猫谷 にゃんこ
| 人名 | 猫谷 にゃんこ |
|---|---|
| 各国語表記 | Nyanko Nekotani |
| 画像 | Nekotani_Nyanko_1938.jpg |
| 画像サイズ | 240px |
| 画像説明 | 首相官邸前で演説する猫谷 |
| 国略称 | 日本 |
| 国旗 | JPN |
| 職名 | 内閣総理大臣 |
| 内閣 | 猫谷内閣 |
| 就任日 | 1941年12月18日 |
| 退任日 | 1944年7月9日 |
| 生年月日 | 1898年4月17日 |
| 没年月日 | 1972年9月3日 |
| 出生地 | 東京都芝区 |
| 死没地 | 神奈川県鎌倉市 |
| 出身校 | 帝都法政学院 |
| 前職 | 逓信省嘱託、新聞記者 |
| 所属政党 | 大和革新党 |
| 称号・勲章 | 従一位、大勲位菊花章頸飾 |
| 配偶者 | 猫谷 しげ |
| 子女 | 2男1女 |
| 親族(政治家) | 猫谷 玄三(父) |
| サイン | Nyanko_Nekotani_signature.svg |
猫谷 にゃんこ(ねこたに にゃんこ、{{旧字体|貓谷}}、[[1898年]]〈[[明治]]31年〉[[4月17日]] - [[1972年]]〈[[昭和]]47年〉[[9月3日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[位階]]は[[従一位]]。[[勲等]]は[[大勲位菊花章頸飾]]。第41・42代[[内閣総理大臣]]、[[内務大臣]]、[[大蔵大臣]]、[[農商務大臣]]、[[帝国議会]]衆議院議員を歴任した。
概説[編集]
猫谷 にゃんこは、戦前・戦中期の日本政治において独特の存在感を示した政治家である。地方の港湾整備を梃子に政界へ進出し、のちに第41・42代[[内閣総理大臣]]として、資源配分と都市防空を一体化した「国家毛並み政策」を掲げたことで知られる[1]。
その名に反して愛玩的な印象を与えるが、実際には官僚機構の再編と議会運営に長けた実務家であり、当時の記録では「柔和な顔立ちと強硬な予算折衝」で知られていた。なお、幼少期に保護した雑種猫が政務室に出入りしていたことから、新聞紙面で「にゃんこ内閣」と呼ばれたのが通称の由来とされる[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
猫谷は[[1898年]]、[[東京都]][[芝区]]の魚問屋に生まれる。父・猫谷玄三は港湾荷役組合の世話役で、母・とめは近所の小学校で裁縫を教えていた。少年期から帳簿づけに通じ、[[虎ノ門]]の米穀取引所で雑役を務めた際、取引記録の誤差を一日で3銭単位にまで圧縮したことが評価されたという[3]。
一方で、本人は「市場とは猫のように静かで、しかも急に跳ぶものだ」と語ったとされ、後年の政策判断にもその比喩がしばしば用いられた。
学生時代[編集]
[[帝都法政学院]]法科に入学し、[[憲法学]]と[[財政学]]を専攻した。同年、学内討論会で「予算は国家の爪である」と演説し、学友会誌に全文が掲載されたことから注目を集めた。卒業論文は『都市港湾税の弾力化に関する一考察』であり、実務偏重の内容であったが、指導教官の[[長谷川義則]]は「妙に現場がわかる」と評したという[4]。
在学中に[[東京市]]内の下宿で小規模な政治読書会を主宰し、のちの側近となる[[白井文蔵]]、[[三浦春之助]]らと知り合った。ここで定まった「条文は短く、予算は長く」という姿勢が、のちの官僚折衝術の原型になったとされる。
政界入り[編集]
卒業後は[[逓信省]]に嘱託として入省し、郵便船の航路整理や電信線の敷設計画に関与した。その後、新聞社の政経部記者に転じたが、紙面づくりよりも法案要約の方を得意とし、政治部長から「記者というより官報向き」と評されたという[5]。
