ときど
| 名称 | ときど |
|---|---|
| 分類 | 測量補助具・民俗技法・時間補正法 |
| 成立 | 15世紀末ごろとされる |
| 発祥地 | 下総国から江戸周辺にかけて |
| 用途 | 時刻のずれの補正、影の長さの判定、隊列進行の調整 |
| 主な担い手 | 町年寄、天文方下役、船頭、帳簿係 |
| 関連施設 | 浅草天文館、深川時戻し会所 |
| 現存資料 | 写本12点、口伝録7点、木札4枚 |
| 異名 | 時戸、時度、土岐戸 |
ときどは、末期に成立したとされる、時間のずれを目視で補正するための補助具、またはそれに由来する作法の総称である。の旧商家に伝わる手控えを起点に、のちに期の技師らによって再発見されたとされる[1]。
概要[編集]
ときどは、時刻や順番にわずかなずれが生じた際、一定の手順でそれを「元の筋」に戻すための技法、またはその際に用いる小型の木製具を指す語である。とくに前期の都市部では、寺の鐘、商家の開閉、舟運の出船時刻が互いに噛み合わないことが多く、その調整のために広く用いられたとされる[2]。
この語は後世になってから系統の記録に現れるが、実際には商人の帳簿修正、宿場の人足配分、祭礼の行列整理など、異なる実務が一つにまとめられた俗称であった可能性が高いとされる。一方で、の古文書には「ときどを切る」との表現が見え、これが単なる補正ではなく、一定の遅延を意図的に挿入する操作を意味していたとの指摘がある[3]。
成立史[編集]
室町末期の原型[編集]
最古の起源は年間の寺院記録に求められることが多いが、現在確認できるのは写しのみである。そこでは、堂前の砂時計が湿気で狂った際、僧侶の一人であるが、鐘を一度鳴らしてから砂を半量戻す手順を定め、これを「時をどどめる」と記したとされる[4]。
この手順はやがて、船着き場や市の開閉にも応用され、木札に刻んだ符号を見せ合うだけで運用できる簡便さから広まった。なお、道弁は実在が確認されていないが、の一部の寺に同名の位牌があるとの報告があり、真偽は未決である。
江戸における制度化[編集]
期になると、ときどは町奉行所の周辺で半ば公的な手続きとして扱われるようになった。とりわけの河岸では、船荷の到着時刻が帳簿と実際で食い違うことが多く、これを修正する「時度役」が各問屋に置かれたとされる[5]。
の「河岸帳合改定令」では、遅延が三度続いた荷は、その日のうちに一度だけ前刻へ戻してよいと定められた。もっとも、この規定は現存する公布文が極端に断片化しており、実際には商人の慣習を後から法文化しただけではないかと見る研究もある。
近代的再解釈[編集]
に入ると、ときどはの一部研究者によって「時間整流法」として再解釈された。中心人物とされるは、に『時刻偏差の民俗的補正に関する考察』を私家版で刊行し、全国34か所の港と17か所の宿場で聞き取りを行ったと記している[6]。
ただし、彼の調査票には同一の回答者名が9回現れる箇所があり、調査の多くが机上で補完された可能性がある。それでも荒木の論文は、その後の地方史研究に大きな影響を与え、期にはの時計職人たちが自作の「ときど盤」を販売するほどであった。
仕組み[編集]
ときどの基本原理は、実際の時刻を直接修正するのではなく、周囲の基準をいったんずらしてから再同期させる点にあると説明される。木札、縄、砂、鐘の四要素を用いることが多く、特に砂の落下量を前刻・中刻・後刻の三段階に分ける「三砂法」が有名である[7]。
使用者はまず、対象となる出来事の遅延幅を「一息」「半息」「鳴一つ」などの単位で測り、次にときど具の刻印を反転させて補正を行う。こうして生じた見かけの整合は、帳簿や口上では一時的に正規の時間として扱われるが、翌朝には元に戻すのが作法であったという。
なお、の一部の記録では、補正が過度になると「時が紙のように薄くなる」と表現されている。これについては比喩とする説が有力である一方、実際に紙不足の年に限ってときどの使用が増えたため、倹約技法が神秘化されたにすぎないともいわれる。
主な流派[編集]
江戸流[編集]
江戸流は、最も事務的な系統であり、の米問屋やの船宿で洗練されたとされる。補正の対象を「客・荷・鐘」の三者に限定し、余計な説明を省くのが特徴であった[8]。
関西流[編集]
関西流は、ずれを直すよりも「合うように見せる」ことを重視した。とくにの酒造家は、出荷時刻を1刻だけ繰り上げた札を別に用意し、後で交換することで帳合の混乱を防いだとされる。
北国流[編集]
やの伝承に見える北国流は、雪で鐘が聞こえにくい地域事情から、影と息の回数で時を測る独特の方法を発達させた。冬季に限って精度が上がるとされ、かえって夏に誤差が増えたという。
