ぐんま臨港鉄道
| 名称 | ぐんま臨港鉄道 |
|---|---|
| 略称 | GRR |
| ロゴ/画像 | RinkoRail_mark.svg |
| 設立 | 1954年4月12日 |
| 本部/headquarters | 群馬県高崎市栄町14-2 |
| 代表者/事務局長 | 事務局長 田所 恒一 |
| 加盟国数 | 1(日本) |
| 職員数 | 812人(2023年度) |
| 予算 | 年額約184億円 |
| ウェブサイト | grr.go.jp |
| 特記事項 | 内陸臨港制度に基づき設置された |
ぐんま臨港鉄道(ぐんまりんこうてつどう、英: Gunma Rinkō Railway、略称: GRR)は、内の内陸港湾開発と工業地帯への資材輸送の統合を目的として設立されたである[1]。設立。本部はに置かれている。
概要[編集]
ぐんま臨港鉄道は、の内陸港湾構想を実施するために設けられた所管の政府機関である。名称に「臨港」とあるが、実際には海に接しておらず、水系の舟運終端との貨物操車場を一体化するための特殊機関として運営される。
設置法は(1954年法律第117号)であり、同法第3条により「県内における港湾機能の代替及び工業輸送の円滑化」を担うと規定された。もっとも、法案審議録には「臨港の定義が曖昧である」との指摘が残されており、のちに学者の間では「日本で最も海から遠い臨港組織」として知られるようになった[2]。
歴史・沿革[編集]
前身と創設[編集]
前身は、戦後ので散在していた貨物線をまとめるためにが試験的に設けた「県央貨物調整班」である。1952年、との間で起きた肥料滞留問題を契機に、当時の県会議員・が「山に港を置けば船は要らない」と発言したことが創設の直接のきっかけとされる。
1954年4月12日、で設立総会が開かれ、ぐんま臨港鉄道が正式に設立された。初代事務局長には、旧出身の技師が就任し、彼が提唱した「河岸ではなく屋上に港を置く」という案が、のちの立体貨物ヤード計画の原型になったという。なお、この案は当時すでに予算審査で一度否決されている。
高度成長期の拡張[編集]
1958年から1966年にかけて、の工業団地群と貨物地区を結ぶ専用線が整備され、最盛期には延べ42.7kmの路線網を有したとされる。とくにに設置された「可動式倉庫付きホーム」は、貨物列車が到着するたびに係員が壁面を折りたたむ仕組みで、見学したの都市工学研究室が「未来の港のあり方である」と報告した[3]。
1964年の東京オリンピック時には、首都圏の輸送逼迫を受けてからの委託で「臨港コンテナ列車」が一時的に走行した。だが、この列車は海上コンテナを一切積まず、実際には群馬産の蒟蒻とスプリング床材を運んでいたため、関係者のあいだで「陸の船便」と呼ばれた。
再編と現代[編集]
1973年の石油危機以後は、貨物輸送の大半をに譲り、組織の主軸は港湾管理と倉庫規格の認証に移った。1981年には本部をから高崎へ移転し、名称も一時「群馬内陸臨港公社」と改められたが、県議会の議決により3年で旧称へ戻された。
2005年以降は、との共同で「県内港湾物流教育プログラム」を開始し、現在は実運送よりも、港名の付いた標識の維持、内陸桟橋の文化財登録、ならびに「潮位ゼロ地帯」の測量を主業務としている。2020年代には、職員数の3分の1が地図編集と法令照会を担当しており、鉄道機関というより地理院系の行政組織に近い性格を帯びていると評される。
組織[編集]
組織構成[編集]
ぐんま臨港鉄道は、事務局を頂点に、、、、、、の6部局で構成される。理事会に相当する「臨港審議会」は年4回開かれ、県・市・学識経験者・物流事業者の代表が出席するが、議事の半分以上が「港のない港名の整合性」に費やされるという。
また、傘下には、、の3施設が置かれている。特に標識工場は、駅名標に付される波形の飾り罫を年間1万8,000枚製造しており、周辺では「群馬に波を打ち寄せる工場」として半ば観光資源化している。
主要部局[編集]
港湾代替計画部は、県内の物流結節点を「第1岸壁」「第2岸壁」と呼び換える業務を担う。これに対して運輸監理部は、実際の列車ダイヤよりも貨車の滞留時間のほうを重視しており、貨物が倉庫に12時間以上留まると「準停泊」として記録する。
地図・測量班は、との協力で「海抜に対する港名の妥当性」を定期検証している。2022年の内部資料では、県内の23駅のうち17駅が「港」を名乗る条件を満たしたとされるが、その判定基準はほぼ「駅前に水飲み場があること」だったと記されている[4]。
活動[編集]
貨物輸送と施設運営[編集]
主たる活動は、を中心とする貨物輸送の調整と、内陸港湾施設の保守である。とりわけ40年代に導入された「潮風代替装置」は、倉庫内に微細なミストを散布して港湾効果を演出する装置で、夏季には職員がタオルを首に巻いて巡回する姿が恒例とされた。
現在は、1日あたり平均214本の貨車を受け入れ、そのうち本当に海と関係がある積荷は3本程度である。残りは、自動車部品、浄水場の薬剤、そして観光用の「臨港記念石」であり、これらを総称して「準港貨物」と呼ぶ。
教育・普及活動[編集]
もう一つの柱は教育活動である。毎年8月にはと共催で「内陸臨港講座」を開き、県内小学生に対して「海のない県にも港は必要か」を体験学習させている。講座の目玉は、実寸大の岸壁模型に向かって敬礼する「岸壁礼式」で、修了証を受けた児童は地元で半ば公認の“港務補助員”として扱われる。
また、では月1回の広報番組『こちらGRR港務日誌』が放送され、毎回、職員がヘルメット姿で駅前の噴水を点検する映像が流れる。番組冒頭の「本日も潮位は安定しています」という決まり文句は県内で妙に定着している。
財政[編集]
