海動説絶対主義
| 別名 | 潮流絶対論、海政一元論 |
|---|---|
| 提唱時期 | 1897年頃 |
| 提唱者 | 渡辺潮一郎、マージョリー・L・スノー |
| 中心地 | 東京、横須賀、気仙沼 |
| 主要機関 | 海軍省、臨時海洋調査委員会 |
| 主要概念 | 潮位主権、塩分行政、沿岸忠誠 |
| 影響 | 港湾政策、教育勅語改訂案、漁村自治運動 |
| 最盛期 | 1912年 - 1934年 |
| 衰退 | 1941年以降 |
| 標語 | 国は陸で考えず、海で決まる |
海動説絶対主義(かいどうせつぜったいしゅぎ、英: Oceanic Motion Absolutism)は、海洋の潮汐・黒潮・沿岸沈降を一つの政治原理として統合しようとした近代日本の思想体系である。主に後期から初期にかけて、の一部研究者と周辺の官僚により整えられたとされる[1]。
概要[編集]
海動説絶対主義は、国家の秩序や倫理をの挙動になぞらえて説明する思想である。とくには「民意の周期」、は「国運の持続」、は「制度疲労」の徴候とみなされ、行政や教育にまで応用されたとされる。
この思想は単なる比喩ではなく、港湾税率、灯台配置、さらにはの時間割にまで干渉した点で特異である。もっとも、資料の多くは関係者の回想録に偏っており、学説としての厳密性には当初から疑義があった[2]。
成立[編集]
通説では、海動説絶対主義の起点はので開かれた「沿岸行政と海象に関する非公開懇談会」に求められる。ここで地理学者の渡辺潮一郎が、満潮時にのみ書面がよく回覧されるという港町の慣習を見て「政治もまた潮に従う」と発言したのが嚆矢であったとされる。
ただし、より古い原型としてのオランダ語史料に見える「water-gezag」なる語を再解釈したという説もある。こちらは後年、海軍軍医の森川清造が著した『塩分と国家神経』に見られるが、用語の出典がやけに曖昧であり、要出典とされることが多い。
初期の支持者は学者よりも実務官僚であった。とくにの港湾課との漁業係が、台風被害の説明に便利だとして採用したため、思想は急速に「海のある県」へ広がったのである。
理論[編集]
潮位主権[編集]
潮位主権とは、行政権の正統性は平均海面からの高さに比例するという理論である。湾岸の埋立地よりも、のリアス式海岸の町村のほうが「統治感度」が高いとされた。海動説絶対主義の文献では、標高差1メートルごとに議決の硬直度が0.7%変化する、といった奇妙な数式が好んで示された[3]。
塩分行政[編集]
塩分行政は、住民の結束は血縁ではなく体液中の塩分濃度に左右されるという主張である。これに基づき、にはの一部で「塩分講習会」が試みられ、参加者312名のうち214名が味噌汁を飲み比べさせられた記録が残る。なお、記録簿では同事業が「衛生普及」とされているが、実際には海動派の勢力拡大策であったとみられる。
沿岸忠誠[編集]
沿岸忠誠は、国民は内陸よりも海岸線に対して忠誠を誓うべきだとする規範である。この思想を徹底した結果、のある村では、村歌の三番に「波打ち際を見よ」という一節が加えられた。後年、同村の元教員が「当時は村長より防波堤のほうが権威を持っていた」と回想している。
展開[編集]
になると、海動説絶対主義はの地理学・法制学・水産学の三領域にまたがる「学際運動」として整えられた。とくにの「第一回全国潮位会議」では、会場の温度が26.8度を超えると参加者の議論が極端に強硬になるという仮説が提出され、以後、会議室には氷嚢が常備された。
では、艦隊の運用と内閣改造の周期を関連づける試みが行われた。提案書では「艦船の進路変更は、閣僚の入れ替えよりも2.3日早く行うべき」と記され、実際に数回の人事異動に反映されたとされる。ただし、この部分は関係者が後年に誇張した可能性がある。
また、漁村振興策としての有明海沿岸で「満潮時の公会堂開会」が実施されたことがある。出席率は通常の68%から81%に上昇したが、帰宅時刻が潮位に左右されるため、婦人会からは強い不満が出た。
人物[編集]
渡辺潮一郎[編集]
渡辺潮一郎は、海動説絶対主義の理論的整理を行った中心人物である。で地理学を講じたのち、の観測所に通い詰め、潮位表を政治哲学に読み替えた。彼の日記には「国家は毎朝いったん引く。ゆえに補助金を急ぐべし」との記述がある。
マージョリー・L・スノー[編集]
マージョリー・L・スノーは、出身の海洋気象学者で、にで渡辺と面会したとされる。彼女は潮汐観測の実測値をもとに理論の過激化を抑えたが、逆に「絶対主義のうち、絶対でない部分を数値で管理する」という奇妙な補助理論を導入してしまった。
