豆打門(ずんだもん)
| 分野 | 民俗音声芸能/儀礼研究 |
|---|---|
| 地域 | 主に、周辺の |
| 成立時期 | 17世紀末〜18世紀前半とする説 |
| 構成要素 | 豆打ち(反復打音)/門打ち(分岐節回し) |
| 関連食文化 | を核とする豆菓子・甘味 |
| 学術上の位置づけ | 口承儀礼の音韻分析対象 |
| 近代の普及形態 | 市民講座・祭礼リミックス |
豆打門(ずんだもん)は、で口承的に語られる「豆を打つ」儀礼様式と、それに付随して発達した独自の音声芸能体系であるとされる[1]。近年は民俗学の文脈で、門のように分岐する節回し(門打ち)を含む総称として扱われることがある[2]。
概要[編集]
は、豆(主に由来の加工物とされる)を小さな袋や銅製の器で「打つ」所作と、それに同期して語られる節回し(門打ち)からなる体系であると説明されている[1]。
一見すると素朴な民俗行事に見えるが、記録では打音のリズムが「一拍目の沈み」「二拍目の跳ね」「三拍目の受け」を基本に、さらに節回しが条件分岐する点が特徴として挙げられる[2]。なお、全体は祭礼の余興として成立したとする説と、家の門(出入り口)を守る技法として機能したとする説が併存している。
この呼称は、豆打ちの最中に発せられる擬音が「ずんだ」という音に近いことから、後世の編者が便宜的にラベル化したものとされる。一方で、もともとの体系名が別にあり、外部の研究者が「門(もん)」を音声の分岐点に見立てて再命名したという指摘もある[3]。
命名と用語[編集]
用語の構成は「豆打」「門」の合成とされるが、民俗調査報告では「豆打門」が先に呼ばれ、のちに「ずんだもん」が俗称として分化した流れが示されている[4]。
「門打ち」は、節回しが一本ではなく、聴き手(または踊り手)の応答によって分岐する、という説明が繰り返される。具体的には、打音が内で行われた年中行事の回数(後述するが、後援会資料では年156回とされる)に応じて、語尾の高さが上がるか下がるかが決まるとされる[5]。
また「ずんだ」は、本来は甘味としてのではなく、木箱の蓋を閉める音を指す方言擬音語だったとする説がある[6]。ただし、同じ方言が食文化にも波及して、後に“豆打ち=ずんだ味”の連想が固着したと解釈されることも多い。
歴史[編集]
起源:伊達藩の「豆音検査」計画[編集]
豆打門の起源は、の家臣団とは直接の関係がないとされながらも、「家の門に近い場所で、音の乱れが治安を揺らす」という当時の衛生観に結び付けて語られることがある[7]。
17世紀末、江戸の監察制度が東北に波及する過程で、伊達領の一部では「豆音検査」と称する簡易な点検が試行されたとする文献がある。内容は、収穫後の豆加工が“規定の匂い”を保っているかを、袋を打ったときの共鳴で判定するというものであったと説明される[7]。
この制度を回すのに、音声係として任命されたのが「門打ち稽古役」だとされ、彼らが“打音の分岐”を訓練に導入したことで門打ちの型が生まれた、とされる[8]。なお、この資料の写しでは、訓練メニューが「一週目:打音72回、二週目:打音84回、三週目:門打ち応答12分」というように妙に具体的に書かれている[9]。
発展:仙台の音韻工房と「門の譜面」[編集]
体系が芸能へ転じたのは18世紀に入ってからで、の商人が組織した「音韻工房」が、豆打門の口承を譜面化したことが転機とされる[10]。
工房はの倉庫街に置かれ、そこで“豆袋の反発”と“声の高さ”を同時に記録するため、器具として「鑞(ろう)板の共鳴測定器」が流行したとされる[10]。この測定器は板に微細な溝を刻み、打音の反響で“枝豆の粒の平均硬度”を推定するという建付けだったが、実際には職人の遊び半分で拍が増え、門打ちの分岐が複雑化した、とも語られている[11]。
門の譜面は、後に「A門」「B門」「折り返し門」の三分類で整理された。とくに折り返し門は、打音の最後に必ず“沈んだ拍”を残す点が特徴で、見物客が「ずんだもん来たぞ」と合図を出す慣習に結び付いたとされる[12]。
近代:文化財化と市民講座の過熱[編集]
明治期以降、豆打門は“古い豆芸”として一度忘れられたとされる。ただし、大正末期に民間団体が「地域連携音声遺産」として再編集したことで、祭礼の演目に戻ったという経緯が紹介されている[13]。
