清水 宗太
| 氏名 | 清水 宗太 |
|---|---|
| ふりがな | しみず そうた |
| 生年月日 | 1878年4月18日 |
| 出生地 | 下谷区元浅草 |
| 没年月日 | 1954年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗記録家、都市口承研究者、随筆家 |
| 活動期間 | 1902年 - 1953年 |
| 主な業績 | 路地語彙集『裏通り標本帳』、影見帳理論の提唱、区画祭の聞き取り調査 |
| 受賞歴 | 帝都民俗賞(1948年) |
清水 宗太(しみず そうた、 - )は、の民俗記録家、都市口承研究者である。路地語彙の採集と「影見帳」理論の提唱者として広く知られる[1]。
概要[編集]
清水 宗太は、明治後期から昭和中期にかけて活動した日本の民俗記録家である。主に下町の路地文化、露店の呼称、夜間にのみ用いられる俗語などを採集し、都市生活のなかで言葉が視覚的な「影」を伴って増殖するという独自理論を構築した[1]。
宗太の名は、戦前の学術誌『都市聞書』と、戦後の地方紙に連載された長文随筆によって広まった。本人はしばしば「私は学者ではなく、記録の番人である」と述べたとされるが、一方で自作の調査票にまで脚注を付ける癖があったため、同時代から変人としても知られた[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
1878年、下谷区元浅草の紙問屋の家に生まれる。幼少期は店先で番頭や荷車夫の会話を聞き書きすることを好み、7歳のころには帳場の古紙の裏に「朝は丁寧語、夜は略語になる」といった覚書を残していたという。なお、近隣の寺院で行われた盆踊りの参加者名簿を勝手に整理し、住職に叱責された逸話が残る[3]。
青年期[編集]
にの聴講生となり、国文学と統計学の双方に関心を示した。とくに系統の口承研究に触発されたと伝えられるが、実際には学内の新聞売り場で働く青年たちの「呼び声」に強く引かれたことが契機だったともいわれる[4]。1906年にはからにかけて夜警の巡回に同行し、路地ごとの発話差を地図化する試みを始めた。
この時期、宗太はの雑務補助に雇われたことがあり、夜回りの報告書を参考に「発声は治安と同じく区画で変わる」と述べたとされる。ただし、この雇用記録は戦災で焼失しており、後年の回想録に依拠する部分が多い。
活動期[編集]
、宗太は私家版『裏通り標本帳』を刊行し、・・の露店で使われる掛け声を分類した。これが学界に奇妙な評判を呼び、の依頼で「屋台呼称の標準化試案」を提出することになる。試案は採用されなかったが、案文中の「焼き芋は売り声が温度を持つ」という一節が後世の引用句として独り歩きした[5]。
の後には、焼失地に残った瓦礫の配置から「失われた商店街の音」を再構成する調査を行ったとされる。宗太は瓦礫上で耳を澄まし、商人の呼び声を「風の中でまだ反響している」と記したが、当時の同行者によれば、本人は実際には倒壊した看板の文字を拾い集めていただけだったという。
にはの周辺で「影見帳」理論を展開した。これは、言葉は発話された瞬間だけでなく、看板、暖簾、値札、さらには提灯の光量によっても意味の影を増減させるという説である。宗太はこの理論をもとに、の喫茶店で一晩に47種の「沈黙の挨拶」を採集したと主張したが、記録用紙にはコーヒー染みが非常に多かったため、後年しばしば疑問視された[6]。
晩年と死去[編集]
戦後はラジオの文化番組に短く出演し、都市の言葉が「焼け跡で再編される」過程を語った。1948年には帝都民俗賞を受けたが、授賞式で賞状の余白に観客の方言を書き足したため、司会者が進行を止めたという逸話がある。
1954年11月2日、文京区の自宅で死去した。享年76。死去の直前まで、机上には未完成の『都心夜語辞典』が開かれており、最後の見出し語は「しずけさ、ただし商店街に限る」であったと伝えられる[7]。
人物[編集]
宗太は温厚であったが、聞き取りの途中で相手の言い回しが期待と違うと、10分ほど沈黙してから「今のは仮名遣いが美しい」と評価する癖があった。弟子たちはこれを恐れたが、本人は沈黙こそ最良の批評であると信じていた。
また、雨天を異常に好み、傘を差しながら露店の呼び声を採録する際には、必ず左手で柱時計のように小さく拍を取ったという。晩年は魚の練り物の屋台を特に愛し、同じ店から17回連続で買った記録が残る。なお、宗太が自宅の庭で「無音の縁日」を再現しようとして町内会に注意されたという話もある[8]。
業績・作品[編集]
主要著作[編集]
代表作は『裏通り標本帳』(1912年)、『影見帳入門』(1934年)、『都心夜語辞典』(未完)である。とくに『影見帳入門』は、看板の字体と店先の照度から「客引き語」の強度を数値化する試みを含み、のちの都市言語研究に奇妙な影響を与えた。宗太は本文中で「語は耳で聞くものではなく、夜気で測るものだ」と書いたとされるが、この箇所は後補とみる研究者も多い[9]。