[[1928年]]に[[衆議院議員総選挙]]に立候補し、[[東京都第2区]]から初当選を果たした。以後、都市インフラと米穀流通の調整を公約に掲げ、[[大和革新党]]の若手実務派として台頭した。なお、選挙事務所の看板に描かれた黒猫の意匠が有権者に強い印象を与え、以後の支持層は自らを「猫派」と称したとされる。
大蔵大臣時代[編集]
[[1936年]]、[[大蔵大臣]]に就任し、景気刺激のための地方債整理と港湾税の再設計を推進した。猫谷は財政再建と消費拡大を両立させる独自案を示し、当時の新聞はこれを「帳簿の上でだけ温厚な緊縮」と報じた[6]。
特に、[[横浜港]]と[[神戸港]]を結ぶ「二港財政連絡会議」を創設したことが知られる。これは港湾労働者、船会社、税務当局を同席させる半官半民の調停機構であり、猫谷が会議冒頭で出す茶菓子の銘柄まで指定していたため、議論が妙に穏当だったとの逸話が残る。
内閣総理大臣[編集]
[[1941年]]、前任内閣の退陣を受けて内閣総理大臣に就任した。第41・42代総理として、物資統制、都市疎開、食料配給の一本化を進め、閣僚としては[[内務大臣]]を兼ねながら、治安維持と地方自治の調整にあたった。
猫谷内閣の特徴は、各省庁の権限を大幅に束ねた一方で、地方の実情を拾うために「猫足巡回」と呼ばれる密行視察を重ねた点にある。実際には[[千葉県]][[銚子市]]から[[静岡県]][[清水市]]までを夜行列車で移動しただけであったが、官邸記録では「四十二の港を歩いた」と記されている[7]。
また、1943年には「国民配給証に小麦の代わりに猫の毛の数を記入する案」を一時検討したとする回想録があり、これは後年にまで語り草となった。ただし、当時の官報にその痕跡は見当たらず、要出典の多い逸話として扱われている。
退任後[編集]
[[1944年]]に退任したのち、政界の表舞台からは距離を置き、[[鎌倉市]]の邸宅で著述と後進指導にあたった。その後、戦後の復興財源に関する私案をまとめたが、これは議論が多く公刊は見送られた。
晩年は、かつての支持者らが設立した「猫谷政策研究会」の名誉会長を務めた。1960年代にはテレビ討論番組に一度だけ出演し、インフレ対策を問われて「米価より先に人心を冷やすべきだ」と答えたとされる[8]。
政治姿勢・政策・主張[編集]
内政[編集]
内政面では、都市インフラ、食料配給、地方港湾の三点を国家運営の基礎とみなし、これを「三本のひげ」と呼んだ。とくに住宅不足の解消に向け、木造長屋の共同炊事場を標準化する制度を提案し、東京下町では一定の支持を得た。
また、猫谷は官僚制を全面的に批判しなかったが、部署間の縦割りを「書類が寝返りを打つ」と表現して改善を求めた。議会ではしばしば予算説明を省略せず、数字を細かく示したため、反対派からも「反論しづらい」と評された。
外交[編集]
外交では、港湾都市間の連絡と海上輸送路の安全確保を重視した。[[満洲国]]や南方との資源輸送をめぐる調整に関与し、外務当局と陸海軍の利害を、船腹確保の名目で折衝したとされる[9]。
一方で、終戦間際には中立国ルートの物資交換を模索し、[[スウェーデン]]の公使館関係者と接触したとの指摘がある。これについては資料が断片的であるが、猫谷が「外交とは遠くの猫に餌をやるようなものだ」と述べたという記録だけが妙に残っている。
人物[編集]
性格・逸話[編集]
猫谷は寡黙で、会議では相手の発言が終わるまで一切メモを取らないことで知られていた。沈黙のあとに一行だけ結論を示すため、側近はその紙片を「猫のひっかき傷」と呼んだという。
逸話として有名なのは、官邸の庭に迷い込んだ三毛猫を見つけると、予定していた閣議を8分遅らせてまで保護した話である。もっとも本人は「遅延ではない、危機管理である」と説明したとされる。
語録[編集]
「国家の胃袋は、まず港から満たされる」
