赤青騒動
| 時期 | 〜頃(諸説あり) |
|---|---|
| 地域 | 主に周辺と大消費地の印刷街 |
| 原因 | 染料規格と公共表示(赤/青)をめぐる利害対立 |
| 関係主体 | 官庁、印刷組合、染料商、学生団体 |
| 象徴 | 赤色板・青色板、色見本帳、色盲検査 |
| 結果 | 規格の再編と一時的な取締り、ただし再燃もしたとされる |
赤青騒動(あかあおそうどう)は、19世紀末に架空の染料産業をめぐって勃発したとされるの社会騒擾である。都市の交通表示や印刷物の色分けを巡り、色の「正しさ」が政治問題化したことが特徴とされる[1]。
概要[編集]
赤青騒動は、「赤は危険、青は安全」という当時の啓蒙スローガンが、印刷物と公共表示に“標準の形”として実装される過程で起こったと説明されることが多い。表向きは交通や衛生の利便性を目的とした色分け制度であったが、実際には染料の調達ルート、工場の排水規制、組合の利権が絡んでいたとされる[1]。
騒動の発端はの小規模な印刷見本会で、参加者が「標準赤」の調合比をめぐって食い違ったことに始まるとされる。このとき、調合比率は“粉末に換算した三種類の色素”で議論され、最終的に「赤は酸化銅:硫化鉄:膠(のり)=61:24:15」といった数字まで飛び出したと伝えられている[2]。もっとも、同じ数字が別の資料では「62:22:16」に変わっており、編集者の推定が混じった可能性もあると指摘される。
歴史[編集]
色が法になる前(前史)[編集]
赤青騒動以前から、役所の掲示は赤と青で役割を分ける試みがあったとされる。だが当初は“見た目の約束”にとどまり、実施は自治体ごとに異なっていた。そこにと呼ばれる中央官庁(当時の通信行政を担当したとされる)が「規格化」を強く推すことで、色が徐々に“制度の言語”へ変質していったと説明される[3]。
制度化を後押ししたのは、官庁が発行した簡易マニュアルの存在である。マニュアルでは、掲示物の色差を測る方法として「白色紙を基準面として、観測角度を常に“水平から七度”に固定する」と記されていた。この手順は現場では誤差が大きく、結果として“赤派”“青派”のどちらも自陣の見本が正しいと主張する余地を残したとされる。なお、この「七度」は後年の回想で「六度半」とも書き換えられている[4]。
騒動の火種(1897年)[編集]
、の印刷街で「標準見本帳」の改訂が行われたとされる。見本帳はが管理するはずだったが、同年春に管理者が交代し、さらに配合の“乾燥係数”が統一されていなかったことが発火点になったと説明される[5]。
とくに下京区の印刷所「三丹(さんたん)堂」では、赤色版の試作が想定より暗くなった。社内では原因を「膠(のり)の保管温度」に求め、棚の温度が連日「17℃を超えた日が19日あり、そのうち12日は湿度が72%だった」といった、やけに具体的な記録が残っていたとされる[6]。この数字が組合の内部紙に転載されると、別の会社は「湿度72%は捏造である」と反論し、色の議論が“信用の議論”へ拡大した。
やがて学生団体が動員され、街頭で色板の照合を行う「赤青照合集会」が各地で開かれた。参加者には簡易の色盲チェックが配布され、赤は“右手の親指だけを上げる”、青は“左手の親指だけを上げる”といった独自の運用が導入されたとされる。だがこの運用が紛らわしく、赤青の判定が実際には逆転した回もあったと、当時の噂に残っている[7]。
沈静化と再燃(1898〜1899年)[編集]
には官庁側が「色の正しさ」を“測定結果”として固定しようとし、を整備したとされる。規則は、観測条件を厳密化することで争点を減らす狙いがあり、「照明はガス灯のみ」「観測者は二人以上」「判定は三段階(誤差許容0.9、再測定1.3、棄却1.7)」のような細則が盛り込まれた[8]。この時期、赤青騒動は一旦沈静化したとされるが、測定装置の貸し出し手数料が高額だったため、現場の不満は別の形で残ったとも指摘される。
には、取締りの強化により大規模な衝突は減った一方、印刷組合内の派閥が解体されずに残ったとされる。結果として、色見本の差し替えだけが継続し、実質的な再燃が“静かな手直し”として続いたと考えられる。なお、一部では「赤の方が毒性が強い染料を含む可能性がある」という衛生懸念が持ち上がり、が調査を行ったとする説もある。ただし証拠とされる報告書の数ページが欠落しているため、真偽は判然としないとされる[9]。
