社像
| 名称 | 社像 |
|---|---|
| 読み | しゃぞう |
| 英語 | Company Icon |
| 分類 | 企業文化・記念造形 |
| 初出 | 1908年頃 |
| 提唱者 | 渡辺精一郎 |
| 主な対象 | 社屋、工場、役所、研究所 |
| 中心都市 | 東京、横浜、大阪 |
| 代表的規格 | 三尺社像規格 |
| 派生語 | 社像学、半社像、逆社像 |
社像(しゃぞう、英: Company Icon)は、やの内部文化を象徴するために制作される象徴像、またはその制作思想を指す概念である。末期ので、社屋の正面に置かれた守護像が起源とされる[1]。
概要[編集]
社像は、組織が自らの理念・沿革・権威を視覚化するために据える象徴物である。一般には銅像や石像に見えるが、実際には木彫、陶器、金属板、さらには電光掲示を含む広い概念として扱われることがある[2]。
社像はの周辺にあった印刷会社の社屋装飾から広まったとされ、のちにの商家、の倉庫業、の機械工業へと波及した。もっとも、今日の研究では「像」という語感に反して、必ずしも立体である必要はないとする説が有力である[3]。
歴史[編集]
成立以前の背景[編集]
社像の前史としては、後期の店先看板文化と、期に流入した欧米の企業記章文化が挙げられる。とりわけに近くで撮影された建築写真に、社章を刻んだ石膏像が偶然写り込んでいたことが、後年の研究で「最初の社像的事例」とみなされた[4]。
当時、工場経営者の間では「社印よりも先に社格を見せよ」という標語が流行していたとされ、これが社像の思想的土壌になったという。ただし、この標語の出典は確認されておらず、とする見解も多い。
渡辺精一郎と三尺社像規格[編集]
社像を制度として整理した人物としては、の嘱託であった渡辺精一郎が知られている。渡辺はに『社像配置試案』を発表し、社像の高さを原則として三尺八寸以内、台座を含め五尺二寸以内とする「三尺社像規格」を提唱した[5]。
この規格は、役員会議室に置く「卓上社像」と、工場正門に置く「門柱社像」を区別するなど、きわめて実務的であった。渡辺はまた、来客が社像の前で一礼する角度を「礼角17度」と定めたが、同協会の記録では17度に根拠がなく、後年の編集で「なんとなく収まりがよい角度」と補足されている。
大正期の普及と東京社像事件[編集]
期には、社像は金融・出版・鉄道の各業界へ広がり、の後には再建社屋の「再起の印」として需要が急増した。特にの保険会社群では、瓦礫の中から社像だけ無傷で見つかったという逸話が流布し、復興広告に頻繁に用いられた[6]。
一方での「東京社像事件」では、ある百貨店が屋上に設置した巨大な社像が夜間照明で軍艦に見えたため、近隣住民から抗議を受けた。これにより、社像のサイズと照明に関する自主基準が商工課で検討されたとされる。
種類[編集]
社像は、用途と設置場所に応じて複数の類型に分けられる。
第一に、は会社の入口に置かれ、来訪者の第一印象を形成するためのものである。第二に、は従業員の休憩空間に置かれ、精神衛生の維持に寄与するとされた。第三に、役員室や応接室に置かれるは、重役の判断を安定させる「机上の守り」として珍重された[7]。
主要な社像[編集]
戦前の代表例[編集]
本社前の「繭守像」(1912年)は、糸巻き型の台座を持つ珍しい社像で、社員が始業前に布を触れてから出勤したという。記録によれば、これにより当月の欠勤率が0.8ポイント低下したが、同時期の天候も良かったため因果関係は不明である[8]。
の「潮望像」(1915年)は、海を向いたまま動かない船長像として知られ、台風接近時に方角を誤らせないとして船員から信仰された。もっとも、実際には東西を逆に向いて設置されていたことが戦後の測量で判明している。
高度成長期の大型化[編集]
の「電波社像」は、内部に真空管式の回路を組み込んだ半機械的社像であり、夜になると目が点滅した。設置当初は「技術進取の象徴」と賞賛されたが、雷雨の日に誤作動を起こして受付嬢が避難したため、翌年に減光措置が施された。
の近辺で造られた「旅客誘導社像」は、片手を上げて新幹線の改札方向を示す姿であった。観光パンフレットに頻出した一方、指先が常に一点を指し続けるため、近くの商店街では「景気が偏る」との迷信まで生まれた。
現代の変種[編集]
以降は、物理的な像に代わり、ロビーのデジタル壁面や受付端末そのものを社像とみなす「情報社像」が登場した。にはのIT企業で、液晶画面に社長の似顔絵、株価、天気予報を同時表示する装置が設置され、来客の間で「三位一体の社像」と呼ばれた[9]。
近年ではを強調するため、再生プラスチック製の社像が増えているが、豪雨で溶け出した例がで報告され、以後は屋内設置が原則とされた。
社会的影響[編集]
社像は、単なる装飾ではなく、企業の序列や地域経済の自負を可視化する装置として機能した。特にのでは、社像の有無が取引先の印象を左右したとされ、納品前に社像の前で名刺交換を行う慣行まで生まれた[10]。
また、社像は社内儀礼の中心にもなった。新入社員が最初に行う業務を「社像拝見」と呼ぶ地域もあり、の一部工場では、朝礼の前に社像へ向かって改善提案数を報告する独特の文化が継続していた。なお、こうした習俗は労働組合との関係でしばしば議論を呼んだ。
批判と論争[編集]
社像には、権威の過剰表現であるとの批判が早くから存在した。とりわけの『社像反対同盟声明』は、像の維持費が年間平均で売上の0.12%を占めるとし、これを「文化費ではなく威圧費である」と断じた[11]。
また、社像の材質をめぐる論争も多い。青銅製は格式が高いとされる一方、雨だれの跡が「経営の疲労」と解釈されるため嫌う経営者もいた。逆に木製は親しみやすいが、梅雨時の反り返りが「企業理念の変形」と揶揄された。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『社像配置試案』帝国工業顕彰協会, 1908年.
- ^ 佐伯信吾『企業像の儀礼史』中央文化研究所, 1934年.
- ^ Margaret A. Thornton, "Corporate Idols and Civic Prestige," Journal of Urban Symbolics, Vol. 12, No. 3, pp. 41-68, 1957.
- ^ 小林政春『社屋装飾と会社人格』丸善出版, 1962年.
- ^ Hiroshi Kanda, "The Three-Shaku Standard in Meiji Architecture," Transactions of East Asian Material Culture, Vol. 8, No. 1, pp. 7-29, 1971.
- ^ 山口暁子『社像の社会学』晃洋書房, 1988年.
- ^ Peter L. Wexler, "Iconic Offices: Ritual Objects in Japanese Industry," Asian Corporate Studies Review, Vol. 4, No. 2, pp. 112-139, 1999.
- ^ 『社像年鑑 2004』社像研究会, 2004年.
- ^ 中村礼二『情報社像の誕生』NTT出版, 2011年.
- ^ Elena V. Morozova, "When Statues Become Interfaces," International Review of Organizational Semiotics, Vol. 19, No. 4, pp. 201-226, 2018.
- ^ 高田三郎『社像と日本近代経営の不思議な関係』東都書房, 2022年.
外部リンク
- 社像研究会
- 帝国工業顕彰協会アーカイブ
- 東京企業文化資料館
- 日本社屋装飾史センター
- 社像年鑑デジタル版