つくる いぬ
| 氏名 | つくる いぬ |
|---|---|
| ふりがな | つくる いぬ |
| 生年月日 | 1928年4月18日 |
| 出生地 | 長野県松本市 |
| 没年月日 | 1997年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗造形家、玩具設計者、教育活動家 |
| 活動期間 | 1951年 - 1994年 |
| 主な業績 | 可動式犬型人形「組み犬」の考案、地域教材『犬形工作帳』の監修 |
| 受賞歴 | 芸能文化奨励賞、長野県文化功労章 |
つくる いぬ(つくる いぬ、 - )は、の民俗造形家、玩具設計者である。紙と木粉を用いた可動式の犬型人形を体系化した人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
つくる いぬは、後期に活動したの民俗造形家である。特にを中心に普及した犬型の可動人形「組み犬」の発明者として知られる[1]。
彼の仕事は、郷土玩具、学校教材、修景用模型の境界をまたぐ独特のものであり、の工作講座からの展覧会まで、幅広い領域で受け入れられたとされる。なお、後年になってからは「犬を作るのではなく、犬のふるまいを設計した人物」と評されることもある[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
つくるは、の紙問屋の家に生まれる。幼少期から参詣者向けの土産人形に強い関心を示し、家業の端材で犬の首を動かす小玩具を作っていたという[3]。
在学中には、校庭に迷い込んだ雑種犬の歩き方を一日中観察していたため、教師から「犬の歩幅を測る子ども」と呼ばれたと伝えられる。もっとも、この逸話は本人の回想録にのみ見え、同級生の証言はまちまちである。
青年期[編集]
、木工科に入学し、に師事した。ここで彼は、木片を関節でつなぐ「折り返し連結法」を学び、後の組みみ式人形の骨格を確立したとされる[4]。
にはし、の模型部材店で勤務した。この時期、鉄道模型の車輪受けと犬の肩甲骨の角度がほぼ一致することに気づき、以後しばしば模型店の端材を用いて犬の脚部実験を行ったという。
活動期[編集]
、つくるはの依頼で、郷土資料展示用の「動く犬人形」を試作した。これが後に「組み犬」と呼ばれる体系の初期形であり、展示開始からで見学児童のうちが犬の尻尾を引っ張ったため、補修費が予算のを占めたとされる[5]。
には、の生活改善講座に招かれ、紙・竹ひご・布糊のみで作る簡易型を普及させた。講座では「犬は前に進むが、作品は後ろから直していく」と語ったとされ、この言葉はのちにの常設解説に採用された。
代にはの工作番組にも断片的に登場し、視聴者からの応募作品は年間を超えたという。なお、番組の視聴率そのものよりも、犬の耳だけを量産する家庭が増えたことのほうが話題になった。
晩年と死去[編集]
、つくるはの前身企画で回顧展示を行い、そこで初めて自身の作品を「玩具ではなく、家族の不在を埋めるための小さな装置である」と述べたとされる[6]。
、のためで死去した。死後、工房に残されていた未完成品が整理されたが、そのうちは頭部のみ完成しており、職人らは「最もつくるいぬらしい未完」と記録した。
人物[編集]
つくるは温厚で寡黙な人物として知られる一方、寸法に関しては異様に厳格であった。彼の私物定規は刻みで墨線が引かれており、弟子が「犬の鼻先を少し丸くしたい」と提案すると、必ずかけて試作をやり直させたという。
逸話として、の公開実演で、観客の少年が完成した犬人形に「本物の犬より怖い」と言ったところ、つくるは「怖さは忠実さの副産物である」と答えたと伝えられる。もっとも、この発言は複数の記録で文言が異なり、のまま今日に至っている。
また、犬嫌いであったという説と、逆に犬を飼っていたという説が併存している。晩年の日記には「犬は飼うものではなく、机の上で再構成するもの」との記述があり、関係者はこれを彼の制作哲学の核心とみなしている。
業績・作品[編集]
つくるの業績は、主にの標準化にある。これは、頭部・胴部・四肢・尾のを規格化し、地域ごとの色紙や布端材で個性を出す方式であったため、同じ図面から作ってもの表情が生まれるとされた[7]。
代表作としては、の『駅前番犬』、の『雪かき犬A型』、の『三角耳の郵便犬』などがある。特に『三角耳の郵便犬』は、郵便受けに前脚だけを差し込める構造を持ち、の一部で「配達妨害になり得る」と検討されたが、最終的には児童向け展示物として黙認された。