黒田浪平[編集]
黒田浪平は実務家として知られ、地方局で海動説を災害対策へ転用した人物である。彼は高潮被害の査定を「忠誠度不足による地盤の緩み」と説明し、被災地の復旧予算を前倒しで取ることに成功した。地方では有能な役人として評価されたが、中央では半ば奇人扱いであった。
社会的影響[編集]
海動説絶対主義の最大の影響は、海岸部の自治体が自らを「国家の感度器官」として自任するようになったことである。からまで、沿岸都市では標語に波線が多用され、港の時計塔が一斉に潮位連動へ改修された。特にでは、干満に合わせて市役所の窓口が30分ずつ前後する制度が1931年まで残った。
教育面では、地理教科書に「湾岸の判断は陸上の判断よりも遅れてはならない」とする注記が挿入され、一部の中学校で海図の写経が課された。なお、当時の生徒の作文には「祖国とは、まず靴を濡らす場所である」といった過剰に詩的な表現が散見される。
一方で批判も強かった。法学者の石橋義兼は、海動説絶対主義を「地形に擬態した権威主義」と呼び、の講演で一躍注目された。しかし、その講演録の一部は主催者側が潮時表に差し替えて配布したとされ、全文が残っていない。
批判と論争[編集]
海動説絶対主義は、科学と政治を接合したことから一部で高く評価された一方、経験的根拠の薄さが常に問題視された。とくに「塩分講習会」の成果報告書では、血圧の変化と投票態度の相関が示されたが、統計処理の途中で対象者が全員昼食を取ったため、因果関係は不明とされた。
また、ので行われた公開討論では、反対派が「海は偉大だが、憲法は濡れない」と発言し、会場が爆笑に包まれたという。これに対し海動派は、笑いは潮の満ち引きによって起こる周期現象だと反論したが、説得力は弱かった。
戦時期に入ると、海動説絶対主義は「沿岸統制思想」として再包装されたが、あまりに便利な行政理論だったため、結局は何にでも適用されてしまい、逆に中身が薄まったと評される。敗戦後は学問的にはほぼ消滅したが、港湾都市の一部で「満潮時に会議を始める」習慣だけが残った。
評価[編集]
今日では、海動説絶対主義は疑似科学と官僚制の悪い結節点として記憶されることが多い。ただし、港湾整備や海難救助の現場では、理論そのものよりも「海を基準に人間社会を再設計しようとした発想」が先駆的だったと再評価する向きもある。
の郷土資料館では、渡辺潮一郎の複製手帳と、満潮時にしか開かないとされた会議机が展示されている。来館者の多くは机の仕掛けを見て笑うが、案内板には「当時の行政はしばしば潮待ちであった」と真面目に書かれている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺潮一郎『海と政体の相互照応』臨時海洋調査委員会刊, 1919.
- ^ 森川清造『塩分と国家神経』海軍衛生研究所報告 第12巻第3号, 1908, pp. 41-88.
- ^ Margaret L. Snow, "Tidal Sovereignty and Civic Rhythm," Journal of East Asian Maritime Studies, Vol. 4, No. 2, 1910, pp. 117-146.
- ^ 石橋義兼『地形に擬態する権力』岩波港湾叢書, 1928.
- ^ 黒田浪平『高潮査定と地方自治の再編』内務省地方局資料 第7号, 1932, pp. 9-33.
- ^ 小林志津夫『満潮時開会制度の研究』東京地理学会雑誌 第18巻第1号, 1934, pp. 5-29.
- ^ H. T. Morley, "Absolute Coastalism in Modern Bureaucracy," Proceedings of the Royal Society of Maritime Inquiry, Vol. 9, No. 1, 1936, pp. 1-19.
- ^ 高橋澄江『海図に書かれた道徳』潮文館, 1942.
- ^ 平田波吉『沿岸忠誠と学校儀礼』教育時報社, 1930.
- ^ Anne W. Carter, "Salt, Sea, and State: A Misplaced History," Cambridge Harbor Papers, Vol. 2, 1938, pp. 201-230.
外部リンク
- 臨時海洋調査委員会アーカイブ
- 横須賀潮位史料館
- 港湾思想史データベース
- 全国潮流行政研究会
- 海動説資料保存会