おせう
| 氏名 | 尾瀬 鵜江 |
|---|---|
| ふりがな | おせ うえ |
| 生年月日 | 1874年3月18日 |
| 出生地 | 長野県下伊那郡阿智村 |
| 没年月日 | 1941年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗記録家、方言採集家、編集者 |
| 活動期間 | 1896年 - 1938年 |
| 主な業績 | おせう式記述法の確立、山間部口承資料の索引化 |
| 受賞歴 | 帝国民俗資料功労賞(1932年) |
尾瀬 鵜江(おせ うえ、 - )は、の民俗記録家、方言採集家、ならびに「式記述法」の提唱者である。山村の口承を近代的な索引体系に接続した人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
尾瀬 鵜江は、後期から初期にかけて活動した民俗記録家である。山村に残る語り物や年中行事を、独自の「式記述法」で分節し、の周辺研究者に強い影響を与えたとされる。
その名は一見すると女性名の愛称に見えるが、実際には信州方言の「おせ(押せ)」と古語の「うえ(上へ)」を組み合わせた筆名に由来するとされる[2]。本人は生涯にわたり「人の話は、内容よりも、どこで息を継いだかが重要である」と述べたという。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
尾瀬 鵜江は、下伊那郡の旧家に生まれる。父は木地師の見習い、母は寺子屋の読み聞かせ役で、幼少期から周辺の祭文と山仕事の掛け声を聞いて育った。後年の自筆年譜には、7歳のときに「声の切れ目を数える癖」が始まったとある。
の小学校では成績が中の上であったが、教師の書いた板書を「意味ではなく行間で覚える」ため、しばしば奇妙な答案を提出したとされる。1890年頃には、村の宿場で旅人の話を方眼紙に写し取り、方言差を色鉛筆で塗り分ける作業を始めていた。
青年期[編集]
、の商業補習学校に短期間通ったのち、へ出ての外郭記録係として働いた。ここで門下の写本助手を務めたという記述があるが、勤務台帳には同名人物が2名いるため、後年の研究では同姓同名の別人説も指摘されている[3]。
、彼は浅草の貸本屋で見た「読み上げると文字が揺れて見える帳面」に触発され、以後、会話を五つの間合いに分けて記録する独自手法を考案した。この時期に用いられた符号が、のちの記法の原型となった。
活動期[編集]
からにかけて、尾瀬は、、などの山間部を巡り、年中行事と口承歌を採集した。特にの白川郷調査では、積雪で足止めされた12日間のあいだに、同一の昔話が8通りの結末を持つことを確認し、これを「語尾の分岐現象」と名付けた。
民俗講習会で発表した「話者の沈黙を採番する方法」は一部で熱狂的に受け入れられ、同年度だけで受講希望者が417名に達したとされる。一方で、記録用紙を異様に多く消費することから、経理担当の係官に「紙の無駄遣い」と批判された記録も残る[4]。
の後には、被災地で流布した瓦版と口伝の差異を比較し、噂が1週間で4段階変形するという仮説を発表した。この論文は後に文化面で紹介され、民俗学と報道研究の接点を作ったと評価される。
晩年と死去[編集]
に入ると、尾瀬は病を得て現地調査を減らし、の下宿で索引カードの整理に専念した。晩年は「人名索引が整えば、村は半分救われる」と語っていたという。
11月2日、鎌倉市の療養先で死去した。享年67。死後、遺稿の一部は前身の資料室に収められたが、墨のにじみが強く、索引番号だけが先に独立して保存されたという逸話がある。
人物[編集]
尾瀬は几帳面である一方、現場では極めて粘り強い人物であったとされる。現地の長老が語りをはじめると、会話の節目で必ず湯呑みを置き、音の変化を確認してから筆を走らせたという。
逸話として有名なのは、の採集行で、村人の長話に付き合いすぎて囲炉裏の薪が17本分なくなったにもかかわらず、「本日の収穫は有意である」と書き残した件である。また、記録の誤字を恐れるあまり、同じ語を3回書いたあとに4回目でようやく確定する癖があった。
酒はほとんど飲まなかったが、甘酒だけは例外で、冬季調査のたびに「これは方言の潤滑油である」と言っていたと伝えられる。
業績・作品[編集]
尾瀬の最大の業績は、口承資料を単なる文章ではなく、息継ぎ・抑揚・沈黙を含めて記述するの体系化である。これにより、従来は「同じ話」とみなされていた異伝が、語り手ごとに最大19段階に細分化できるようになった。
代表作には『採集帳』(1911年)、『話の折り目に関する覚書』(1918年)、『沈黙索引法試案』(1926年)がある。特に『沈黙索引法試案』は、本文より注記のほうが長いことで知られ、後年の研究者が「注が本体である」と評した[5]。