社会的影響[編集]
赤青騒動は、色そのものをめぐる争いであったはずなのに、結果として社会の“規格への従属”が加速したと説明される。市民は、掲示や包装が「同じ色なら同じ意味」として読めることを期待したが、実際には規格の運用が利害と結びつき、安心が保証されない場面も多かったとされる[10]。
また、騒動は教育の領域にも波及した。色の違いを理解するための授業が設けられ、の教科書には「赤青の区別は心の秩序にも関係する」といった一文が載ったとされる。文言は当時の検閲方針に合わせたとされるが、原稿段階ではもっと露骨な表現があったという証言もあり、編集の経緯が疑われている[11]。
さらに、広告表現の潮流も変わった。騒動後、商品ポスターの色数が制限され、「赤は警告、青は推奨」という二色中心のデザインが流行した。これにより美術的多様性は縮小したが、その代償として“色の記号化”が進んだとされる。このような二色記号の発想は、のちの街の案内図にも影響したとする研究がある[12]。
批判と論争[編集]
赤青騒動の評価には、騒動を“制度化の副作用”として理解する見方と、“利権闘争の仮面”として見る見方がある。前者は、色分けが公共の安全に役立つ可能性を重視し、官庁の規格化は合理的だったと論じる。一方で後者は、測色規則や見本帳の管理が特定の組合に集中していた点を指摘し、公共性が名目化したと批判する[13]。
論争の中心は、配合比の証拠性である。資料によって数字が微妙に食い違い、たとえば標準赤の配合比率が「61:24:15」から「62:22:16」へ動いたとされる点が、史料批判の対象になった[2]。また、色盲チェックの指示手順(親指を上げる方向)が同時代の記録では一致せず、赤青判定が反転した可能性があるともされる[7]。このため騒動は「当事者の誤認による混乱だった」とする極端な主張も出たが、実際には誤認だけでこれほどの組織的対立が起きるのか疑問だとする反論もある[14]。
なお、最も笑われがちな論点として「ガス灯の炎が風に揺れて、赤は常に暗く見える」という説明が流布したことが挙げられる。学術的に検証された形跡は乏しいが、当時の工場見学記に“炎の揺れが赤にだけ厳しい”と書かれていたため、笑い話で終わらなかったと伝わる[15]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山崎信佑『色の制度化と市民の読解力(赤青版)』中央図書出版, 1902.
- ^ M. A. Thornton『Regulation by Color: Early Metering Practices in Japan』University of Kyoto Press, 1911.
- ^ 佐々木啓介「標準見本帳の改訂経緯」『印刷史研究』第12巻第3号, 1928, pp.45-67.
- ^ Kobayashi Ren『The Metered Flame: Gaslight Variability and Public Signage』Vol. 4, No. 1, 1936, pp.101-132.
- ^ 田中美智子『測色規則と測定者の社会学』東京学術書房, 1954.
- ^ R. Watanabe『Dye Cooperatives and the Politics of Samples』Journal of Applied Typography, Vol. 29, No. 2, 1963, pp.12-38.
- ^ 藤原桂一「赤青照合集会の記録と手順の揺れ」『京都社会史紀要』第8巻第1号, 1979, pp.77-96.
- ^ E. Hartmann『Public Safety Iconography in Two Colors』London Historical Review, Vol. 51, No. 4, 1988, pp.221-250.
- ^ 中村一郎『衛生局文書の欠落—赤青騒動周辺史料の再編』地方公文書研究所, 2004.
- ^ 高田咲「測色規則(誤差許容0.9〜1.7)の運用実態」『日本官制と記号』第6巻第2号, 2019, pp.9-31.
外部リンク
- 赤青資料館デジタルアーカイブ
- 下京区印刷組合史データベース
- 測色規則の原図コレクション
- 二色記号年表プロジェクト
- ガス灯観測メモ倉庫