社会尊皇党
| 名称 | 社会尊皇党 |
|---|---|
| 略称 | 尊皇党 |
| ロゴ/画像 | 旭日を模した朱地の円形エンブレム(中央に「皇」字を配置) |
| 設立(設立年月日) | 1924年(昭和初期)4月12日設立 |
| 本部/headquarters(所在地) | 東京都千代田区神田東駿河台3丁目 |
| 代表者/事務局長 | 総裁:山霧栄亮(やまぎり えいすけ)/事務局長:志波田繁馬(しばた しげま) |
| 加盟国数 | —(国内政党) |
| 職員数 | 常勤職員 214名(1926年末時点) |
| 予算 | 1926年度予算:年額 3,480,000円(一般会計) |
| ウェブサイト | 尊皇党公式通信局(紙媒体のためアーカイブ扱い) |
| 特記事項 | 党綱領には「社会主義=天皇の慈恵を制度化する」と明記される |
社会尊皇党(しゃかいそんのうとう、英: Social Sonno Party、略称: 尊皇党)は、天皇を中心とした社会主義を目的として設立されたの政党である[1]。設立。本部はに置かれている。
概要[編集]
は、天皇を中心とした社会主義(以下、天皇制社会主義)を掲げる日本の政党として設立されたとされる[1]。党は「慈恵を市場ではなく共同体の規範として運用する」ことを主眼に置き、労働者の保護を天皇の統治理念へ接続する独自の政治言語を用いた。
1920年代の都市労働問題が激化する局面で、は「救済は革命ではなく制度」として訴えた点に特色があった。なお、党の綱領は機関紙『大和共栄』に逐次掲載され、初版では誤植のまま「天皇制社会主義」を「天皇税社会主義」として読ませる演出が行われたと、当時の党関係者は証言している。
一方で、尊皇と社会主義を同一の倫理体系にまとめる発想は、保守側からは「社会主義の混入」だと警戒され、革新側からは「権威の装飾」として切り捨てられた。ただし党は「装飾ではなく基盤である」と反論し、議会では穏健な改革案を連打したとされる。
歴史/沿革[編集]
創設の経緯:『設置法』もどきと「宮廷労働券」構想[編集]
の創設は、1923年後半にまとめられたとされる「慈恵制度化準備要項(試案)」に端を発すると説明される[2]。この試案は、官僚機構の語彙を模倣することで説得力を得ようとし、作成メンバーは「実在の設置法と同じ文体にしてしまえば、世論は勝手に制度と勘違いする」と考えたとされる。
当時、党の中心人物は労働者救済に「宮廷労働券」を導入する案を語った。労働券は、賃金の一部を現金ではなく「共同体負担金」として積み立て、天皇の統治象徴を通じて生活安定を図る、という奇妙に整然とした仕組みであると説明されていた。党内文書では、券の単位を「1労働点=1日8時間の勤務価値」として換算し、月末に会計係が点数表を掲示する運用が予定されたとされる。ただし実装はされず、代わりに掲示用の表だけが大きく作られ、演説会の目玉になった。
1924年4月12日に「党則制定大会」が開かれ、党は正式に設立された。設立に際して、党は『大和共栄』の創刊号を1万2,640部刷り、配布目標を「東京市内で配布率 9.7%を達成」と数値で掲げたが、実際には 9.1%に留まったという記録も残っている。細かな誤差が逆に信頼を生むと考えたのか、党はこの失敗を次の公約に換算していた。
発展:議会での「慈恵同盟法案」と連合戦術[編集]
1925年には、党は「慈恵同盟法案」を提出し、労働争議の調停機関を制度化する枠組みを整えた。法案は、調停委員を「天皇理念に基づく倫理審」として位置づけ、実務には労働組合の代表を加える二層設計とされた[3]。党の主張は一見もっともらしいが、現場では「倫理審」という言葉が抽象的で、議員の演説では毎回、別の喩え(神輿、火鉢、葬列の順番など)が追加されたとされる。
その後、党は保守系の一部会派と選挙協定を結び、「天皇の権威を守るために生活を守る」というスローガンで棲み分けを作った。協定書の条文には、選挙活動の分担として「朝の街頭は尊皇党、夕の工場訪問は連携会派」と明記されていたと伝えられる[4]。なお、夕方の工場訪問の交通費として1候補当たり一律 43円50銭が計上されたとされるが、これはガソリン税が想定より上がったため、のちに「43円10銭へ減額」が議事録に残っている。
1926年末時点では、党組織は東京中心から拡大し、北関東の労働集住地区でも支部が増えたとされる。ただし、増えた支部の多くは「集会所」ではなく「配布倉庫」として機能していた時期があり、政党というより流通網として見られたとの指摘がある。
組織[編集]
は、理事会と総会の二層運営を基本とし、総会は年1回、理事会は四半期ごとに招集されるものとされていた。党内では「理念の調整」を理事会、「綱領の更新」を総会が担うと整理されていたが、実際には機関紙編集委員会が全体の空気を左右したともされる[5]。
主要部局として、党は、、を置いた。共同賃金調整室は、前述の「宮廷労働券」構想の残像を引き、賃金計算の様式を統一する部局として活動したと説明される。また神慮広報部は、演説原稿の語尾(である/とする/とされる)を統一するという、政治広報の文体運用にまで踏み込んだとされる。
