ごめんねだったか事件
| 正式名称 | ごめんねだったか事件 |
|---|---|
| 発生時期 | 1978年11月3日 |
| 発生地 | 東京都千代田区麹町の文化放送旧第2副調整室 |
| 関係者 | 橘田栄司、三橋里子、関東放送倫理連絡会 |
| 原因 | 生放送中の謝罪文読み上げにおける語順逆転 |
| 影響 | 謝罪定型句の再整備、局内用語集の改訂 |
| 通称 | だったか謝罪、GDI事故 |
| 記録 | 同日視聴者投書 4,812通 |
| 後続制度 | 三段式お詫び読み規程 |
ごめんねだったか事件(ごめんねだったかじけん)は、後期のをめぐって発生したとされる、日本の放送史上きわめて特異な言い間違い事件である[1]。のちに内の各局で模倣的に引用され、との境界を揺さぶった事例として知られる[2]。
概要[編集]
ごめんねだったか事件は、に系の深夜特番で発生したとされる放送事故である。番組中の謝罪文において、アナウンサーが「ごめんねだったか」と読み上げたことから、謝罪の主体が不明確になるという珍事として記録された[1]。
この表現は本来、番組スポンサーの差し替え告知に付随する定型文を起源とするが、当時の局内では一円のラジオ愛好家のあいだで半ば慣用句化しており、事態の収拾をさらに困難にしたとされる。のちにの内部報告書でも「謝罪語順の崩壊例」として引用された[2]。
背景[編集]
謝罪定型句の普及[編集]
40年代後半、民放各局ではスポンサー都合による差し替えが相次ぎ、短時間で謝罪を済ませるための定型句が各局ごとに整備されていた。なかでもの制作会社が作成した「恐縮です、先ほどの内容は一部差し替えとなります」という文面は、文字数が多い割に口が回らないとして不評であった。
このため、現場では「ごめんね」「だったか」「さっきのは」を組み合わせた略式文が、若手アナウンサーのあいだで暗号のように共有されていたとされる。なお、当時の録音テープを精査したの調査では、同種の言い回しが少なくとも17局で確認されたという。
橘田栄司の起用[編集]
事件の中心人物とされる橘田栄司は、にへ中途入社したアナウンサーである。地声が低く、謝罪時に語尾が沈む癖があったため、局内では「謝ると重い男」として知られていた。
橘田は番組改編期の特別編成で、三橋里子が読み上げるはずだった原稿の代読を任された。ところが、前番組の熱気と原稿差し替えの混乱が重なり、「ごめんね、だったか……」と一拍置いて発話したことが、後年の“事件名”の直接の由来になったとされる。
経緯[編集]
放送当日の混乱[編集]
午前0時17分、の旧第2副調整室では、スポンサー名の誤読を訂正するため、10秒程度の謝罪を挿入する予定であった。ところが、送出ディスクが1枚ずれていたため、橘田は本来の原稿ではなく、裏紙に鉛筆で書かれた補助メモを読み上げることになった。
補助メモには「ごめんねだったか、ええと、ええと、先ほどの件」とだけ書かれており、橘田がこれを文意の切れ目と誤認したことが事件の発端である。スタジオ内では三橋里子が合図のベルを3回鳴らしたが、当時はの札が机上に置かれていたため、誰も止められなかったと記録されている[要出典]。
投書と再放送[編集]
翌週、局には視聴者から4,812通の投書が届き、そのうち約6割が「謝る気があるのか分からない」「あれは日本語として新しい」といった内容であった。特にの聴取者組織「朝のラジオを守る会」は、謝罪文を朗読するだけの再放送を要求し、これがきっかけでが特集号を組むことになった。
再放送では、局側が安全策として謝罪文を一語ずつ区切って読み上げたため、今度は逆に「ご・め・ん・ね・だ・っ・た・か」となり、事件は沈静化するどころか“分節謝罪”として半ば流行語化した。
関東放送倫理連絡会の介入[編集]
初頭、は、各局の謝罪表現に統一ガイドラインを設けるよう勧告した。ここでは、謝罪文は「主語」「原因」「再発防止」の三部構成とし、少なくとも7秒以上を要する場合には必ずテロップを併用することが推奨された。
この制度は後に「三段式お詫び読み規程」と呼ばれ、深夜帯の通販番組や競馬中継にも波及した。ただし、実際には規程が厳格すぎて番組尺を圧迫し、局内では“謝る時間が長いほど誠意が増す”という奇妙な解釈も生まれた。
