雨霜 (大型駆逐艦)
| 名称 | 雨霜 |
|---|---|
| 種別 | 大型駆逐艦 |
| 計画主体 | 大日本帝国海軍軍令部 |
| 計画開始 | 1929年頃 |
| 主要建造候補 | 呉海軍工廠・佐世保海軍工廠 |
| 基準排水量 | 2,980トン |
| 全長 | 128.4メートル |
| 最大速力 | 38.5ノット |
| 主兵装 | 12.7cm連装砲4基、61cm四連装魚雷発射管2基 |
| 保存状況 | 計画のみで終結 |
雨霜(あめしも)は、が初期に構想したとされる、対艦雷撃と沿岸封鎖を兼用するの計画名である。艦隊決戦用の高速母艦として位置づけられた一方、結露で方位盤が曇るという欠点から「霧に強いが自分に弱い艦」とも呼ばれた[1]。
概要[編集]
雨霜は、末の海軍において、従来の駆逐艦より一回り大きく、巡洋艦より安価である中間艦種として検討された計画である。名目上はの随伴艦であったが、実際にはやの夜戦を想定し、独自の急冷式缶室と観測装置を積んだ特殊艦として設計されたとされる[2]。
この艦名は、冬季の日本海で雷撃演習を行った際、艦橋上部に発生した霜柱が甲板の排水溝を塞ぎ、演習終了後に艦内の湿気が一気に落ちたことから命名されたという説が有力である。ただし、軍令部内部では「雨天でも霜害でも出撃可能な艦」という逆説的な標語が先にあり、艦名が後から付けられたとの指摘もある[3]。
成立の背景[編集]
以後、では大型艦の不足を補うため、駆逐艦に火力と航続力を異常なまでに盛り込む発想が強まった。雨霜計画は、その極致としての若手将校・中佐と、造船官の技師が中心となってまとめたものであるとされる。
両者の共同メモには「魚雷搭載数の増加は砲塔数の減少で相殺すべし」「艦橋を狭くすれば風圧に勝てるが、指揮官の寿命は縮む」といった記述が残されていたという。なお、このメモの一部は所蔵とされるが、実際にはの旧倉庫から見つかった茶封筒に鉛筆で書かれていたため、真贋については今なお議論がある[要出典]。
設計[編集]
船体と機関[編集]
雨霜の船体は、より長く、しかしほどは大きくない「中庸の巨大さ」を目指していた。設計書では全長128.4メートル、幅11.8メートル、吃水3.9メートルとされ、艦首部には波浪を切るための逆傾斜クリッパー形状が採用されたという。
機関は高温高圧缶を3基搭載し、蒸気配管を艦内外周に二重に巡らせることで、冬季の結露を利用して補機を冷却する仕組みであった。これにより理論上は38.5ノットに達したが、試験では沖の低温海域でのみ記録が伸び、夏季には逆に缶室温が上がりすぎて速度が2ノット低下したとされる。
兵装配置[編集]
兵装は12.7cm連装砲4基と61cm四連装魚雷発射管2基が中心で、前甲板と後甲板にそれぞれ高角砲を兼ねた対空機銃座が置かれた。特筆すべきは、艦橋前面に「霜除け幕」と称する薄板鋼の可倒式防護板が設置されていた点で、これが射撃指揮装置の視界を妨げるとして艦政本部内で激論になった。
また、夜戦用照明として艦首両舷に黄色い遮光灯が埋め込まれたが、遠目には漁船にしか見えないため、の試験係からは「威力はあるが威厳がない」と評された。実際、夜間公試では魚雷発射の合図より先に烏が群がったという記録が残る。
開発史[編集]
試作案「雨」[編集]
最初期の案は単に「雨」と呼ばれ、ので図上検討された。ここでは従来の駆逐艦よりも艦橋を低くし、雨天時の視界確保を重視する設計が採られたが、艦橋が低すぎて波浪を受けるたびに測距儀が海水を飲むという欠点があった。
そのため設計班は艦橋の高さを上げた改修案を提出したが、今度は「雨の長所が死ぬ」と却下された。会議録には、出身の少佐が「雨を制する者は霜を制す」と発言したとあり、この一言が後の計画名に転化したとされる。
霜害試験と名称確定[編集]
名称が「雨霜」に定まったのは、1931年冬の近海演習が契機であったとされる。そこで僚艦の測距儀が凍結したのに対し、雨霜案の試験艦橋模型だけは氷結後に割れて内部の歯車がむき出しになり、かえって調整が容易だったという奇妙な結果が出た。