転機は1940年代に作られた“門打ち検定”であるとされ、地元の教育委員会関連資料では、受験者の合格基準が「打音のぶれ幅:±0.8ミリ以内」「語尾の落差:平均18セント」とまで記されている[14]。もっとも、この数値が実測か推定かは不明で、当時の帳面は途中で判読不能になったと注記されている[14]。
戦後は全国放送で紹介される機会が増え、の市民講座では“豆打ちワークショップ”が年に約3,120人参加し、延べ指導回数が1,240回に達したと推定される[15]。一方で、型を簡略化しすぎた講座が出回り、「門打ちがただの太鼓遊びに堕した」との批判も同時に生まれた。
社会的影響[編集]
豆打門は、食と音声の結び付きを地域の“可視化された伝統”として再構成する役割を担ったとされる[16]。とくに祭礼での豆打ちは、屋台の食べ歩きと同時進行で進むため、参加者は「耳で味を確かめる」体験を得たと説明される。
また、音声芸能としての側面から、学校教育でも“呼吸と発声”の訓練素材として扱われたことがある。ある私立幼稚園の記録では、週2回の門打ち練習を行ったクラスで「発声開始までの待ち時間が平均4.6秒短縮」したと報告されている[17]。この数字は心理測定の手法が曖昧であるが、少なくとも保護者の間では“効きそう”として受け入れられた。
さらに、観光の文脈では豆打門が“参加型アトラクション”として転用された。結果として、現地の商店街は「1日あたり1,500袋の豆を消費する」ようになり、豆の仕入れ先が多層化した。こうした物流の変化が、豆加工の衛生規格(豆袋の通気、保管温度、打音に似た検品法)へ波及した、と述べる研究者もいる[18]。
批判と論争[編集]
豆打門の批判としては、第一に“起源の捏造”疑惑が挙げられる。後援会が発行した説明書では、豆打門の成立を「1763年の秋田地震の直後」とするが、別の同人誌は「同じ年に存在しないはずの門打ち検定」が既に開かれていたと書いており、整合性が取れないと指摘されている[19]。
第二に、音声の簡略化問題である。近年の市民講座は初心者向けに門打ちの分岐を2パターンまで減らすことが多く、その結果、伝統の“分岐の気配”が消えたという批判がある[20]。なお、当の講座運営者は「分岐は残っている。むしろ聴き手が自分で迷うから本質が生きる」と述べているが、学術側では比喩として処理されがちである[20]。
第三に、食文化との混線がある。豆打門を“ずんだ味のイベント”として消費する動きが強まり、地域の呼称が食のブランドへ回収されることへの懸念が示された。批評家の一部は、豆打門の“音の門”が“甘味の門”へすり替わったと表現している[21]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐藤和律『東北口承儀礼の音韻構造』東北民俗叢書, 2009.
- ^ Margaret A. Thornton「Ritual Percussion and Branching Intonation in Regional Folk Performances」『Journal of Applied Ethnophonetics』Vol.12 No.3, 2014 pp.55-71.
- ^ 高橋澄人『豆袋の共鳴測定器と地方検品法(復元資料)』仙台音韻工房出版, 2012.
- ^ 伊藤尚武『地域連携音声遺産とその実装ガイド』文部政策研究社, 2018.
- ^ 工藤ミツ『門打ち譜面の分類体系—A門・B門・折り返し門』『季刊 民俗音声学』第7巻第2号, 2021 pp.101-133.
- ^ Satoshi Kuroda「Acoustic Guessing of Ingredient Properties in Non-literate Communities」『Proceedings of the International Symposium on Folkloric Acoustics』Vol.4, 2016 pp.9-24.
- ^ 菅原ユキ『ずんだという擬音語の系譜』【東北】方言研究会, 2007.
- ^ 大沼文紀『豆音検査の記録写し—判読不能箇所の再考』国学資料刊行会, 1999.
- ^ 水嶋良介『文化財化する参加型芸能の功罪』『日本民俗政策論叢』Vol.25 No.1, 2010 pp.33-58.
- ^ (微妙におかしい)田村明人『伊達藩における門打ち検定制度の完全解読』中央学術出版, 1939.
外部リンク
- 豆打門アーカイブ(仮)
- 仙台音韻工房デジタル資料室
- 門打ち検定・受講者の記録集
- 東北口承音韻プロジェクト
- 枝豆共鳴測定器ギャラリー