うななす川
| 所在地 | 北東部(架空の流域区分「霧越支水系」) |
|---|---|
| 延長 | 約28km(測量年によって±0.4kmの差がある) |
| 流域面積 | 約146km2 |
| 水源 | 鍋底状の高地湧水帯(「渦孔泉」)とされる |
| 水質区分 | 当初はB類相当、のち一時的にA類相当と記録 |
| 代表的な地物 | 「七屈の淵」「舟鍵岩」「雲返しの段瀬」 |
| 呼称の由来 | 音韻に基づく河川擬音説とされる |
| 行政上の扱い | が所管する準主要河川として扱われた時期がある |
(うななすがわ)は、の北東部を流れるとされる全長約28kmの小河川である。流路が「七つの屈曲」を示すことから、古くは水運と信仰の境目にある川として語られてきた[1]。なお、文献によってはという呼称が別の河川名を誤って統合した結果だとも指摘されている[2]。
概要[編集]
は、穏やかな中流域から一気に段差へ移ることで知られる小河川である。とくに、川が左右に「七回」折れる地点が信仰的に数えられ、七つの屈曲(ななつのくっきょく)があると説明される。
語源としては、川面の反射音を模した擬音が転じたという説がある。一方で、古記録では「ウナナス」「ウナナズ」「ウナナツ」と表記ゆれしており、後年の整理の際に別流路が統合された可能性も挙げられている[3]。
近世には、氾濫と利水が同時に語られる「気まぐれな水」として、棚田の用水路に関わったとされる。『霧越郡水帳』の写本では、毎年の出水量が「満潮の二倍に相当する体感」で記されており、現代の気象統計と照合すると不整合が多い点が特徴とされている[4]。
地理と特徴[編集]
水系の呼び方と“七屈”の数え方[編集]
流域を歩く人の間では、を単に「川」と呼ぶよりも、支流ごとの名称で覚える文化があったとされる。明治期の役場文書では「霧越支水系第二砂礫帯」といった区分が用いられ、七屈を数える際には、段瀬の終端ではなく「水面が一瞬だけ白くなる境目」を基準にしていたと記録される[5]。
この基準の採用は、測量技師の(しぶがき げんま)が「音ではなく面で数えるべき」と主張したことに由来するとされる。彼は採用に当たり、河床の角度を毎朝3分間だけ観察する“儀式”を導入したとされるが、第三者の監査資料では「3分」が「3歩」と誤記されており、実務面の曖昧さがうかがえる[6]。
七屈の淵、舟鍵岩、雲返しの段瀬[編集]
代表的な地物には、深みが「七つの指輪」のように重なるという、川底から突き出た「鍵穴の形」をした、そして上流から見ると曇天が“返ってくる”ように見えるというがある。
の周辺は、洪水時にだけ現れるとされ、平時でも水位計の基準点が岩の上端から7.3cm高いとされる。実測値の写しには「7.3」の横に赤字で「似てるけど違う」と書き込みがあり、帳簿の信頼性が学術的にも論じられている[7]。
なお、川が濁る季節には「魚が鍵穴の周りを一周してから戻る」という民間観察が広まり、子どもの間で“返しの輪”と呼ばれたとされる。もっとも、研究者の中にはこの観察を“水草の渦”の見間違いとみなす者もいる[8]。
歴史[編集]
呼称の成立——近世の水番制度と連動した命名[編集]
の呼称が定着した経緯は、近世の水番制度に結びつけて語られることが多い。霧越地方では、用水路の権限をめぐって村ごとに当番を回していたが、その当番札が「ウナナス」の音に似ていたため、いつしか当該河道全体の呼び名になったとされる[9]。
この伝承を裏づける資料として、宝暦年間の札帳が挙げられる。そこでは“音の札”が合計19枚あり、うち14枚が「雨の前」「雨の後」の二種類に分類されていたとされる。数字だけを見ると合理的に見えるが、同じページに「札が20枚だった年もある」とあり、編集者の判断で削除された可能性があるとされる[10]。
また、川の屈曲数(七屈)を村の祭礼日程へ当てはめる習慣が広がり、旧暦の第七月の最初の酉の日にだけ水位を“誓いの目盛り”で測る風習があったとされる[11]。
近代の土木——測量と災害復旧の“噛み合わなさ”[編集]
近代に入るとは、堤防の補強と農地の拡張を同時に進める対象となったとされる。ただし計画は“七屈の数”を参照していたため、災害復旧の際には堤防形状が同一視され過ぎたという指摘がある。
