なくしちじゅうに
| 名称 | なくしちじゅうに |
|---|---|
| 分類 | 帳票符号・欠損記録法 |
| 起源 | 1972年頃の東京都下町部 |
| 提唱者 | 佐伯良三郎とされる |
| 用途 | 欠損、紛失、未着の処理 |
| 普及地域 | 関東圏の商工団体、運送業、区役所文書係 |
| 標準化文書 | N-72覚書 |
| 象徴色 | 薄い群青色 |
| 関連数式 | 72分割補正則 |
なくしちじゅうには、末期にの下町で成立したとされる、記録物から特定の欠損を意図的に消し込むための符号体系である。帳票整理と誤記修正の中間に位置する技術として知られ、のちに自治体文書や民間の在庫台帳へも断片的に導入された[1]。
概要[編集]
なくしちじゅうには、書類や物品が「失われた」ことをそのまま空欄にせず、一定の符号で包み込むことを目的として作られた概念である。の印刷業者との運送関係者のあいだで自然発生したとされ、後にの文書監査現場にも流入した[1]。
名称は、当初の運用で用いられた「欠損72番」欄に由来するとされるが、実際には「なくし」と「72」を組み合わせた現場隠語であったとの説もある。いずれにせよ、単なる紛失記録ではなく、紛失の原因と再発の余地までを一つの番号で管理しようとした点に特徴がある[2]。
成立の経緯[編集]
起源はの夏、の封筒加工所で起きた「見本紙31束消失事件」に求められることが多い。この事件では、実際には配送伝票の転記ミスであったにもかかわらず、現場が二日間にわたり「見つからないが、無かったことにもできない」状態に陥ったため、班長の佐伯良三郎が72区分の保留欄を作ったとされる[3]。
当初の「72」は単なる整理番号であったが、同年の47年度版『区内帳票統一手引』の草稿で、たまたま72項目の例示が載ったことから、制度全体が72を中心に回り始めた。後年の研究では、偶然の数字が慣習化し、さらに慣習が神話化することで成立した「典型的な現場制度」と位置づけられている[4]。
運用[編集]
なくしちじゅうにの運用では、欠損対象を「消失」「未着」「逸脱」「霧散」の4類型に仮置きし、それぞれに72番台の補助記号を割り当てた。たとえば、配送先不明の品目にはN-72-α、誤廃棄の疑いがあるものにはN-72-βが振られ、さらに月末時点で未解決の案件には薄青の付箋が貼られた[5]。
この方式は、一見すると過剰に細かいが、実際には「探すコスト」と「記録するコスト」をほぼ同じにすることで、現場の苛立ちを減らす効果があったとされる。一方で、記録だけが増え、現物は増えないため、のある保管庫では台帳上の在庫が実在在庫を137%上回る事態が起きた。なお、この数値は監査報告に一度だけ現れ、その後なぜか本文から削除された[6]。
標準化と拡散[編集]
1980年代に入ると、なくしちじゅうには系の帳票研究会で半ば冗談として紹介され、そこから中小企業の総務担当者に広まった。特にの倉庫業界では、品目の紛失そのものよりも「紛失処理票の所在を紛失する」問題が深刻であったため、この方式が意外な実用性を示したとされる[7]。
また、の一部自治体では、住民票の再発行待ちを「準72案件」と呼ぶ独自運用が生まれ、住民説明会で混乱を招いた。ある窓口職員は「72が終わるころには、だいたい本人が先に見つかる」と述べたと伝えられるが、発言記録には残っていない。こうした証言の曖昧さ自体が、なくしちじゅうに研究の常であるともいえる[8]。
類型[編集]
紙物型[編集]
最も古い型であり、伝票、領収書、納品書などの紙資料に適用された。紙物型では、欠損の原因を「折れ」「湿り」「裏写り」「神隠し」の4段階で区別し、最後のものだけは課長決裁を要したとされる。実務上はもっとも安定していたが、湿度の高い周辺では再現性が低いとの指摘がある。
器材型[編集]
工具、測定器、鍵束などの「持ち出した者が誰か分からないもの」に使われた型である。器材型の特徴は、台帳に載せるより先に所在調査が始まる点で、最大で14日間、同じレンチが三つの部署を行き来していた記録が残る。これが後の「巡回欠損」概念の原型になったとする説もある。
人名型[編集]
1970年代末に派生した最も奇妙な型で、連絡不能になった外注先や担当者を番号化して扱うものである。たとえば「N-72-人03」は、所在不明ではあるが退職済みでもない人物を指す。人名型は倫理上の批判を受けたが、逆に名簿整理の簡便さから一部の組合事務局で長く存続した。
社会的影響[編集]
なくしちじゅうには、文書の欠損を「ミス」ではなく「管理対象」として扱う文化を広げた点で評価される一方、責任の所在を曖昧化する装置としても機能した。とくに期の事務現場では、景気拡大に伴う書類増加と相まって、未解決案件の数をむしろ管理能力の誇示として示す風潮が生まれた[9]。
また、私企業の総務部門では「72がつくと、だいたい誰も怒らない」という経験則が共有され、会議時間の短縮に寄与したともいわれる。ただし、実際には問題の先送りが増えただけだという反論もあり、の一部資料では「欠損の制度化は、しばしば欠損の常態化に転化する」と警告されている。
批判と論争[編集]
批判の中心は、なくしちじゅうにが「なくした事実」よりも「なくした後の見栄え」を整えることに偏りやすい点である。とくに1991年のの物流監査では、N-72台帳だけが完璧で、現物確認が五週間遅れたことから、制度の本末転倒が問題視された[10]。
一方で、擁護派は「完全な記録は幻想であり、欠損を欠損のまま扱うことこそ現実的である」と主張した。さらに、一部の研究者はなくしちじゅうにが期以後の日本的組織における「責任の分散化」を象徴すると論じているが、反証可能性が低いため、学会ではいまひとつ人気がない。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯良三郎『N-72覚書: 欠損処理の現場理論』東都帳票研究所, 1974.
- ^ 宮本久子『欠けたものを数える技法』中央事務出版社, 1981.
- ^ Tanaka, George M. “The Naku-72 Protocol and Postwar Office Rationalization.” Journal of East Asian Administrative Studies, Vol. 14, No. 3, 1989, pp. 201-229.
- ^ 渡辺精一『区内帳票統一手引の周辺史』墨田文庫, 1993.
- ^ S. L. Harrington, “Grey Ledger Practices in Urban Japan.” Office History Quarterly, Vol. 22, No. 1, 1997, pp. 44-68.
- ^ 関根理恵『薄青付箋の社会学』港北書房, 2002.
- ^ Yamada, Kenji and Alice P. Moore. “Invisible Losses in Municipal Archives.” Archivistica Nipponica, Vol. 31, No. 4, 2008, pp. 77-109.
- ^ 小出芳雄『なくしちじゅうに入門』日本文書管理協会, 2011.
- ^ F. Nakamura, “When the Missing File Becomes the System.” The Review of Bureaucratic Folklore, Vol. 9, No. 2, 2016, pp. 5-19.
- ^ 黒田麻里子『72案件の倫理学』青嵐新書, 2019.
- ^ Harper, Ellen J. “A Curious Case of Numbered Absence.” Proceedings of the International Office Myth Symposium, Vol. 7, No. 1, 2021, pp. 1-23.
外部リンク
- 東都帳票史料館
- 日本欠損管理学会
- 薄青付箋アーカイブ
- 区内帳票研究ネット
- 国際オフィス民俗学会