はっちーびー
| 氏名 | 羽地 美々 |
|---|---|
| ふりがな | はち みみ |
| 生年月日 | 1912年4月18日 |
| 出生地 | 日本・長崎県西彼杵郡 |
| 没年月日 | 1984年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗記録家、教育研究者、標本工芸家 |
| 活動期間 | 1934年 - 1977年 |
| 主な業績 | はっちーびー法の確立、採集帳『蜂鳴帖』の編纂 |
| 受賞歴 | 日本口承文化協会賞、長崎文化功労章 |
羽地 美々(はち みみ、 - )は、の民俗記録家、幻視標本設計者。蜂の擬態を用いた口承採集法「はっちーびー法」の考案者として広く知られる[1]。
概要[編集]
羽地美々は、戦前から戦後にかけて活動した日本の民俗記録家である。彼女はの沿岸部で育ち、初期に独自の採集技法「はっちーびー法」を考案した人物として知られる。
この手法は、蜂の羽音に似た節回しを用いて高齢者の語りを引き出すもので、の周辺研究者やの前身組織に影響を与えたとされる。もっとも、羽地の経歴には戦時下の空白が多く、後年の伝記ではしばしば脚色が加えられている[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
羽地美々は、の西彼杵郡に生まれる。父は港湾測量の下請けに従事し、母は海藻の選別で家計を支えていたとされる。幼少期から潮騒や虫の音を細かく聞き分ける癖があり、近隣では「耳で天気を当てる子」と呼ばれていたという。
、県立の女学校に進学し、図画と国語の成績が特に優秀であった。なお、在学中に提出した作文『蜂の記憶』は、当時の校内誌で「やや観念的」と評されているが、のちに本人の代表的発想の原点として引用された[3]。
青年期[編集]
ごろ、羽地はの公開講座で民俗学者・北沢宗蔵に師事したと伝えられる。ただし、同時期の受講記録には同姓同名の別人もあり、確定はしていない。北沢の講義で彼女は、語り手の緊張をほぐすために一定のリズムを反復する方法を学び、これを蜂の飛翔になぞらえて改良した。
にはの私設資料館「浪華口承会」に勤務し、年末までに方言採録帳を42冊作成した。ここで彼女は、紙片の並べ方を巣板に見立てる独自の分類法を導入し、後の「はっちーびー」の基礎を築いたとされる。
活動期[編集]
、羽地はで開かれた「地方口承記録技術展」において、蜂の羽音を模した小型笛と金属櫛を組み合わせた採集具を発表した。これが後に「はっちーびー器具」と呼ばれるようになり、農村調査班の間で密かに流行した。
、彼女はの委託でとの境界集落を調査し、計317件の昔話と48件の口碑を記録した。この調査報告書『蜂鳴帖 第一巻』は、当初は内部資料であったが、索引の精密さが評価され、に民間出版社から再刊された。
その後、羽地はに「はっちーびー研究会」を設立し、会員数は最盛期で124名に達した。会合は神田の貸会議室で月2回開かれ、参加者は羽音の長短によって質問権が与えられたという。これは合理的な討論法として一部の教育現場に導入されたが、子どもが真似をして騒音問題になったため、には一部の自治体で使用が制限された[4]。
晩年と死去[編集]
代に入ると、羽地は聴力の低下を理由に現場調査から退き、内の自宅で標本と手稿の整理に専念した。晩年は「語りは採るものではなく、季節に置いていくものだ」と語ったとされるが、これは弟子の回想録にのみ残る表現である。
、羽地美々はの療養施設で、82歳で死去した。葬儀では彼女の愛用品である真鍮製の採集笛が副葬品として納められ、参列者が無意識に低いハミングを続けたため、会場の案内係が困惑したという逸話が残る。
人物[編集]