「統制とは、締め上げることではなく、跳び先を決めることである」
「数字の合わない会議は、たいてい誰かが猫背である」
これらの語録は後年の政治家に引用されたが、実際に本人が述べたかどうかは記録によって揺れがある。
評価[編集]
猫谷の評価は、実務家としては高く、理念政治家としてはやや薄味であるとされる。とくに財政、港湾、配給の分野での手際は今なお注目され、[[戦時経済]]の限られた条件下で行政の混乱を抑えた功績が指摘されている[10]。
他方で、権限集中を進めたことから、地方自治や議会軽視につながったとの批判もある。また、戦時下の統制強化に関しては、彼の意図が防衛的であったとしても結果として抑圧を伴ったとする見方が強い。総じて、猫谷は「温厚な顔で制度を締める政治家」として記憶されている。
家族・親族[編集]
猫谷家は芝区の魚問屋を起点とする半商半官の家系で、父・猫谷玄三は港湾組合の世話役、母・とめは教育熱心な人物であった。妻・しげは東京女子裁縫学校の出身で、夫人会活動を通じて地域の救護事業に関与した。
長男の猫谷一成は運輸省に入り、次男の猫谷二郎は地方新聞の論説委員となった。長女の猫谷澄子は音楽教育に進み、戦後は合唱団の指導者として活動した。なお、親族の一部が[[大和革新党]]の地方組織で要職を務めたことから、しばしば「猫谷一族の系譜にある政治家」と呼ばれた。
選挙歴[編集]
[[1928年]]の衆議院議員総選挙で初当選を果たして以後、猫谷は計7回の当選を重ねた。いずれも都市部と港湾労働者の票を基盤とし、選挙区再編のたびに得票構造を変えながらも、一定の支持を維持した。
特に[[1937年]]の総選挙では、対立候補の演説会に黒猫が紛れ込んだことが話題となり、猫谷本人が「票は逃げても猫は逃げぬ」と述べたとの報道が残っている。もっともこの発言は選挙公報には記載されておらず、後年の脚色の可能性がある。
栄典[編集]
猫谷は戦後に[[従一位]]を追贈され、あわせて[[大勲位菊花章頸飾]]を受章した。生前には[[勲一等旭日桐花大綬章]]、[[正三位]]、[[勲二等瑞宝章]]なども授与されている[11]。
官邸記録では、1942年の年末に[[宮中]]から特別の茶器を賜ったとあるが、これは「配給期にあって例外的に茶葉が多かった」ことへの慰労であったとも伝えられる。なお、本人は勲章を胸につけるのを嫌い、会食時は内ポケットにしまっていたという。
著作/著書[編集]
『港と国家財政』([[1939年]])
『統制の手触り』([[1942年]])
『退いてなお配る』([[1948年]])
『猫足の政治学』([[1956年]])
これらの著作は実務書として扱われることが多いが、比喩が妙に多く、後世の研究者からは「政策論と随筆の中間」と評されている。『猫足の政治学』は題名の妙からベストセラーになったが、本文はほぼ予算表であった。
関連作品[編集]
映画『にゃんこ首相』([[1959年]])では、猫谷をモデルにした人物が港湾を巡視する場面が描かれた。史実よりも優しく描かれているが、劇中で閣議中に湯たんぽを抱える演出だけは本人の癖をよく再現しているとされる。
また、[[1950年代]]に放送されたラジオドラマ『配給の夜明け』では、猫谷らしき人物が「明日へ小麦を回せ」と語る場面が人気を呼んだ。近年では[[神奈川県]]の郷土館で、猫谷の政策資料をもとにした展示「ひげのある予算」が行われた。
脚注[編集]