調査法[編集]
宗太の調査法は、①聞き取り、②看板写生、③屋台位置の測量、④帰宅後の再現朗読、の四工程から成っていた。調査票は1件につき平均13欄で、欄外に「聞き手の咳の回数」まで記録したため、保存されているノートの約4割は欄外注に占められている。
また、1928年の「両国橋横断調査」では、わずか320mの区間で86種類の呼称差を記録したとされる。この数字はあまりに多いとして当時から疑義があったが、宗太は「橋の上では皆が少しだけ別人になる」と反論した。
後続への影響[編集]
宗太の手法は、戦後のや一部の地方史研究者に引用され、商店街の聞き書きや看板史の先駆とみなされた。また、1970年代には都市のサブカルチャー研究者が再評価を行い、「影見帳」理論は広告論の比喩としてしばしば利用された。
ただし、宗太の研究には「採集対象がほぼ下町に偏っていた」「本人の審美眼が統計より強い」といった批判もある。もっとも、彼の記録は不正確であるほど生気があり、学術的には弱いが文学的には強い、という評価が定着している[10]。
後世の評価[編集]
宗太は長らく「奇人の記録家」として扱われたが、21世紀に入ると内の商店街研究や口承文化保存の文脈で再評価が進んだ。とくに、再開発前の街区に残る手書き看板を重視した姿勢は、景観保存の先駆として紹介されることがある。
一方で、全集刊行時に編者が注を増やしすぎた結果、本文より注釈のほうが長くなった巻があり、これが宗太研究の象徴とされる。ある研究者は「清水宗太は、引用されるたびに少しずつ増殖する」と述べたが、その言い回し自体がいまや宗太的であるとして引用されている[11]。
系譜・家族[編集]
宗太は紙問屋の長男として生まれ、父・清水 貞吉、母・清水 まさの次男であった。妻は清水 ふみで、の仕立屋の娘である。ふみは宗太の調査票を帳簿の端紙で補修しており、夫婦の共同作業がそのまま史料になったとされる。
長男の清水 春雄は銀行員となったが、父の影響で町の呼び声をメモする癖があり、家族内では「第二の宗太」と呼ばれた。孫の代まで、正月の集まりで看板の書体を品評する習慣が残っていたという。なお、宗太の遠縁にあたると称する人物が戦後に3人現れたが、いずれも系譜の裏づけは見つかっていない[12]。
脚注[編集]
[1] 清水宗太記念資料室『都市口承と影見帳』より。 [2] 山岸修『下町研究者列伝』に基づく。 [3] 元浅草町内会の聞き書き集に断片が残る。 [4] 受講簿は現存せず、回想による。 [5] 東京市役所文書第14号、ただし写しのみ。 [6] この調査は要出典とされることが多い。 [7] 死去時の書見台の配置は遺族証言による。 [8] 町内会報『ひるがお』昭和27年5月号。 [9] 初版本と再版本で文言が異なる。 [10] 研究史上の評価は分かれている。 [11] 1978年版全集の編者解説。 [12] 戸籍との照合は行われていない。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山岸 修『下町研究者列伝 清水宗太の周縁』青灯社, 1968年.
- ^ 宮本 さだ子『影見帳理論の成立』都市民俗出版, 1974年.
- ^ 田中 恒一『裏通り標本帳注解』日本語資料館, 1981年.
- ^ Richard K. Eldridge, “Street Speech and Shadow Registers,” Journal of Urban Folklore, Vol. 12, No. 3, pp. 44-67, 1992.
- ^ 佐伯 みね『路地の呼び声とその測り方』文化往来社, 1998年.
- ^ Marjorie L. Bennett, “Ledger of Shadows: Early Japanese Urban Oral Studies,” East Asian Humanities Review, Vol. 8, No. 1, pp. 101-129, 2004.
- ^ 清水宗太記念資料室編『都心夜語辞典 校訂版』帝都書院, 2011年.
- ^ 中村 亮介『看板は語る——都市視覚言語史』港北学芸社, 2016年.
- ^ H. T. Watanabe, “On the Temperatura of Vendor Calls,” Proceedings of the Society for Impossible Philology, Vol. 4, pp. 7-19, 2019.
- ^ 『清水宗太全集 第3巻 影見帳入門』編纂委員会, 新都出版社, 1978年.
外部リンク
- 清水宗太記念資料室
- 帝都民俗アーカイブ
- 下町口承研究会
- 都市語彙データバンク
- 影見帳デジタル校訂室