豊前やんがれ
| 行事名 | 豊前やんがれ |
|---|---|
| 開催地 | 旧豊前国(福岡県北九州市東部・田川・京築地域) |
| 開催時期 | 毎年、旧暦二月上旬の申(さる)の日 |
| 種類 | 門付に近い物乞い芸・児童参加型の民俗芸能 |
| 由来 | 物乞いの唱え唄と“やん”の呼声に端を発する、との伝承 |
| 主な担い手 | 子どもと若連中(稼ぎ頭の許可を得た者) |
(ぶぜんやんがれ)は、東部にあるの祭礼[1]。より続く旧のの風物詩である。
概要[編集]
は、旧の春先に行われる民俗芸能として語り継がれている。祭りの核は、家々を巡りながら声を合わせて短い旋律を唱え、贈り物の有無にかかわらず一定の型(やんがれの“型”)を崩さない点にある。
方向性指定に従えば、本来は一般的なのように整った演目を披露する形式とは違い、路上での物乞いの所作を、町の者が「縁起のための所作」として取り込んだものとされる。とくに若年層が中心となるため、各地では“子どもの祭”として親しまれている。
なお、現在の見学者向け説明では、豊前やんがれは「歌と所作の祭」であるように整理されがちであるが、古い記録では“集金の儀”のように細かい段取りが書き残されているとされる[2]。この齟齬が、後述する論争の火種になったと指摘されている。
名称[編集]
名称の語感からは、捻った擬音が含まれると解釈されることが多い。地元では「やん」は呼び声、「がれ」は“道を裂く”意の古語に由来するとする説が語られるが、いずれも文献学的な裏づけは乏しいとされる。
一方で、祭礼の各段が「やん」「がれ」「おさめ(納め)」の三部構成になっている地域があり、その場合は全体を通してと呼ぶと整理されることがある。祭の当日、唱え手は必ず最初の一声を長く伸ばすため、結果として“やん”の音が目立ちやすいのである。
また、祭りの案内札には、学術用語めいた書き方で「児童即興型の門付所作」などの肩書きが付く例もある。こうした表現は、役場の民俗調査の様式を借りたものとされ、いつから定着したかは不明である[3]。
由来/歴史[編集]
物乞い芸の“管理”が始まりだったとする伝承[編集]
豊前やんがれは、旧豊前国で春先に増えるという“路上の子供縁談”に結び付けられて説明されることがある。説としては、子どもたちが物乞いの所作で歩くとき、唄の拍が乱れると喧嘩の種になるため、稼ぎ頭の家が「拍の型」を先に配ったのが起源だとされる。
具体的には、旧の幕末期に存在したと噂される「八間(はちけん)拍子帳」という、歌詞の数え方だけを書いた薄い帳面が伝えの中心に置かれている。これによれば、唱え手は“やん”を七拍、次を三拍、最後を必ず一息で終えるとされ、違反すると“道を裂く”ような不吉が起こるとされた[4]。
この帳面が実在したかは別として、祭りの型が妙に律儀であることから、受け取った贈り物の額ではなく、行儀の統一が尊ばれた祭であったことが示唆される、という語りがなされている。
“一般の門付ではない”理由が祭の輪郭を作った[編集]
一般的なでは、衣装・歌・所作が揃った“披露”の体系になりやすい。これに対し豊前やんがれは、家の側が準備する余地が少なくても成立するよう、子どもがその場で型を繋げる構造になったとされる。
そのため、祭りの説明書では「門口で演じるが、門口で完結させない」という奇妙な言い回しが使われることがある。つまり、玄関の前では歌い、路地に一度下がってもう一度“やん”を揃えることで、子どもの隊列が崩れないようにしたとされる。
さらに、当日だけ“贈り物の数”を数える係が置かれたと語られる。数え方は、米俵ではなく“団子の穴の数”で統一され、年によって穴の数が変わるという噂さえあった。実務としての合理性は疑わしいが、少なくとも当時の人が細部を記号化していたことを示す逸話として語り継がれている[5]。
近代の再編と、継承のための“話法”[編集]
明治以降は、物乞いに関わる行為が制度面で抑えられた地域があったとされる。そこで豊前やんがれは、物乞いを露骨に言わず、「行儀の祭」「春の声揃え」といった語りへと衣替えが行われたと推定されている。
この再編には、の名で派遣された役人と、地元の寺子屋関係者が関わったとされる。たとえば、ある年の記録では「子どもは五人以上で隊を組み、指導役は必ず一人、歌頭は二人」と細かく定められている[6]。整備の意図が、統制なのか教育なのかは読者の判断に委ねられている。
ただし、こうした再編は祭りの輪郭を曖昧にし、後述のように「本来は何だったのか」という議論を呼ぶことになる。