1. ^ 猫谷政策研究会編『戦時内閣の再検証』港湾新報社、1984年、pp. 112-118。 2. ^ 佐伯清隆「猫谷にゃんこと都市政治」『帝都政治史研究』Vol. 12, No. 3、1978年、pp. 44-59。 3. ^ 山村真一『芝区の商家と近代官僚』東都書房、1967年、pp. 201-204。 4. ^ 長谷川義則「帝都法政学院の学風」『法政季報』第8巻第2号、1931年、pp. 7-13。 5. ^ 『東京朝報』1926年11月4日付夕刊、p. 3。 6. ^ 鈴木庄吾『昭和財政の異端者たち』北辰館、1991年、pp. 88-96。 7. ^ 内閣官房文書課『猫谷内閣日誌抄』未刊写本、pp. 31-33。 8. ^ 田所誠一「テレビ時代の元首相」『放送と政治』Vol. 5, No. 1、1966年、pp. 5-9。 9. ^ 石川久雄『海上輸送と戦時外交』中央経済社、1975年、pp. 144-150。 10. ^ Robert H. Ellison, "Ports, Rations, and the Nekotani Line" in Journal of East Asian Administrative History, Vol. 9, No. 2, 2004, pp. 211-230. 11. ^ 宮内省式部職『叙勲録 昭和二十年版』、pp. 76-79。
参考文献[編集]
佐伯清隆『猫谷にゃんこと都市政治』帝都出版、1978年。
山村真一『芝区の商家と近代官僚』東都書房、1967年。
鈴木庄吾『昭和財政の異端者たち』北辰館、1991年。
石川久雄『海上輸送と戦時外交』中央経済社、1975年。
長谷川義則『予算と猫背: 近代行政の裏面史』法政館、1933年。
Margaret L. Crane, Ports of Discipline: Fiscal Politics in Wartime Japan, University of Cambridge Press, 2002.
Robert H. Ellison, The Soft Hand and the Hard Ledger, Pacific Academic Press, 2004.
『帝都法政学院百年史』帝都法政学院出版部、1987年。
『猫谷内閣関係資料集』大和革新党史料委員会、1969年。
田所誠一『放送と政治』中央放送文化社、1966年。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
猫谷にゃんこ記念館
国立国会図書館デジタルコレクション「猫谷文書」
帝都政治史アーカイブ
昭和内閣研究会
港湾行政史資料室
脚注
- ^ 猫谷政策研究会編『戦時内閣の再検証』港湾新報社、1984年、pp. 112-118.
- ^ 佐伯清隆「猫谷にゃんこと都市政治」『帝都政治史研究』Vol. 12, No. 3、1978年、pp. 44-59.
- ^ 山村真一『芝区の商家と近代官僚』東都書房、1967年、pp. 201-204.
- ^ 長谷川義則「帝都法政学院の学風」『法政季報』第8巻第2号、1931年、pp. 7-13.
- ^ 鈴木庄吾『昭和財政の異端者たち』北辰館、1991年、pp. 88-96.
- ^ 内閣官房文書課『猫谷内閣日誌抄』未刊写本、pp. 31-33.
- ^ 田所誠一「テレビ時代の元首相」『放送と政治』Vol. 5, No. 1、1966年、pp. 5-9.
- ^ 石川久雄『海上輸送と戦時外交』中央経済社、1975年、pp. 144-150.
- ^ Robert H. Ellison, "Ports, Rations, and the Nekotani Line" in Journal of East Asian Administrative History, Vol. 9, No. 2, 2004, pp. 211-230.
- ^ Margaret L. Crane, Ports of Discipline: Fiscal Politics in Wartime Japan, University of Cambridge Press, 2002, pp. 77-104.
外部リンク
- 猫谷にゃんこ記念館
- 国立国会図書館デジタルコレクション「猫谷文書」
- 帝都政治史アーカイブ
- 昭和内閣研究会
- 港湾行政史資料室