きのに
| 領域 | 音響心理学・方言学・気象民俗 |
|---|---|
| 観測対象 | 会話時の語尾知覚(比喩的に「香る」) |
| 主な成立機序(とされる説) | 共鳴する語音と湿度の相関 |
| 最初期の記録 | 末期の私家文書群(とされる) |
| 関連用語 | きにおい、ひびき鼻、語尾湿度指数 |
| 論争点 | 科学的再現性とサンプル偏り |
| 一般呼称 | 「きのにが出る日」 |
きのには、の民間言語観測で言及される「音のにおい」に近い概念とされる[1]。主にとの交差領域で語られ、一定の条件下で会話の語尾が「におう」ように感じられる現象として記録されている[2]。
概要[編集]
とは、ある地方の話者が会話をしている最中に、特定の語尾(例:「〜なのに」「〜きのに」などの連続)に対して、鼻腔ではなく“耳の奥”で香気を感じたと報告する現象を指すとされる[1]。
この概念は、実測のにおい(揮発性物質)ではなく、音と時間間隔(ポーズ)に結び付いた知覚として説明されることが多い。とりわけ湿度が高い日の方が「きのにが立つ」と表現される点から、側の関与がしばしば推定されてきた[3]。
一方で、きのにが「言葉の記憶の訓練」ではないかという反論もあり、観測者の期待効果(プラセボ的報告)を問題視する研究者もいる。なお、当事者の間では“嘘っぽい”ほど語尾が揃った会話ほどきのにが濃くなるため、記録係の技量が結果を左右するとされる[4]。
歴史[編集]
起源:夜更けの気圧表と、口の中の香り[編集]
きのにの起源は、の港町で気象通信士をしていたとされるの手記に求められることが多い。手記では、昭和30年代後半に、海霧が入る夜のラジオ天気図を読み上げた直後に、同僚の話す「〜なのに」が“甘く聞こえる”と記されている[5]。
手記の特徴として、気圧よりも「読み上げ速度」が重視されている点が挙げられる。松本は、読み上げを「毎分108〜112音節」に揃えると“香りが耳に出る”とし、さらに語尾の停止時間を「0.21〜0.24秒」に合わせると再現率が上がったと書いたとされる[6]。この数値の細かさは後年、報告の真偽をめぐって笑われる原因になったが、同時に“民俗技術”として尊重もされた。
その後、内の学校教員グループが、方言の語尾を教材として揃え、集団で記憶の錯覚を検証する「語尾湿度測定会」が始まったとされる。参加者は延べで27名、測定夜は年に3回、合計で81回の会が開かれたとする資料が残っている[7]。ただし当時の学内規定により、録音記録の保管期間が短かったため、一次資料の散逸が指摘される[8]。
制度化:語尾湿度指数と、観測業者の参入[編集]
きのにが“現象”として語られるようになった転機は、の計測会社が「語尾湿度指数(KBDI)」という社内指標を提案したこととされる[9]。KBIDIは、湿度(%)と会話時の平均ポーズ(秒)を掛け合わせる単純式であると説明され、営業資料には「会話が香る条件を数値化」とまで記されていた[10]。
特に話題になったのは、指数が「指数60以上で“きのに発生率が2.7倍”」と宣伝された点である。もっとも、その“発生率”は、研究というより受付係への質問票に基づくとされ、しかも質問票が「本当に香りましたか?(はい/いいえ)」のみだったことから、後年の再解析で分散が異常に小さいと指摘された[11]。
この時期、の放送局が、方言コーナーの台本に「きのに推奨語尾」を挿入した番組を制作したとされる。視聴者からの投書が月平均143通に達したという数字は、当時の番組審議資料に残っているが、同資料の別ページには“投書がスポンサー企画と連動”していた可能性が示唆されている[12]。このように、きのには学術と商業の間で、ゆるやかに定着していった。
社会への影響:就職面接と、方言の“香り合わせ”[編集]
きのには、教育・労務の場にも波及したとされる。たとえばの企業研修で、面接官が応募者の語尾に“きのにが出る話し方”を誘導し、面接の印象を調整する試みが行われたと報告されている[13]。研修資料には「語尾の停止0.23秒」「息継ぎの高さは鼻先から指2本分」のように比喩と数値が混在しており、実務担当者は「香りの有無ではなく、自己調整の上手さを測っている」と説明したとされる[14]。
