たいせいの匂い事件
| 名称 | たいせいの匂い事件 |
|---|---|
| 発生時期 | 1978年 - 1982年 |
| 発生地 | 東京都、神奈川県、千葉県の一部 |
| 原因 | 不明(湿式接着剤と発酵系香辛料の混合説が有力) |
| 関係機関 | 環境庁、国立公衆衛生院、警視庁、横浜市衛生局 |
| 影響 | 嗅覚苦情窓口の整備、臨時換気基準の導入 |
| 別名 | たいせい臭事件、T.O.事案 |
| 報告件数 | 確認記録1,284件 |
たいせいの匂い事件(たいせいのにおいじけん)は、後期のおよびで相次いで報告された、特定の人物「たいせい」が発する異様な臭気をめぐる一連の騒動である。後にとを巻き込む調査案件となり、日本の嗅覚行政の成立に間接的な影響を与えたとされる[1]。
概要[編集]
たいせいの匂い事件は、昭和53年ごろから首都圏の鉄道車両、映画館、区役所窓口などで「同一人物が通過した直後にだけ鼻の奥が熱くなる」との通報が相次いだ事件である。報告の中心となった「たいせい」は本名ではなく、当時の週刊誌が便宜上つけた呼称であり、後年の公文書でも半ば通称として定着した[2]。
事件は単なる悪臭騒動ではなく、臭気が衣服や建物に残留せず、目撃者の記憶だけが一致するという奇妙な特徴を持っていた。このためは当初「集団的誇張反応」と整理したが、の記録班が臭気の発生地点を17日間にわたり追跡した結果、いくつかの現場で通常の生活臭とは異なる揮発性成分が検出されたとされる[3]。
事件の経緯[編集]
発端[編集]
最初の報告は1978年7月12日、の喫茶店「三階堂」で記録されたとされる。午後2時頃、常連客が「カレーのようでもあり、湿った畳のようでもある匂いが、店の奥の席から一斉に立ち上った」と証言し、その席に座っていた青年が自らを「たいせい」と名乗ったことから、後に事件名の語源となった[4]。
この青年は当初、香水工場の試作品を運んでいると説明したが、持参した紙袋の中身はの内部報告書によれば「乾いた昆布、文房具、未開封の糊壺、そして濡れた新聞3枚」であったという。なお、この紙袋は事件史料の中でも最も再現困難な証拠物とされている。
拡大[編集]
1979年春になると、臭気の目撃例は、、へと拡散し、通勤時間帯の車両で特に多く報告された。臭いの表現は「甘い灯油」「古い図書館の背表紙」「金属の汗」など一定せず、しかも同じ人物を見たという証言が20件以上重なる一方で、本人の服装や年齢は驚くほどばらばらであった。
の調査班は、臭気を記憶した証言者の87%が「匂いを嗅いだ直後に、なぜか名刺交換をしたくなった」と回答している点に注目したが、当時の心理学部門はこれを「匂いによる社交圧」と呼び、正式な症状分類には採用しなかった[5]。
調査と収束[編集]
1981年、は特例として「個人由来臭気仮説検討会」を設置し、の旧保健所別館で8回の非公開会合を開いた。ここで、たいせい本人が日雇いの防水工であり、作業後に発酵調味料と接着剤を同時に扱う職場に長くいたこと、さらに昼食として「梅干し入りの炒飯を2日連続で摂取していた」ことが明らかになったとされる。
しかし、決定打となったのは本人の耳の後ろから採取された微量の成分ではなく、本人が座った椅子の脚の裏から検出されたアニス系化合物であった。検査担当のは「匂いは人に宿るのではなく、移動経路に宿る」と報告し、これが後の都市臭路学の基礎文献と見なされた。
社会的影響[編集]
事件後、首都圏では百貨店や映画館を中心に「局所換気表示」が急速に普及した。1983年時点で、内の主要商業施設214か所のうち169か所が、入口に「本日、匂い注意区域あり」の札を掲示したとされる[6]。
また、末期には、混雑車両で異臭苦情が出た際のために、車掌が「車内香気調書」を起票する運用が試験導入された。この制度は制度設計が大げさすぎるとして半年で縮小されたが、後ののにおいトラブル初動マニュアルに影響を与えたとの指摘がある。
一方で、事件は「都市生活者は他人の臭いを人格評価に結びつけやすい」という議論を呼び、1970年代末から1980年代初頭にかけての清潔志向の高まりを象徴する出来事としても語られる。なお、一部の社会学者は、たいせいの匂い事件を「日本における非言語的スティグマ研究の起点」と位置づけている。
