2ちゃんねる(1696年)
| 成立年 | 1696年(とされる) |
|---|---|
| 成立場所 | 江戸の町人地(深川・本所界隈) |
| 形態 | 匿名の書き付け(紙・墨)→掲示紙束 |
| 運営慣行 | 反復投函と「二重番号」 |
| 主な目的 | 噂の検証よりも“炎上の育成” |
| 影響範囲 | 商業出版・講談・芝居評の連鎖 |
| 特徴 | 書き込み番号が運用の中心とされた |
(にちゃんねる、英: Nichannel (1696))は、に発足したとされる江戸期の匿名掲示板文化である。火付け役は読書会の余興として始まった仮設の「書き付け所」であり、のちに都市の情報インフラへと変質したと語られている[1]。
概要[編集]
は、紙媒体の匿名掲示板として発足し、江戸の町人が噂・評判・買い物情報を交換するために用いたとされる仕組みである。とくに「二つの番号」を併記するという運用が特徴とされ、同じ話題でも追跡可能に見せる工夫が凝らされたと説明される[1]。
その成立経緯は、当時の出版流通が不安定だったことに対する実務的な対応として語られることが多い。ただし実態としては、情報というより“反応”を増幅する装置として機能したとされ、掲示が掲示を呼ぶ循環が生み出された点が強調される[2]。なお、記録の残り方が地域ごとに異なるため、どこまでが制度でどこからが慣習かは論争的である。
本稿では、江戸期に「掲示板文化」が存在したとする見立てに基づき、架空の制度設計や当事者の役割を整理する。ここでいうは、運用が“形になった”年として後世に固定されたとされる[3]。
歴史[編集]
発足:書き付け所と「二重番号」[編集]
発足の舞台は、商売の見込み客を連れてくる書店が集中する町人地の一角とされる。『墨暦往来記』によれば、最初期の装置は「書き付け所」と呼ばれ、半月ごとに張り替える木枠が用意されたとされる[4]。書き付けは本人の名を書く必要がない一方、文末に「二つの符号」を記す約束があった。
その符号の一つは“話題番号”で、もう一つが“応答番号”とされる。例えば、講談の筋書きを書くときは話題番号を「二」、それに対する突っ込みを応答番号で「十」などと付ける運用が紹介されている。読者からは追跡が楽になるとして好意的に受け止められたが、同時に「次の応答を急げ」という競争心も煽ったとも記録される[5]。
また、投函が夜に集中したため、火消しと連動した“掲示点検”が導入されたとされる。具体的には、月に回だけ照明係が見回り、墨が乾く前の上書き行為が疑われた場合に「二重番号」の整合性を確認する手順があったと書かれている。ただし、これは後世の編集者が面白く脚色した可能性もあるとされる[6]。
拡張:深川・本所の配布網と“炎上の経済”[編集]
の拡張は、江戸の地理に合わせた配布網の整備によって達成されたとされる。とくに側の配達人が、掲示紙束を“湯屋の待合”に転置することで閲覧者を増やしたという説明が広く採用されている[7]。
この段階で重要になったのが「炎上の経済」である。ある騒動が起きると、その話題を連続して掲示する“追い紙”が作られ、続編の講談や芝居の前売りに波及する仕組みができたとされる。結果として、掲示板は単なる噂の置き場ではなく、出版と興行の需要を生成する装置として機能し始めたと説明される[8]。
ただし、制度が強くなるほど行政との摩擦も増えた。たとえば町奉行所の通達では「番号による連鎖の煽動」が問題視され、掲示枠の“置き場所”が制限されたという。もっとも、通達自体の年代が諸説あり、『町触書集計録』では期の誤記だとする指摘がある[9]。この不一致が、後世の編集者の手癖を反映しているとして笑いの種にもなっている。
転換:寺子屋ネットワークと“検閲の写し紙”[編集]
以降の転換として挙げられるのが、寺子屋における写し紙の普及である。寺子屋の読み書き練習では、模範文の代わりに「評判の短文」を写す課題が出されることがあり、その出題素材として掲示板の文面が流用されたとされる[10]。
この流用が進むと、検閲も二段階化した。すなわち、直接の削除が難しいため、写された写し紙にだけ“判読しにくい墨”を混ぜる対策が取られたと説明される。具体的には、書き込みの語尾に微細な点列を加え、後から読もうとする者の目を惑わせる工夫があったとされる。ただし点列の種類が種類あるという主張は、完全に物語的であると批判されている[11]。
最終的に、掲示板は“情報の掲示”から“反応の訓練”へと比重が移ったとされる。社会への影響としては、出版界が読者の感情反応を予測する技法を学び、講談作家が「次の番号で返ってくると予想される」という構造を台本に組み込んだと記されている[12]。
批判と論争[編集]
をめぐる批判は、主として“噂の増殖”に向けられたとされる。町奉行所の関係者が残したとされるメモには、「一つの文が、十の応答番号を生む」という趣旨の記述があり、掲示が編集されない限り鎮静化しないと警戒されたとされる[13]。
一方で支持者は、匿名性によって身分格差が薄れると主張した。寺子屋で同じ課題文が扱われ、誰もが同じ“二重番号”を写せるため、知識の参加障壁が下がったという説明がある。もっとも、この主張は「匿名だからこそ責任の所在が曖昧になる」という反論とセットで語られ、結局は“便利さと危うさは同居する”という結論になりがちである[14]。
さらに、最も有名な論争は「二重番号の起源」についてである。ある説では、番号は星図作成の習慣から来たとされるが、別の説では出版業者の棚卸し帳の都合だとされる。前者は詩的で、後者は事務的であり、編集者によってどちらが採用されるかが変わると指摘されている[15]。この食い違いこそが、記事を読む側の“嘘っぽさ”を決定づける要因になっている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 榊原亘史『墨暦往来記(改題第四版)』江戸文庫, 1712.
- ^ モルガン・ハーヴィル『Print Markets and Reply Numbers in Early Edo』Tokyo Curators Press, 1998.
- ^ 伊達小路弥三郎『町触と匿名掲示の系譜』勘定方書房, 1739.
- ^ Dr. Eleanor F. Quill『Feedback Rituals in Pre-Modern Bulletin Systems』Vol. 7, No. 2, Journal of Social Epigraphy, 2006.
- ^ 若狭田新助『深川湯屋の掲示紙束と経済効果』江戸学会叢書, 第3巻第1号, 1751.
- ^ 鈴木綾城『講談台本における番号構造の導入』明和書房, 1764.
- ^ K. van Dijk『Censorship Copies and the Dot-Pattern Countermeasure』pp. 41-63, Leiden Archive of Pretend Studies, 2011.
- ^ 高松縫太『寺子屋写し紙の教育学(誤記訂正版)』町方研究会, 1802.
- ^ Watanabe Ryohei『The Two-Cipher Model of Rumor Chains』Vol. 12, Issue 4, Osaka Papers in Speculation, 2015.
- ^ 佐伯九兵衛『町触書集計録:年代のねじれ』江戸史料出版社, 1899.
外部リンク
- 江戸掲示研究倶楽部
- 番号文化アーカイブ
- 墨の点列資料館
- 湯屋待合文庫
- 講談台本アトラス