予算は年額約184億円であり、そのうち約61%はと関係市町村からの補助、19%は施設使用料、残りは国庫支出金と各種委託費で構成される。もっとも、財務資料上は「港湾維持費」とされている支出の約4割が除湿機と除雪車の更新に消えており、会計監査では毎年「港の定義に沿った資産計上が困難」と指摘されている。
1990年代には、貨物取扱量の減少で赤字が続き、職員の一部が県内の温泉地で「湯けむり臨港キャンペーン」を実施して集客を図った。これにより一時的に経常収支は改善したが、宿泊客の多くが鉄道ではなくバスで来訪したため、政策効果の検証は今なお曖昧である。
加盟国[編集]
ぐんま臨港鉄道は国際機関ではなく、加盟国は存在しない。ただし内部規程上は、県内の市町村を「準加盟自治体」と呼び、、、、、の5市が定期的に総会へ参加する。
また、2017年からは「友好港務都市」として、、が覚書を結んでおり、年1回の「内陸港相互視察」が行われている。視察先では港が実在するにもかかわらず、ぐんま臨港鉄道側がわざわざ内陸桟橋の説明をするため、しばしば相手側に困惑が生じるという。
歴代事務局長・幹部[編集]
初代事務局長のは、1954年から1968年まで在任し、組織の骨格を作った人物とされる。第2代のは、貨物列車を「動く倉庫」と定義し直して財務処理を簡素化したことで知られ、第3代のは広報部門を拡充して「港の見える駅」キャンペーンを成功させた。
現事務局長のは2021年就任で、就任初日に「当鉄道は海に向かうのではなく、海の概念を県内に輸入する」と述べたと報じられた。なお、この発言は県議会会議録には残っていないが、職員の間では今も額に入れて掲示されている。
不祥事[編集]
1997年、で保管されていた「臨港記念コンテナ」12基が、実際には空箱であったことが判明し、県監査委員会から注意を受けた。内部調査では、担当者が「港というのは中身ではなく気分である」と供述したとされるが、これが事実かどうかは確認されていない[5]。
また、2014年には職員旅行で訪れたにおいて、参加者全員が巨大岸壁を見て「うちより狭い」と口をそろえたため、地元メディアから挑発的だと受け止められた。これを受け、ぐんま臨港鉄道は謝罪文を出したが、その文面には「今後とも内陸港の威厳を損なわぬよう努める」とあり、かえって話題を呼んだ。
さらに2023年、倉庫認証室が発行した「潮位ゼロ証明書」の一部に記載ミスが見つかり、証明対象の駅がではなくと誤記されていた。広報は「長年の想像力が先に走った」と説明したが、翌日には訂正済みの書類に波線が追加されていた。
脚注[編集]
[1] 1954年設立時の広報冊子『内陸に港を置く』による。
[2] 田中宏『日本内陸臨港制度史』交通政策研究会, 1988年, pp. 44-51.
[3] 東北大学都市工学研究室「立体貨物ヤードに関する予備調査」『港湾と山地』Vol. 12, No. 3, 1965年, pp. 7-19.
[4] 群馬県地図測量班『県内港名整合性報告書 2022』群馬県庁内部資料, 2022年.
[5] 監査委員会記録第17号「記念コンテナ空洞化案件について」, 1997年.
[6] Margaret L. Thornton, "The Inland Port Question in Japan", Journal of Comparative Freight Studies, Vol. 8, No. 2, 1979, pp. 101-128.
[7] 小泉芳樹『臨港のない海図』内陸出版, 1961年.
[8] 斎藤正蔵『山に港を置く理由』群馬地方行政協会, 1953年.
[9] Hiroshi Kamimura, "Zero-Tide Certificates and Administrative Poetry", Asian Logistics Review, Vol. 4, No. 1, 2023, pp. 55-63.
[10] ぐんま臨港鉄道史編纂委員会『ぐんま臨港鉄道百年史 前編』, 2004年.
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田中宏『日本内陸臨港制度史』交通政策研究会, 1988年, pp. 44-51.
- ^ 小泉芳樹『臨港のない海図』内陸出版, 1961年.
- ^ 斎藤正蔵『山に港を置く理由』群馬地方行政協会, 1953年.
- ^ Margaret L. Thornton, "The Inland Port Question in Japan", Journal of Comparative Freight Studies, Vol. 8, No. 2, 1979, pp. 101-128.
- ^ 東北大学都市工学研究室「立体貨物ヤードに関する予備調査」『港湾と山地』Vol. 12, No. 3, 1965年, pp. 7-19.
- ^ 群馬県地図測量班『県内港名整合性報告書 2022』群馬県庁内部資料, 2022年.
- ^ 監査委員会記録第17号「記念コンテナ空洞化案件について」, 1997年.
- ^ Hiroshi Kamimura, "Zero-Tide Certificates and Administrative Poetry", Asian Logistics Review, Vol. 4, No. 1, 2023, pp. 55-63.
- ^ ぐんま臨港鉄道史編纂委員会『ぐんま臨港鉄道百年史 前編』, 2004年.
- ^ 斎藤正蔵『山に港を置く理由』群馬地方行政協会, 1953年.
外部リンク
- ぐんま臨港鉄道 公式サイト
- 内陸港史資料アーカイブ
- 群馬県物流文化研究所
- 臨港標識保存会
- 高崎貨物地形図データベース