きゃろ
| 氏名 | きゃろ |
|---|---|
| ふりがな | きゃろ |
| 生年月日 | (推定) |
| 出生地 | 宇和島郡(現・宇和島市) |
| 没年月日 | |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 奇術師、発明家 |
| 活動期間 | 1886年 - 1939年 |
| 主な業績 | 『透明の文字盤』および公開実験方式の確立 |
| 受賞歴 | 大日本演芸院 文字盤技術賞(1918年)ほか |
きゃろ(きゃろ、 - )は、の。『透明の文字盤』を発明した人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
きゃろは、宇和島郡に生まれ、のちに全国の寄席・博覧会で奇術と発明を結びつけた活動を行った人物である。とくにと呼ばれる装置は、観客の視線を「紙の上の“順番”」へ誘導する工学的手法として知られる。
きゃろが用いた手順は、口伝ではなく「1回の公演で必ず3回転し、同じ秒針位置を再現する」というような手計算の規格として整理された。結果として、奇術が単なる芸から「再現できる実験」に近づいたとする評価がある一方で、数理化を急ぎすぎたとも指摘されている[1]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
きゃろはごろに、宇和島郡の塩問屋の帳場に近い住居で生まれたとされる。幼少期は、父が運んだ道具箱の錠前を分解することに熱中し、最初に覚えた数字は「針金の長さ6寸3分」であったという伝承がある。
また、村の祭礼で使われた吊り灯籠の影を数え、「影の濃さは風向きで7段階に分かれる」とノートへ書き留めていたとされる。これがのちの視線誘導理論の原型になったとする説がある[2]。
青年期[編集]
きゃろは、計算塾の写字係としてへ出て、同時に大道芸の見習いとして寄席の裏方に潜り込んだ。若い頃の弟子仲間の記録では、きゃろは客前に出る前から「拍手の発生時刻を3秒ずつズラす」稽古をしていたと書かれている。
この稽古は、当時の劇場が早すぎる歓声により照明の火花が乱れることが多かったため、火花を“見せる演出”として制御しようとした試みだったと説明される。ところが、当時の同僚は「制御というより、火花を怒らせている」とも語っており、滑稽さも残っている[3]。
活動期[編集]
きゃろは、見世物小屋で行った公開実験により一躍名を知られた。その実験は、観客が選んだ紙片を“透明”に見せるというものではなく、「透明に見えると錯覚する条件」を順番に並べ、最後にだけ文字が現れる手順で構成されていた。
特に有名なのがであり、薄いガラス円盤の表面に刻む文字は17字ではなく「16字+余白1」の構成であったと伝えられる。さらに、盤面の回転角は毎回ではなくで固定され、これにより観客のまばたきタイミングが同期しやすくなると説明された。
ただしこの理論は、後年の記録では“完全に説明可能な学説”として引用されすぎたきらいがあり、数人の批評家からは「科学の皮をかぶった願掛け」と揶揄されたという[4]。それでも、きゃろの公演は地方巡業で年間113回の興行を達成したとされ、地方新聞の小欄で「文字盤の噂」が広がった。
晩年と死去[編集]
晩年のきゃろは、奇術の道具を教室に転用し、私塾「計測寄席」を開いた。生徒には、毎朝「息を吐いた後の指先温度を3度以内にそろえる」練習が課されたとされるが、温度計の実測値が残っているかどうかは定かでない。
に公演を縮小した後も、装置の安全性改良に携わった。最晩年は筆圧が弱くなり、ノートに残る文字の大きさが「通常の半分」と言われた。きゃろは、で死去したとされるが、死亡の報せが出るまでに「葬儀の拍手は何回か」で揉めたという余談も残されている[5]。
人物[編集]
きゃろは温厚であると同時に、細部への執着が強い人物であった。弟子は「師は“人の心”より“光の角度”を先に疑う」と証言している。たとえば稽古中に照明が切れそうになると、きゃろは客席へ顔を向けず、まず天井の配線を触って「焦げる前に戻せ」と命じたという。
一方で、冗談も多かったとされる。彼は公演前の呼び込みで、観客へ「今日は透明です。透明じゃないのは皆さんの目だけです」と言って笑いを取ったと記録される。さらに、道具の管理に異様に几帳面で、ガラス円盤の保管箱には番号が振られていた。番号は1から始まるのではなく、「0番箱(保険)」から始まったとされ、後に“0を恐れない芸人”として再評価された[6]。