関連する人物[編集]
事件の中心人物とされた「たいせい」については、少なくとも3人の別人が候補として挙げられている。最も有力とされたのはの金属加工会社に勤務していた二十代後半の男性で、週に4回だけの現場へ出向していたことから、都市間の臭気伝播の説明に都合がよかった。
また、調査にあたったの嗅覚生理部門主任・は、事件後に「臭気は物質である前に印象である」との論文を発表し、学界で賛否を呼んだ。さらに、捜査資料の整理を担当した事務官・は、証言者のメモをまとめる際に匂いの表現だけで7分類を作成し、後に「臭感分類表78」と呼ばれる独自の一覧を残した。
原因をめぐる諸説[編集]
事件の原因については、古典的な体臭説のほかに、職場で扱っていたと夜食のが皮膚表面で反応したとする化学説、さらには本人が通過する際に周囲の記憶が一時的に同期する「記憶臭」説まで存在する。もっとも、最終報告書はどれも決定打に欠けるとして、原因を「複合的生活臭の極端な可視化」と結論づけた[7]。
ただし、1982年3月にが公表した補遺では、事件の核となる臭気は「本人」ではなく、本人が常に携行していた黒い革製弁当箱の内壁に染み込んだ酢酸エチルである可能性が示された。この弁当箱は回収後、なぜか半年で所在不明となっており、現在も「匂いは消えても箱は残る」として都市伝説化している。
批判と論争[編集]
事件史料の多くは当時の週刊誌記事、自治体の非公開記録、そして証言録音テープに依拠しており、学術的には再検証が難しい。特に、証言者の一部が「匂いを嗅いだ」と述べた日の天候が全員一致で小雨であったことから、記憶の同調現象を疑う研究者も多い[8]。
また、たいせい本人が実在したとしても、事件の全期間を通じて一貫した姿で目撃されたわけではなく、ある証言では坊主頭、別の証言では七三分け、さらに別件では「香水の広告に出てきそうな中年」とされている。この不一致は、当時の取材環境の限界を示すと同時に、事件そのものが半ば都市の集合的想像力によって増幅された可能性を示唆している。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 細川れい子『首都圏における個人臭気の伝播と記憶同調』国立公衆衛生院紀要, Vol. 18, 第2号, pp. 41-67, 1982.
- ^ 渡辺精一郎『都市臭路学入門――移動経路に宿る匂い』環境庁研究報告, 第4巻第1号, pp. 12-35, 1981.
- ^ 小野寺清隆『臭感分類表78の作成経緯』警視庁資料室年報, Vol. 7, 第1号, pp. 88-102, 1983.
- ^ Margaret A. Thornton, “Volatile Identity and Public Transit Panic,” Journal of Urban Olfaction, Vol. 5, No. 3, pp. 201-229, 1984.
- ^ 佐伯みどり『嗅覚苦情の行政処理に関する覚書』横浜市衛生局報, 第12号, pp. 5-19, 1980.
- ^ Hiroshi Kanda, “The Taisei Case and the Ethics of Smell Attribution,” East Asian Social Health Review, Vol. 9, No. 1, pp. 73-91, 1985.
- ^ 神奈川県立衛生研究所『弁当箱内壁残留成分の再検査報告』県衛研速報, 第33号, pp. 1-14, 1982.
- ^ 東京都公害研究会編『生活臭と都市不安』東京公論社, 1983.
- ^ 高橋由紀子『匂いと名刺交換の社会学』青潮社, 1986.
- ^ Institute for Civic Odor Studies, The Handbook of Temporary Ventilation Standards, London Civic Press, 1984.
- ^ 中島晴夫『たいせい臭事件の記憶――一九九〇年代再訪』風媒館, 1992.
外部リンク
- 国立匂気文書館
- 首都圏臭気史研究会
- 都市生活環境アーカイブ
- 記憶臭データベース
- 環境庁旧報告書閲覧室