あかさたな病
| 分類 | 機能性言語症候群 |
|---|---|
| 初出 | 1958年ごろ |
| 提唱者 | 渡辺精一郎 |
| 主な流行地 | 東京都、静岡県、札幌市 |
| 症状 | 発話の冒頭が「あかさたな」で始まりやすい |
| 関連機器 | 回転式電話機、和文モールス、初期の自動採番機 |
| 学会での位置づけ | 一時は民間俗信とされた |
| 診断法 | 五段階音節復唱試験 |
| 通称 | アカサタナ反復 |
あかさたな病(あかさたなびょう、英: Akasatana Syndrome)は、五十音のうちからまでの発話順が異常に固定化されるとされるの一種である。主に後期の電話交換業務との普及の影響下で知られるようになった[1]。
概要[編集]
あかさたな病は、会話の開始時に「あ」「か」「さ」「た」「な」の五音が過剰に優先される現象を指す医学・言語学上の概念である。患者は自己紹介、注文、謝罪のいずれを試みても、一定の確率で「あかさたな」から口を開いてしまうとされる。
この症候群はのにあった旧系の電話応対訓練所で最初に体系化されたとされ、当初は交換手の「定型応答癖」として扱われた。のちにと言語生理研究班が合同調査を行い、特定の音節列が脳内の発話準備回路を占有するという仮説が提示された[2]。
歴史[編集]
発見の経緯[編集]
1958年、の電話交換室で勤務していた交換手・中村ふみ子が、受電先の企業名を告げる際に「ア、カ、サ、タ、ナ工業でございます」と繰り返したことがきっかけとされる。上司は当初、単なる緊張と判断したが、同室の12名中7名が繁忙時間帯に同様の発話逸脱を示したため、社内では半ば冗談として「五十音の初手固定」と呼ばれた。
翌年、の委託を受けた渡辺精一郎が調査報告『音節先行癖の分類学的整理』を提出し、これが後の「あかさたな病」概念の原型になったとされる。なお、この報告書には、被験者の発話を採点するための独自指標「AKS指数」が導入されていたが、計算式の一部が現在も不明である[3]。
学術化と流行[編集]
1964年の前後には、外国人観光客への案内業務に携わる職員のあいだで症例が急増したとされる。特にの案内所では、フランス語を話そうとした係員が「アカサタナ、パリ行きは…」と冒頭だけ日本語になる事例が相次ぎ、現場では「五音の呪い」と恐れられた。
この時期、の深夜相談番組で匿名投稿が相次ぎ、昭和39年度だけで231件の「言い出し困難」相談が寄せられたという。もっとも、実際には単なる口癖であった例も多く、後年の再調査では有症率の推定値が3.8%から0.6%へ急落している[4]。
診断法の確立[編集]
1972年、の港湾検疫所で勤務していた言語療法士・佐伯ミツが、症状の再現性を高めるため「五段階音節復唱試験」を考案した。これは被験者に「あかさたな」「かさたなあ」「さたなあか」などの音列を30秒間で何度発声できるかを測るもので、平均18.4回を超えると陽性と判定されたという。
試験は一見して学術的であるが、実際には検査者自身が早口言葉に耐えられず、3回に1回は笑いをこらえきれなかったと記録されている。このため一部の研究者からは「診断そのものが症状を誘発する」との指摘があった。
症状[編集]
典型例では、患者は自己紹介時に「、、…」と先頭音節を整列させるように発話し、その後に本来の要件を思い出す。軽症では頭文字だけが偏るが、重症例では住所、電話番号、果ては感謝の言葉まで五十音順に並べてしまう。
また、特定の環境で悪化しやすいことが知られている。とりわけ、のベル、蛍光灯の唸り、あるいは書類の「ふりがな」欄を見ると発作的に「あかさたな」が口をつくとされる。都内の調査では、発症者の62%が「名札を見ると頭が五音で埋まる」と答えたが、質問票の設問自体が誘導的であった可能性もある。
原因[編集]
原因としては、幼少期にを縦読みで暗唱させられたことによる音韻回路の偏位、電話応対における定型句の反復、さらに端末の初期設定が挙げられてきた。特に1970年代前半の官公庁では、文書番号が「あかさたな順」で割り振られる慣行があり、これが発症率を押し上げたとする説が有力である。
一方で、民間療法として流布した「さ行を先に三回読むと治る」という方法は、実験的には成功率13%前後にとどまり、むしろ被験者を早口にするだけだった。なお、北海道の一部地域では、発症が厳冬期に増えるという報告があるが、これは暖房の効いた部屋でがくぐもって聞こえるためだと説明されている[5]。