日程[編集]
豊前やんがれは、毎年旧暦二月上旬の申(さる)の日に行われるとされる。ただし、近代以降の運用では新暦への換算誤差を避けるため、開始時刻が「午前八時八分」と書かれた張り紙が出る例がある。合理性は乏しいが、参加者の集合の目安にはなったとされる。
当日は、まずの境内で短い“口ならし”が行われる。口ならしでは、隊の全員が輪になり、最初の一声を交互に出す。ここで出た声の高さが、その日の“やん”の高さになると信じられている[7]。
続いて、三つの地区(東町・田川筋・京築路地筋)に分かれ、家々の路地で型を合わせる。最後は夕刻、拝殿前で「おさめ(納め)」として一拍だけ沈黙が置かれ、その後に一斉に“がれ”を言い切ると締められる。沈黙の時間は「尺(しゃく)で二寸」と言われ、誰が量ったのかは謎とされる[8]。
各種行事[編集]
豊前やんがれでは、単一の演目というより「型の連結」が行事の中心になる。主な行事としては、(1)呼声合わせ、(2)門口の揃え、(3)路地の往復、(4)贈りの“数え間違い防止”が挙げられる。
呼声合わせでは、唱え手が“やん”を七拍伸ばす。続く三拍は、誰かの咳払いでずれることがあるため、必ず「合図の手拍子」を一回だけ挟むとされる。門口の揃えでは、家の前で靴の向きを揃え、靴先が縁石に当たると縁が来ないと教えられるという[9]。
路地の往復は、家々を一度通過してから、二列に分かれて戻る所作である。子どもが先に戻ると“道を裂く”とされるため、必ず大人役(許可を得た若連中)が最後に戻ることになっていると語られている[10]。なお、贈りの数え間違い防止は、穴の数で数えるという噂に基づく“身振りの標識”として残っているとされるが、現在は儀礼化しているとも指摘される。
地域別[編集]
旧豊前国のうち、北九州市東部では隊列の角度が問題視される傾向がある。ここでは門口を通る際、隊の先頭が必ず“左回り一回半”で曲がるとされ、曲がり方が不揃いだと神社側が「春の声がこぼれる」と評したという。
田川・添田筋では、呼声合わせの時に使う小道具が変わる。ある家では藁(わら)の輪に赤糸を付け、それを振りながら唱えるとされる。赤糸の由来は「火事の記憶を縫い止めるため」と説明されるが、なぜ祭りの時だけ縫うのかは明確でないとされる[11]。
京築路地筋では、路地の往復の際に「角を三つだけ数える」という独特のルールが語られている。角を数えすぎると“次の春に延びる”という言い伝えがあり、参加者は信じ半分で確認し合うとされる。こうした地域差は、豊前やんがれが同じ“型”でも、各地の生活道路に合わせて微調整されてきたことを示す材料とされている[12]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田熊篤馬『旧豊前国の声揃え行事:豊前やんがれ私記』風紋書房, 1979.
- ^ 河合朱理『民俗芸能の“型”が統治を生む:子ども隊の儀礼設計』青藍学術出版, 1986.
- ^ S. K. Halsted『Ritual Timing and Street Performances in Northern Kyushu』Vol. 12, pp. 44-61, 九州民俗研究会誌, 1992.
- ^ 前田縫人『春二月の申の日と口誦の習俗』第3巻第1号, pp. 15-29, 国学史料叢書, 2001.
- ^ 井川澄江『縁石・靴先・沈黙:豊前やんがれの動作記号』pp. 102-137, 民俗身体論叢, 2007.
- ^ M. R. Whitcombe『Negotiating Begging as Festival: A Comparative Note』Vol. 5, pp. 201-219, Journal of Rural Festivities, 2011.
- ^ 松園岑太『八間拍子帳の伝承史料とその信憑性』第7巻第2号, pp. 3-22, 福岡地方史年報, 2015.
- ^ 上野鴻之『物乞い芸から行儀の祭へ:明治期の言い換え実務』pp. 77-95, 近代儀礼研究, 2018.
- ^ 田村玲央『縁が来ない縁石:呪いの社会的機能』第1巻第4号, pp. 88-103, 民間信仰ジャーナル, 2020.
- ^ 磯田一郎『豊前の子どもと隊列角度:路地往復の測定記録』風北堂, 2023.
外部リンク
- 豊前やんがれ保存会アーカイブ
- 北九州市東部民俗映像記録庫
- 申の日暦換算ノート
- 門付芸研究フォーラム
- 八幡うばき神社 授与と口誦