社会的影響[編集]
事件の最大の影響は、が単なる儀礼ではなく、放送技術の一部として扱われるようになった点にある。以後、の研修では、原稿の意味だけでなく、呼吸、間、口角の角度まで含めた「謝罪の三要素」が教えられるようになった。
また、の古書店街では、この事件を受けて放送事故集や生放送台本の研究書が多数出版され、1980年代半ばには“謝罪文化”を専門に扱う小さな学術分野が成立した。とくにの公開講座で行われた「誤読と共同体」シリーズは受講者数が延べ1,243人に達し、なかには卒論まで提出した者もいたという。
一方で、事件を茶化す風潮も広がり、駅前のカラオケボックスでは「ごめんねだったか」と最後を上げ調子にする歌唱法が一時的に流行した。これはの雑誌『放送とことば』によって「都市的ユーモアの一種」と評されたが、年配の放送関係者からは「笑って済ませるには長すぎる」と批判された。
批判と論争[編集]
後年、事件の真偽そのものをめぐる論争も起きた。特ににで発見されたとされる控え原稿の写しには、「ごめんねだったか」の部分が薄墨で消されており、編集の過程で後世に誇張されたのではないかという指摘がある。
また、橘田栄司の母校とされるの同窓会報には、彼が当夜は休暇中だったとする証言が掲載され、事件は別人によるものではないかとの説も現れた。ただし、局側は「音声波形が完全に一致している」として反論しており、現在でも研究者のあいだで決着はついていない。
さらに一部の言語学者は、この事件は事故ではなく、当時の若者言葉に由来する自然な省略表現だったとする説を唱えている。しかし、その説を支持する資料の多くが、いずれも後年の再現録音に依拠しており、信頼性には疑問が残る。
遺産[編集]
ごめんねだったか事件の遺産は、何よりも「言い間違いを制度化する」という発想にあった。現在でもや一部の地方局では、謝罪テロップの直後に読み上げ確認を二重化する運用が残っており、これは事件後に導入された“橘田式ダブルチェック”の影響であるとされる。
また、内の音声演出学校では、この事件を教材として扱い、受講生にわざと原稿を詰まらせたうえで訂正する訓練を行う。修了試験では「ごめんねだったか」をあえて正しく読めるかどうかが問われるが、合格率は年によって38%から51%の間を推移している。
このように、事件は一見すると取るに足らない放送事故でありながら、日本語の謝罪表現、ラジオ制作、そして“謝ることの演出”にまで影響を及ぼしたと評価されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 橘田研究会『昭和後期の謝罪放送と語順事故』放送史評論社, 1998年.
- ^ 三橋里子『深夜帯アナウンスの実務と転倒表現』月刊放送技術, 第24巻第7号, 1981年, pp. 14-29.
- ^ 田中隆一『ごめんねだったか事件の再検証』日本メディア研究, Vol. 12, No. 3, 2004, pp. 201-218.
- ^ 関東放送倫理連絡会編『三段式お詫び読み規程 集成』内外出版, 1979年.
- ^ Eleanor P. Whitcomb, “Apology Drift in Late-Night Radio,” Journal of Comparative Broadcasting, Vol. 8, No. 2, 1986, pp. 77-94.
- ^ 佐伯悠『誤読がつくる公共圏』岩波書店, 2011年.
- ^ K. Yamamoto and L. Chen, “The Syntax of Broadcast Regret,” East Asian Media Quarterly, Vol. 19, No. 4, 1999, pp. 55-73.
- ^ 文化放送史料室『1978年11月3日 深夜特番送出記録』社内資料, 1980年.
- ^ 前田修一『日本語謝罪文の実用史』新潮選書, 2007年.
- ^ 高橋ミキ『ごめんねだったかの社会学』社会言語研究所, 2018年.
外部リンク
- 日本放送史アーカイブ
- 麹町メディア資料館
- 謝罪表現研究センター
- 深夜放送事故データベース
- 橘田栄司資料室