社会的影響[編集]
あかさたな病の概念は、電話交換業務、秘書教育、放送原稿の作成法に影響を与えたとされる。1968年にはが、窓口職員向けに「初語回避マニュアル」を配布し、冒頭で固有名詞を言い切る訓練を義務化した。このマニュアルは全34頁で、なぜか最終頁にだけ『「わ」は使いにくいので事前に避けよ』という注記がある。
また、流行語としての派生も見られ、1980年代にはテレビ番組で「今日はちょっとアカサタナ気味」と言えば、言葉に詰まることの婉曲表現として通じる地方があったという。もっとも、これはの一部調査員が集中的に聞き取りを行った結果、実際以上に広まって記録された可能性がある。
批判と論争[編集]
あかさたな病は、当初から医学界と民俗学界の双方から批判を受けた。医学界では「症候群と呼ぶには症例の定義が曖昧である」とされた一方、民俗学界では「電話交換手の職業的な言い回しを病理化したにすぎない」と指摘された。
とりわけ論争を呼んだのは、1981年にで発表された『五音先行と都市化の相関』である。著者は全国47都道府県のうち39都道府県で発症率に差があるとしたが、集計表にはとの数値が逆転していた疑いがあり、現在でも要出典とされることがある[6]。
その後の扱い[編集]
1990年代以降は、教育現場での発話訓練が均質化したことから症例数は減少したとされる。ただし、スマートフォンの音声入力が普及した2010年代には、画面に表示される候補語を見て「最初の五音を整えたくなる」新型のあかさたな病が報告された。これは旧来の電話交換型とは別系統で、学会では便宜上「あかさたな病2.0」と呼ばれている。
2022年にはの外部委託班が追跡調査を行い、若年層の10人に1人が「会話の出だしで五十音図を意識した経験がある」と回答した。しかし、この調査はオンライン掲示板経由の自発回答に依存しており、統計的にはかなり偏っているとみられる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
の文化
脚注
- ^ 渡辺精一郎『音節先行癖の分類学的整理』文部省言語衛生研究報告, 1959年.
- ^ 中村ふみ子『交換手日誌にみる初語固定現象』日本音声衛生協会誌 第12巻第3号, 1961年, pp. 44-61.
- ^ 佐伯ミツ『五段階音節復唱試験の設計と評価』東京言語療法学雑誌 Vol. 8, No. 2, 1973年, pp. 112-129.
- ^ Harold P. Whitman, “Initial-Syllable Locking in Urban Switchboards,” Journal of Applied Phonetics, Vol. 5, No. 4, 1965, pp. 201-219.
- ^ 鈴木和彦『かな入力端末と発話癖の相関』情報端末史研究 第4号, 1976年, pp. 9-28.
- ^ Margaret L. Sayers, “Akasatana Syndrome and Administrative Voice Patterns,” Pacific Linguistics Review, Vol. 19, No. 1, 1982, pp. 77-95.
- ^ 小野寺宏『都市化と五音反復の社会学』日本都市言語学会紀要 第21号, 1984年, pp. 133-150.
- ^ 田村京子『「わ」は使いにくい——窓口業務における初語回避の実態』郵政行政資料集 第7巻第1号, 1969年, pp. 5-14.
- ^ Eleanor J. Finch, “The Akasatana Effect in Seasonal Speech Disorders,” Proceedings of the North Pacific Speech Symposium, 1991, pp. 55-70.
- ^ 日本言語病理学会編『五音先行と都市化の相関——昭和末期症例の再集計』学会抄録集, 1981年.
- ^ 三浦真一『あかさたな病の民間療法史』国語文化研究, 第15巻第2号, 2001年, pp. 88-104.
外部リンク
- 日本言語衛生アーカイブ
- 東京交換業務史料館
- 国立五十音研究センター
- 昭和音声病理データベース
- アカサタナ病対策協議会