また、尾瀬は内の小学校向けに「わらべ歌と地図を結ぶ黒板地図」を寄贈した。これは地域教育における先駆的試みとされる一方、地図の上に歌詞を書き込みすぎたため、地理と歌詞が混線した児童が続出したという。
没後に刊行された『尾瀬鵜江全集』全7巻は、実際には第4巻までしか本文がなく、残りは索引・索引の索引・索引の補遺で構成されている。研究者の間では、この構成自体が尾瀬の思想を最もよく示すとされる。
後世の評価[編集]
尾瀬の方法は、のみならず、やの一部にも影響を与えたとされる。特に後半のでは、口承神話の分類に尾瀬式の符号法が応用され、調査票の回収率が前年の1.8倍になったという。
一方で、彼の記法は煩雑すぎるとして批判も少なくなかった。ある批評家は「1話を記録するのに1冊要する」と書き、別の編集者は「尾瀬の最大の発明は、採集現場にまで事務局を持ち込んだことだ」と評した。ただし、中期以降に再評価が進み、現在では「デジタル人文学の先駆」とみなす説もある[6]。
なお、にで開催された企画展では、尾瀬の自筆ノートが展示されたが、来場者の多くはタイトル欄を読まずに「これだけで作品だ」と驚いたという。
系譜・家族[編集]
尾瀬家はもともとの山間に根を持つ半農半林の家系で、父・尾瀬吉兵衛、母・鵜ノ井セツの結婚により、のちに珍しい複合姓の由来を持つとされた。尾瀬本人は家族名義の整理を極端に重んじ、親戚を含めた一族の呼称を年ごとに改訂していたという。
妻の尾瀬 りんはの呉服商の娘で、調査旅行の際には帳面の綴じ替えを担当した。長男・尾瀬 恒一はの複写係となり、娘・尾瀬 つやは地方新聞の校正を務めた。なお、孫の一人が戦後に「祖父の仕事は、村の声を製本したことだ」と述べた記録が残る。
系譜資料には弟が2人いたとされるが、戸籍簿と墓碑銘で人数が一致せず、研究者の間では「記録係が家族ごと整理しすぎた」ために生じた混乱と考えられている。
脚注[編集]
[1] 尾瀬鵜江記念資料館編『尾瀬鵜江年譜』私家版、1968年、pp. 4-7。 [2] 佐久間直彦「『おせう』という筆名の民俗学的転回」『方言と記号』第12巻第3号、1979年、pp. 21-29。 [3] 中村嘉門「国語調査会台帳の再検討」『日本近代資料学雑誌』Vol. 8, No. 2, 1986, pp. 113-121。 [4] 文部省資料編纂室『昭和初期の調査費と用紙配分』非売品、1955年、pp. 88-91。 [5] 尾瀬鵜江『沈黙索引法試案』山河書房、1926年、pp. 1-143。 [6] Margaret H. Thornton, "Indexing Silence in Early Japanese Folklore Studies," Journal of Comparative Archivistics, Vol. 14, No. 1, 2008, pp. 44-60。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 尾瀬鵜江記念資料館編『尾瀬鵜江年譜』私家版, 1968.
- ^ 佐久間直彦『山村口承の採番と記述』信濃民俗社, 1971.
- ^ 中村嘉門「国語調査会台帳の再検討」『日本近代資料学雑誌』Vol. 8, No. 2, 1986, pp. 113-121.
- ^ 田辺澄子『沈黙を読む技法』講談社学術文庫, 1994.
- ^ 小林義人「おせう式記述法の成立」『民俗記録研究』第5巻第1号, 1978, pp. 9-33.
- ^ Margaret H. Thornton, "Indexing Silence in Early Japanese Folklore Studies," Journal of Comparative Archivistics, Vol. 14, No. 1, 2008, pp. 44-60.
- ^ 山岸修一『尾瀬鵜江全集解題』河原書店, 1972.
- ^ 斎藤みどり「山岳村落における符号化と記憶」『記録文化』Vol. 3, No. 4, 1999, pp. 77-89.
- ^ 文部省資料編纂室『昭和初期の調査費と用紙配分』非売品, 1955.
- ^ Christopher L. Wren, "The Grammar of Pause Marks," Archivum Asianum, Vol. 11, No. 2, 2011, pp. 201-219.
外部リンク
- 尾瀬鵜江記念資料館
- 信州口承アーカイブ
- 日本索引文化研究会
- 山村記述法デジタルコレクション
- 阿智村郷土資料室