業績・作品[編集]
きゃろの業績は、奇術を“手順工学”として体系化した点にあるとされる。代表的な作品は、、それに付随する公開手順書『視線の等差数列』、および舞台照明の調整法をまとめた『影の三角表』である。
『透明の文字盤』では、文字が現れる条件を「回転角88度」「照度は床から1.2メートルで平均1,340ルクス」「観客の回答時間は平均4.7秒以内」といった数字で管理したと記録される。もっとも、これらの値は公演によって揺れたはずであり、きゃろ本人も「平均は嘘をつくが、嘘は必要だ」と言ったと伝えられている[7]。
また、きゃろは道具を“研磨して終わり”にしなかった。盤面の傷を計測し、傷の向きに応じて文字の濁り方が変わることを利用した「微傷補正法」が、後年のガラス加工職人の作法へ影響したとする証言もある。これにより、奇術と工芸の間に技術交流の場が生まれたと考えられている。
後世の評価[編集]
きゃろは、奇術研究の文脈では「再現性」を押し出した先駆者と位置づけられている。特ににおける技術賞の授与は、当時の芸能界が“運任せ”から“手順管理”へ移行する象徴として語られることが多い。
一方で、評価が割れる点もある。学術寄りの批評家は、きゃろの数字管理を“計測のふりをした演出”とみなし、実験の前提が曖昧だと指摘した。もっとも、きゃろの時代には計測機器の誤差が大きく、むしろ誤差込みで成立する演出だったとも反論されている。
そのため現在では、「透明の文字盤」は視覚心理と舞台工学の接点として参照されることがあるが、引用される際には“きゃろが言ったこと”と“きゃろがやったこと”が混ざる危険があると注意されている[8]。
系譜・家族[編集]
きゃろの家族関係については資料が少なく、同名の親族が複数いたとも言われる。系譜の整理では、きゃろは父の名を残していないとされるが、帳場の習慣として「毎月の出納を紙片で管理した」痕跡が家に残っていたという話がある。
子については、弟子の間では「一子あり、名は“しのぶ”」と口伝されることがある。しかしという名が残るのは、系譜台帳ではなく公演パンフの誤植である可能性が高いともされており、確証は弱い。なお、きゃろの公演における“余白1”という発想は、家計の帳尻の余裕を「人の余白」として扱った母の口癖に由来するのではないか、とする説もある[9]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田中錦馬『寄席工学の黎明:透明の文字盤を読む』演芸図書館, 1936.
- ^ Margaret A. Thornton『The Performative Geometry of Misdirection』Kyoto University Press, 2011, pp. 44-71.
- ^ 小野真鍋『大日本演芸院と技術賞の制度史』東京演芸研究所, 1922, 第3巻第2号, pp. 15-38.
- ^ 佐々木啓太『影の三角表:照度と回転角の相関(という噂)』舞台計測学会誌, 1909, Vol. 2 No. 1, pp. 1-22.
- ^ Watanabe Keijiro『数字は嘘をつく:きゃろ写本の解読』明治学院出版, 1919, pp. 203-219.
- ^ 高橋瑞月『硝子円盤の微傷補正と芸能』工芸演芸論叢, 1931, 第7巻第4号, pp. 91-116.
- ^ Élodie Caron『Stagecraft as Prototype Science in Meiji and Taishō Japan』Paris Arts Review, 2017, pp. 88-105.
- ^ 井川一郎『計測寄席の授業案内』私家版, 1940, pp. 3-9.
- ^ 松浦灯『0番箱の文化史:保険としての余白』月刊演芸, 1928, Vol. 12, pp. 55-63.
- ^ (改題)藤枝節人『透明の文字盤:誤差込みの快感』幻想出版社, 1952, pp. 10-27.
外部リンク
- きゃろ資料室
- 透明の文字盤アーカイブ
- 計測寄席オンライン書庫
- 大日本演芸院データベース
- 舞台工学リンク集