社会的影響[編集]
ときどは、単なる技法にとどまらず、都市の信用を支える慣行でもあった。特にの橋上で荷の到着が遅れた際、ときどを挟むことで取引破談を避けられたため、商人の間では「一度の遅れは二度の礼で戻る」とまでいわれた[9]。
また、祭礼や見世物興行では、開演の遅れを「ときど上がり」と呼んでむしろ格式の一部とする風習が生まれた。これにより、見物客は30分遅れて来ても責められず、逆に早着は「気が急きすぎる」とされたという。
一方で、近代以降は時計の高精度化によって急速に衰退した。しかし初期の地方役場では、停電時の臨時措置として「ときど用の半日印」が保管されていたとの証言があり、実用が完全に消えたわけではない。
批判と論争[編集]
ときど研究をめぐっては、そもそもそれが独立した技法であったのか、単に帳簿上の言い換えにすぎないのかをめぐる議論が続いている。とくにの論文は、現存する「ときど札」の多くが後世の再製であると指摘し、大きな反響を呼んだ[10]。
これに対し、民俗学者のは、再製であっても運用法が継承されていれば文化的実在性は失われないと反論した。ただし彼女の反論文には、引用したはずの口碑の出典がすべて同じ村名になっている箇所があり、編集部から「要確認」と付されたまま現在に至る。
さらに、にはの高校で「ときど実習」が自由研究として採用され、1学年312人のうち47人が提出物を翌週にずらしても認定されたことから、教育的に危険であるとの意見も出た。もっとも、これは寛容な評価の一例として紹介されることもある。
現代における継承[編集]
現在、ときどは実用品としてはほぼ失われているが、の一部博物館や民俗資料館で再現展示が行われている。とくにの展示では、観覧者が木札を反転させると音声案内が1分だけ早まる仕掛けがあり、これは来館者の約68%が「本当に時間が動いた」と回答したアンケート結果で知られる[11]。
また、都市計画や物流管理の分野では、遅延を前提にした予備時間の置き方を「ときど思想」と呼ぶことがある。これは正式な学術用語ではないが、の非公開討論会でたびたび用いられるため、用例として記録されている。
このように、ときどは過去の奇習として片づけられながらも、時間管理の柔軟性を象徴する語として細々と生き残っているのである。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 荒木賢三郎『時刻偏差の民俗的補正に関する考察』私家版, 1891年.
- ^ 小林泰彦「河岸帳簿にみる時度語法の変遷」『民俗経済史研究』Vol. 12, No. 3, 1937, pp. 44-71.
- ^ 三宅千代「ときど札の再製と文化的真正性」『国史学雑誌』第48巻第2号, 1956, pp. 102-119.
- ^ Jonathan W. Mercer, “Temporal Reconciliation Tools in Early Modern Port Cities,” Journal of Comparative Time Studies, Vol. 7, No. 1, 1978, pp. 15-39.
- ^ 井上良介『江戸の鐘と帳合』中央時報社, 1964年.
- ^ 佐伯文雄「深川時戻し会所の再検討」『都市民俗』第21巻第4号, 1982, pp. 201-228.
- ^ Marianne K. Holt, “Sand, Bells, and the Alignment of Market Hours,” Proceedings of the Eastern Antiquarian Society, Vol. 19, 1991, pp. 88-113.
- ^ 田口雪之『北国流ときど法の実地運用』北方文化出版, 2003年.
- ^ 森本恵『ときど具の材料学的研究』東亜工芸学会誌, 第9巻第1号, 2011, pp. 3-22.
- ^ 平井和樹「地方役場における半日印の残存」『行政史料と補助記号』Vol. 4, No. 2, 2020, pp. 77-95.
- ^ Clive R. Benton, “On the Half-Mark Seal: Administrative Time Adjustments in Meiji Japan,” Asian Bureaucratic Review, Vol. 2, No. 4, 1999, pp. 141-168.
外部リンク
- 時度民俗研究会アーカイブ
- 浅草天文館デジタル写本庫
- 日本補正具保存協会
- 深川時戻し会所資料室
- 国際時間整流学フォーラム