「季節色実習」を導入した。学生に梅干し、火鉢、夕焼け、奉書紙を並べさせ、三十分以内に「気分としての紅」を記述させる課題は非常に評判が悪かったが、卒業生の一部は後に百貨店宣伝部で重宝された。
また、の依頼で小学校向け副読本『いろとこころ』の監修も行ったとされる。ただし、採用されたのは第章の一部のみで、しかも赤鉛筆で大幅に削られていたため、彼の意図がどこまで反映されたかは議論がある。
後世の評価[編集]
梅紅の評価は、戦前には「異色の美術思想家」とされたが、戦後は「広告と教育をつなげた先駆者」として再評価された。とくにのシンポジウム以降、都市色彩計画の文脈でしばしば引用されるようになった。
一方で、梅紅学には恣意的な分類が多く、現代の研究者からは「体系というより大規模な情緒メモ」と批判されることもある。それでも、の老舗画材店やの商家に残る手書き見本帳には彼の影響が見られ、地方史の分野ではいまなお資料価値が高いとされる[8]。
なお、にで開催された回顧展では、来場者の約が梅紅を架空人物と誤認したという調査結果が掲示された。もっとも、これを受けて展示解説が一段と親切になったため、結果として来館満足度は上がったと報告されている。
系譜・家族[編集]
梅紅の父は伏見の酒造家・梅木嘉右衛門、母は梅野りつであったとされる。兄に梅木善次郎、妹に梅枝はるがいたという記録が残るが、同一寺の過去帳と食い違いもあり、家系の詳細には未確定部分が多い。
結婚については、に京都の書店員・筒井ふさと婚姻したという説と、生涯独身であったという説が併存している。少なくとも晩年に同居していた養女・梅紅子がいたことは複数の証言で一致しており、彼女が梅紅の原稿整理を担ったとみられる。
弟子筋には、デザイナーの、色名研究者の、百貨店宣伝技師のなどがいたとされる。彼らは後にそれぞれ異なる分野へ進んだが、共通して「紅を見ると手帳を開く癖」が残ったという逸話がある。
脚注[編集]
[1] 梅紅研究会『季節色宣言史』紅林書房、1938年、pp. 12-19。 [2] 田辺薫「明治末期の私設色彩運動」『東京デザイン史研究』Vol. 4, No. 2, 1972年, pp. 44-58。 [3] 京都府立文庫編『伏見商家聞書集』第7巻、1981年、pp. 201-205。 [4] 遠峰章甫『洋画講義録 追補版』青雲館、1904年、pp. 77-80。 [5] 紅暦会事務局『大正色目録』私家版、1919年、pp. 3-11。 [6] 佐伯みね「梅紅葬儀録の再検討」『神奈川郷土史紀要』第18号、1964年、pp. 9-15。 [7] Margaret L. Hargrove, "Color and Urban Mood in Prewar Tokyo," Journal of Aesthetic Urban Studies, Vol. 11, No. 1, 1987, pp. 101-119。 [8] 杉本礼一『都市包装と赤の系譜』港北出版、2009年、pp. 88-95。 [9] 黒田真理子『梅紅式配色表の復元と限界』彩光社、2016年、pp. 31-42。 [10] Thomas E. Wilby, "The Plum Red Problem: Notes on an Impossible Pigment," Proceedings of the Society for Imaginary Materials, Vol. 2, 1999, pp. 5-17。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 梅紅研究会『季節色宣言史』紅林書房、1938年.
- ^ 田辺薫「明治末期の私設色彩運動」『東京デザイン史研究』Vol. 4, No. 2, 1972年.
- ^ 京都府立文庫編『伏見商家聞書集』第7巻、1981年.
- ^ 遠峰章甫『洋画講義録 追補版』青雲館、1904年.
- ^ 紅暦会事務局『大正色目録』私家版、1919年.
- ^ 佐伯みね「梅紅葬儀録の再検討」『神奈川郷土史紀要』第18号、1964年.
- ^ 杉本礼一『都市包装と赤の系譜』港北出版、2009年.
- ^ 黒田真理子『梅紅式配色表の復元と限界』彩光社、2016年.
- ^ Margaret L. Hargrove, "Color and Urban Mood in Prewar Tokyo," Journal of Aesthetic Urban Studies, Vol. 11, No. 1, 1987.
- ^ Thomas E. Wilby, "The Plum Red Problem: Notes on an Impossible Pigment," Proceedings of the Society for Imaginary Materials, Vol. 2, 1999.
外部リンク
- 紅暦会アーカイブ
- 東京色彩学会デジタル年報
- 京都近代色文化資料室
- 梅紅式配色表復元プロジェクト
- 日本都市紅研究センター