また地方自治体でも、観光キャンペーンのコピーに「きのに日和」が採用された例がある。観光課は、雨上がりの夕方に市内の方言イベントが盛り上がる“気分要因”を説明するために用いたとされ、SNS上では「今日きのに出てるらしい」という投稿が2020年代に一度だけ短期流行したという[15]。
ただし社会的には、きのにが“上品に聞こえる話し方”へ寄与するという期待が強まり、逆に方言話者が自分の語尾を矯正し始めた、という批判も生まれた。いわゆる「香り合わせによる方言の均質化」が起きた可能性は、後年の聞き取り調査で言及されている[16]。
批判と論争[編集]
科学的検証の観点では、きのにが“実在の揮発性物質”ではなく“音の後に立つ比喩的知覚”として語られるため、再現実験が難しいとされる。研究者の中には、聴取者の記憶や文脈が先に香りを作る(期待効果)と主張する者もいる[17]。
一方で、再現実験を試みたのチームは、同一文章を三速度(遅・中・速)で読み、参加者に「香りの方向」を描かせるテストを行った。結果として、湿度と“香りの報告率”が統計的に関連したとされるが、チーム自身が「報告率が質問の文言で変化する」との注記を残しており、再評価の余地が指摘された[18]。さらに、数値が細かすぎる記録(0.21〜0.24秒など)に依存しすぎたため、恣意性を疑う声もある。
また、業者が関与した時期の資料では、質問票の選択肢が「甘い・土っぽい・焦げた」の3分類に限定されており、これが方言の多様性を削った可能性も論点となった[19]。このため、きのには“文化現象”として扱うべきか、“誤報の集積”として扱うべきかで学術的立場が分かれている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 松本鳴海「夜霧のラジオ天気図と語尾の香気について」『海霧通信叢書』第12巻第3号, pp.33-51, 1958。
- ^ 潮彩計測社編『語尾湿度指数(KBIDI)の算出手順と運用報告』潮彩計測社, 1976。
- ^ 田村緑香「方言語尾における停止時間と主観報告の相関」『日本音響心理学会誌』Vol.41 No.2, pp.101-126, 1989。
- ^ 中村藍「視聴者投書による現象定着のメカニズム—東都民放の「きのに日和」検討」『放送と社会の計測』第7巻第1号, pp.9-27, 2003。
- ^ K. Sato, M. Hiramatsu, “Pose-Dependent Report Bias in Dialect Perception Experiments,” 『Journal of Folk Phonetics』Vol.18 No.4, pp.220-241, 2011。
- ^ L. Hernandez “Expectation Language in Sensory Metaphors: A Humidity-Cued Study,” 『International Review of Sound Cognition』第3巻第2号, pp.44-63, 2016。
- ^ 佐伯由紀「語尾湿度測定会の記録遺産と欠落問題」『北海道教育史研究』Vol.29 No.1, pp.77-98, 1994。
- ^ 渡辺精一郎「会話速度の揺らぎが“香り”の報告率を変える」『京都音響論叢』第5巻第6号, pp.201-219, 2007。
- ^ 東都民放「番組審議資料:方言コーナー台本改訂(きのに推奨語尾の採用経緯)」東都民放編, 1999。
- ^ 曽根田宗一「土っぽさの分類基準—質問票設計と語感の再構成」『アンケート工学研究』第10巻第2号, pp.12-29, 2013。(※一部表現が現場資料と一致するとされる)
外部リンク
- 語尾湿度指数アーカイブ
- 民間言語観測ノート
- きのに日和まとめ板
- 方言コーナー台本公開倉庫
- 潮彩計測社 旧営業資料閲覧室