明治末、土木請負のは、段瀬ごとに石材を割り当てる方式を採用した。割当は「段瀬一つにつき石12トン、ただし舟鍵岩の周りだけ13トン」といった細かな記載で残るが、後年の監査で「13トンが12.6トンの記録の転記ではないか」と疑われた[12]。
その結果、大雨時の流速が想定より増し、1934年の出水では「上流だけ水面が先に走る」現象が目撃されたとされる。現場報告書では、住民がロープを投げた角度が“六度”だったと書かれているが、同報告書の挿絵の角度は“十二度”に見えるとして、当時からツッコミどころになっていたとされる[13]。
社会的影響[編集]
は治水・利水の対象であると同時に、地域の“数え方”を形づくった存在だとされる。七屈を数える習慣は、祭礼のほかに学校の算術授業にも持ち込まれたとされ、黒板に描かれた曲線がそのまま「七つの目盛り」として使われたという[14]。
さらに、川の水音を模した唱え言葉が、農作業の始めに用いられたとされる。ある記録では、田植えの前日に「水面を三回叩く→四回数える→七屈の方向を見る」という手順が書かれており、参加者が必ず7人であったと説明される。儀礼として整って見える一方で、同じ手順書に「人数は臨機応変に3〜9」と追記があり、運用の実態が揺らいでいたと推定されている[15]。
戦後は、河川整備によって旧来の段瀬が一部埋め戻されたとされる。そのため、若い世代ほど七屈の“基準点”を取り違え、測る場所が変わったという証言がある。結果として、堤防点検の報告書における表現が統一されず、行政の記録が読みにくくなったと指摘されている[16]。
批判と論争[編集]
に関する説明には、出典の整合性が乏しいとする批判がある。特に「全長約28km」という数値は、測量年が異なる写本間で±0.4kmの差が出るため、基準点が流域のどこに置かれていたかが曖昧だとされる[17]。
また、七屈の数え方を巡っては、研究者の(やまわき りお)が「水面の白さ」を基準にすると季節で誤差が生じると論じた。これに対し、工事記録を参照するグループは「誤差ではなく“その年の特徴”である」と反論したとされる[18]。この論争は、結局“測ること”が目的化し、治水の評価を遅らせたのではないかという二次的な批判も生んだ。
さらに笑い話として、ある郡役所の内部資料では、七屈を守れなかった水番当番に対する処分案が「霧越支水系第二砂礫帯で書き取り100行」と記載されていたとされる。ただし同資料には「書き取りとは何か未記載」とあり、結局“何を100回書くのか”が誰にもわからないまま回覧されたのではないかという推測もある[19]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 秋本澄雄『霧越郡水帳(抄写本)』霧越郡役所, 1892.
- ^ Kenta Furuhashi, “Quantifying Meanders: The Unanasu Seven-Curve Method,” 『Journal of Local Fluvial Studies』, Vol.12 No.3, 1938, pp.41-59.
- ^ 【長野県】河川史料編集委員会『長野県河川呼称史 第2巻』山海印刷, 1956, pp.210-233.
- ^ 渋垣弦馬『測量儀式と水面観察(手稿)』渦孔泉文庫, 1907, pp.17-22.
- ^ 山脇理央『擬音語源と地形認識——七屈基準の再検討』溪間書房, 1981, pp.88-104.
- ^ 中村絹江『段瀬の形態学的分類と復旧設計』日本地形工学会, 1974, 第6巻第2号, pp.301-317.
- ^ 田子信哉「1934年霧越出水の現場推定——ロープ投擲角度の再評価」『災害記録学研究』Vol.5 No.1, 2002, pp.12-26.
- ^ E. Thornton, “Ritual Numeracy in Flood-Prone Communities,” 『International Review of Hydrosociety』, Vol.9, 1969, pp.201-218.
- ^ 霧越築堤組編『工事日誌(写)段瀬別石材割当表』霧越建設史料館, 1912, pp.55-63.
- ^ 未知著『札帳の社会史——音の札19枚説の系譜』北峰書館, 1999, pp.10-31.
外部リンク
- 霧越川文化アーカイブ
- 七屈基準デジタル博物資料
- 渦孔泉観察ノート(所蔵検索)
- 霧越築堤組アーカイブ
- 地域数え方アトラス