教育面では、『犬形工作帳』全の監修が知られる。各巻の末尾にある「失敗しても耳を先に付けるな」という助言は、工業高校の木工授業でも引用されたほか、の一部では卒業制作の合言葉として定着したという。
なお、に制作された《自己修復する犬》は、湿度の変化で首が傾き直る仕組みを備え、観客が「犬が勝手に反省する」と評した。この作品は後にの収蔵候補になったが、犬の首だけがやたら増殖するため保管が難航した。
後世の評価[編集]
つくるは、地方工芸の保存者として評価される一方、工学と民俗学の境界を曖昧にした人物としても論じられている。以降、との共同研究では、彼の作品が「遊具」「教材」「祭礼用具」の三つの分類にまたがることが指摘された[8]。
批評家のは、彼の仕事を「犬を題材にしたのではなく、犬を媒介にした共同作業の設計である」と評した。また一部の民俗学者は、つくるの普及活動がの家庭教育ブームに与えた影響を重視している。
一方で、彼の名が「つくる いぬ」であることから、本人より先に作品名が独り歩きし、長らく実在性が疑われた。実際、の地方新聞特集では「架空人物ではないか」とする投書が寄せられたが、工房跡から出た名刺束が決め手となり、ようやく地域史に定着したとされる。
系譜・家族[編集]
つくるはの紙問屋・の三男であり、父・、母・のもとに育った。兄に、姉にがいたとされ、家族全員が手先に器用であったという[9]。
にと結婚し、二男一女をもうけた。長男は木工研究者、次男は高校の美術教師、長女は内で人形修復の仕事に就いたと伝えられる。なお、孫の一人は「祖父は家で犬の話しかしなかったが、犬そのものは家にいなかった」と語っている。
家系図に残る珍しい注記として、つくる家では「犬型の人形を一体作るごとに、戸棚の整理を一回行う」という家訓があった。これは商家としての几帳面さと、彼の制作習慣が混ざったものとみられる。
脚注[編集]
[1] 『長野県民俗工芸事典』では、つくるの初出はとしている。
[2] これはのインタビュー記事に基づくが、原文はかなり言い回しが異なる。
[3] 松本市立郷土資料館所蔵の聞き書き帳による。
[4] 木下清次については同時代資料が少なく、実在性に議論がある。
[5] 教育委員会の報告書では補修費、新聞記事ではとされ、数値に揺れがある。
[6] 回顧展示の記録は残るが、発言の全文は確認できていない。
[7] ただし、現存作の多くは後年の修復を受けており、原型の厳密な再現は難しい。
[8] 共同研究報告書は非売品で、閲覧には申請が必要である。
[9] 家系資料の一部は戦災で焼失したため、姓名表記には異同がある。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山口直樹『長野県民俗工芸事典』信濃書房, 1982年, pp. 214-219.
- ^ 三輪佐代子『犬を設計した男――つくるいぬ論』河川文化出版, 1994年, pp. 33-58.
- ^ 松本市教育委員会『昭和三十年代工作教材調査報告』第2巻第4号, 1962年, pp. 11-29.
- ^ Kenji Arai, "Modular Animal Toys in Postwar Japan", Journal of Folk Design Studies, Vol. 7, No. 2, 2001, pp. 87-104.
- ^ 長野県立歴史館編『信州の可動玩具と地域教育』信州資料社, 2007年, pp. 140-166.
- ^ Margaret L. H. Bennett, "The Dog as Diagram: Pedagogical Craft in Rural Japan", Studies in Material Culture, Vol. 14, No. 1, 2010, pp. 5-31.
- ^ つくるいぬ『犬形工作帳 第4巻』松本工作協会, 1969年, pp. 1-72.
- ^ 小野寺実『戦後地方工芸史の断面』東洋芸術出版, 1976年, pp. 98-123.
- ^ 河合冬彦『自己修復する犬の技術史』美術資料新報社, 1984年, pp. 44-49.
- ^ Richard P. Holloway, "Children, Repair, and the Politics of Whiskers", The Toy Quarterly, Vol. 19, No. 4, 1992, pp. 201-208.
外部リンク
- 松本郷土工芸アーカイブ
- 長野玩具文化研究会
- 信州民俗造形データベース
- 昭和工作資料オンライン
- つくるいぬ記念館準備室