さらに党内には、党友会と呼ばれる外縁組織が併設されていた。党友会は党員ではないが、街頭配布と勉強会の運営を分担し、1926年の会計資料では党友会の支援者数が 6,902名とされる。数字は増減しており、最終的に 6,911名に着地したという修正文書も残っている。これは「3桁目をそろえると運勢が良い」と信じた担当者の判断によるとされる。
活動/活動内容[編集]
の活動は、議会運動と街頭運動の両輪で構成されていた。議会では福祉・調停・労働制度の整備を主張し、街頭では「天皇の慈恵を生活規約に翻訳する」と繰り返したとされる[6]。党の演説では、具体的な施策が提示される一方で、結びはほぼ定型で「我らは革命に非ず、整えにあり」と締められていた。
また党は、労働者向けの夜間講習を組織した。講習は週3回、1回45分で、内容は「家計簿」「共同労働の倫理」「労働争議の取り扱い」の三本柱とされる。講師は元小学校教員が多く、配布プリントは『大和共栄』の別冊として製本されたと伝えられる。
一方で、党は“儀礼の政治化”にも踏み込んだ。毎月の街頭演説の前に、会場の中央へ朱色の帳(帳面ではない布)が置かれ、「尊皇の観念を手続きへ落とす」ための導入として用いられたとされる[7]。儀礼の効果は議論が割れたが、少なくとも参加者の離脱率を下げたという社内報告が存在する。ただしその報告には「離脱率=退出者/総入場者」とだけ書かれ、総入場者の算定方法が未記載であったという。
財政[編集]
の財政は、党費、機関紙売上、寄付(主に事業者の“善意分担”と称された)で構成されていたとされる[8]。1926年度の一般会計予算は年額 3,480,000円であり、そのうち広報費が 1,120,000円、調停活動費が 640,000円、講習運営費が 310,000円と配分されたとされる。
ただし、会計報告には整合しない項目が散見される。例えば「祝電費」が 12,480円計上されている一方で、祝電を送った相手の一覧が添付されていない。党は「紙幅の都合」と説明したが、のちに別の議事録では祝電費の説明が「帳の購入費の一部を隠した」と記載されていたとされる[9]。
また、党は外縁組織の活動を“傘下”として扱った。党友会の支援による現物寄付(紙、布、封筒)の価額は、評価基準が「入手難度×当時の商店の言い値」とされており、監査のたびに金額が変動したという指摘がある。このように数値の揺れがあるにもかかわらず、党は「揺れもまた誠実」として押し切ったとされる。
不祥事[編集]
には、比較的小規模ながら評判を落とした事件が複数あったとされる。とりわけ知られるのが「朱帳費流用疑惑」である。党員の間では、毎月の儀礼で使われる朱色の帳の更新が重なり、帳の納品記録が 1926年の6月から9月まで 4回分欠落したと噂された[10]。
また、党の機関紙『大和共栄』では、同じ号に広告が2種類混在するという“印刷事故”が起きたとされる。混在した広告は、ある企業の炭鉱向け安全具広告と、別の企業の健康講習広告であった。党は「編集部の善意ミス」としたが、鉄道沿線の掲示板に同内容が同時に貼られていたことから、編集部だけでは説明できないとの指摘がある。
さらに、1927年初頭には資金の出所が不透明な寄付が問題視された。寄付者名は「匿名奉賛者」として処理され、領収書の備考欄に「尊皇・賃金調整の連動」としか書かれていなかったという。この曖昧さは、党が天皇制社会主義を“結びの言葉”で説明しすぎた結果として、監査側の怒りを買ったと回顧されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐倉岬太郎『天皇制社会主義の言語設計:尊皇党綱領の文体分析』桐葉書房, 1931.
- ^ Dr. エドモンド・ハート『Symbolic Welfare and Parliamentary Mediation in Interwar Japan』Yamato Academic Press, 1930.
- ^ 藤波栄明『議会における調停委員制度の模倣と創作』東京法政評論社, 1928.
- ^ 山霧栄亮『慈恵制度化準備要項の起草日誌』尊皇党出版部, 1929.
- ^ 志波田繁馬『大和共栄 第1巻(創刊号・別冊付録)』尊皇党通信局, 1924.
- ^ 高瀬寛治『政党財政の会計監査:昭和前期の匿名寄付を中心に』中央監査研究所, 1932.
- ^ K. Nakatani『Rituals in Political Mobilization: The Red Valance in Taishō-to-Shōwa Transition』Journal of Civic Semiotics, Vol.7 No.2, 1933.
- ^ 清水澄一『労働争議は倫理で解けるか?:共同賃金調整室の実務』労働調停実務叢書, 1927.
- ^ 平井瑛子『市場を拒むのに市場を使う:慈恵同盟法案の矛盾点』東亜政策研究会, 1930.
- ^ (誤解を招く版)R. M. Clarke『Emperor-Centered Socialism in Modern Times』Oriel University Press, 1926.
外部リンク
- 尊皇党公式通信局アーカイブ
- 神田東駿河台街頭演説記録庫
- 大和共栄別冊(講習資料)コレクション
- 朱帳費監査メモデータベース
- 慈恵同盟法案・議会答弁集