この現象を視察した海軍少将は「見た目は損壊でも、寒地ではこれが合理である」と述べたと伝えられる。ただし、同席した補給将校は「合理ではなく単なる不作為である」と記しており、のちの議論はこの一文をめぐって十数年続いた。
運用構想[編集]
雨霜は実艦として完成していないにもかかわらず、各艦隊司令部では仮想運用図が大量に作成された。最も有名なのは第七作戦室で作られた「雨霜運用要領甲案」で、敵巡洋艦隊に対し3隻1組で接近し、1隻が囮、2隻が魚雷攻撃を行うというものである。
しかし、後年の再評価では、雨霜の真価は戦闘力ではなく「荒天時に補給船団へ随伴し、見張り員の士気を保つこと」にあったとされる。実際、の冬季試験では、艦影が灰色の空に溶け込んで見失われる一方、煙突から出る白煙だけが異様に目立ったため、敵味方双方から「天気そのものを積んだ艦」と呼ばれたという。
社会的影響[編集]
雨霜計画は、海軍技術者のみならず民間造船業にも影響を与えた。神戸造船所では、雨霜の船体線図を応用した高速貨客船の研究が進められ、のちに「霜波型」と呼ばれる商船設計群が生まれたとされる。また、艦内湿度管理のために考案された排湿ダクトは、のちの冷蔵倉庫設計に転用されたという。
一方で、雨霜は「必要以上に大きい駆逐艦」の代名詞となり、9年頃には海軍兵学校で「雨霜並みに太るな」という隠語が使われたという記録もある。なお、この表現は体格ではなく予算超過を戒める意味であったが、同期生の間ではもっぱら食堂のカレー増量をめぐる冗談に使われた。
批判と論争[編集]
雨霜計画には、当初から「駆逐艦としては大きすぎ、巡洋艦としては武装が足りない」という批判があった。特にの推進系を採用したことにより、整備性が低下し、工廠側からは「一度作れば一度しか動かない艦」と揶揄された。
また、艦名をめぐる論争も根強い。海軍内の一部には、雨霜は本来「霙(みぞれ)」であるべきだったとする説があり、これは計画書の旧字体が判読不能だったことに由来する。さらに、予算折衝の席で官僚が「霜まで載せるなら雨は要らない」と発言し、これが後年まで引用される有名な皮肉となった[4]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『雨霜計画に関する基礎研究』海軍技術研究所報告 第12巻第4号, 1932, pp. 41-78.
- ^ 高橋政之助「大型駆逐艦の中間化と冬季性能」『造船学雑誌』Vol. 18, No. 2, 1933, pp. 115-139.
- ^ 青木義信『日本海軍における結露対策の系譜』呉工廠史料刊行会, 1948, pp. 203-251.
- ^ Margaret A. Thornton, “Cold-Steam Destroyers in the Pacific Theater,” Journal of Naval Anachronisms, Vol. 7, No. 1, 1961, pp. 9-33.
- ^ 中野利一郎「霜害試験の再検討」『海軍史研究』第5巻第3号, 1971, pp. 88-104.
- ^ A. K. Bell, “The Ameshimo Proposal and Its Thermodynamic Folly,” Proceedings of the Eastern Fleet Historical Society, Vol. 14, 1984, pp. 77-92.
- ^ 佐伯千尋『艦橋に降る雨と霜』三省堂, 1992, pp. 56-89.
- ^ 田村義春「大型駆逐艦概念の戦間期的肥大化」『軍事技術史叢考』第9巻第1号, 2001, pp. 12-40.
- ^ Hiroshi Kadowaki, “Why a Destroyer Needed a Dehumidifier,” Marine Design Review, Vol. 21, No. 4, 2008, pp. 201-219.
- ^ 防衛史編纂委員会『雨霜型艦艇設計覚書集』中央史料出版社, 2015, pp. 1-146.
外部リンク
- 海軍技術史アーカイブ
- 旧軍艦設計資料室
- 冬季艦橋研究会
- 架空海事史データベース
- 呉・佐世保合同造船史フォーラム