羽地美々は、極端に寡黙でありながら、必要な場面では人一倍饒舌であったと評される。特に相手の沈黙を「情報の前触れ」とみなし、会話の間を3秒、7秒、11秒と測る癖があった。
また、彼女は紙と糊に強い執着を示し、旅先でも必ず自作の封筒を持参した。弟子たちの証言によれば、採録中に語り手が泣き出すと、必ず鞄から黒糖飴を2個出して机上に置いたという。これは「返礼ではなく、沈黙への賃料」であると説明していた。
一方で、晩年の羽地は無類の猫好きとしても知られ、内で保護した猫に「一番線」「二番線」と名付けていた。もっとも、本人はこれを迷信として否定し、「線があるから迷わないのだ」と述べたとされる。
業績・作品[編集]
羽地の最大の業績は、蜂の羽音に似た反復音で口を開かせる採集法「はっちーびー法」を体系化した点にある。調査対象に直接質問を重ねるのではなく、短い節回しと金属音で場の緊張を下げることで、相手の記憶が連鎖的に出てくるとされた。
代表作とされる『蜂鳴帖』は、全4巻からなる民俗記録集で、方言語彙の欄外に「返答の温度」「沈黙の長さ」「茶の濃さ」まで記した点が異例である。第3巻には、の海辺集落で聞いたという「逆さまの盆踊り」の記述があり、後年、映像資料の不在から真偽をめぐる論争を呼んだ。
ほかに、教育実践書『羽音で学ぶ聞き取り術』、図譜『巣板分類法入門』、私家版の随筆『朝の硝子と午後の虫』などがある。なお、最後の著作は刊行部数が17部しかなく、そのうち5部が関係者の引っ越しで所在不明である[5]。
後世の評価[編集]
羽地美々の評価は、研究者の間で大きく分かれている。支持者は、彼女が地方の語りを都市の研究室に持ち込んだ先駆者であるとみなし、の初期方言調査に間接的影響を与えたと主張している。
一方で、批判的な立場からは、はっちーびー法には心理的暗示の効果以上の実証性がないとの指摘がある。とくにの『民俗記録と反復音』誌掲載論文では、再現実験の成功率が38.2%にとどまったことが報告されたが、試行条件の中に「研究補助者の声量が一定でなかった」ことが含まれており、結論は保留された。
それでも、彼女の方法論は「聞くことそのものを技術化した」という点で再評価が進み、には文化財審議会が生誕地に説明板を設置した。説明板の文面には「地方文化の捕集に生涯を捧げた」とあるが、羽地自身は捕集という語を嫌っていたとする証言もある。
系譜・家族[編集]
羽地家は、もともとで小さな船具商を営んでいたとされる。祖父の羽地定三は網の補修に長け、祖母のミツは歌を覚えるのが早かったため、家系全体に「結び」と「記憶」の気質があったと伝えられる。
父・羽地栄一は測量補助として各地を回り、母・羽地トクは地元の信仰行事で囃子手を務めた。美々は三姉妹の末子で、長姉は教師、次姉は助産婦となった。本人に子どもはなかったが、に弟子の一人を養女同然に迎え入れ、晩年まで書庫の整理を託したという。
なお、羽地の親族には「美々の記録帳に名を残すと雨が多くなる」という俗信があり、親戚の集まりで彼女の職業が話題になると、必ず誰かが戸を閉める習慣があった。
脚注[編集]
[1] 『羽地美々伝』では初出をとしているが、別資料ではとする。
[2] 戦時下の活動については資料の欠落が大きく、研究史上の空白とされる。
[3] 県立女学校の校内誌『若潮』第18号、所蔵は分館。
[4] 一部自治体の制限は、実際には笛の音量基準を巡る一般規制だったとの説もある。
[5] 私家版の所在不明分については、弟子の転居先に誤配された可能性が指摘されている。
関連項目[編集]
はっちーびー法
蜂鳴帖
羽音教育学
民俗記録
口承採集
長崎県の人物一覧
幻視標本
反復音調査
金属櫛採集具
脚注
- ^ 北沢宗蔵『地方口承と反復音の研究』東京民俗出版社, 1941, pp. 23-41.
- ^ 羽地美々『蜂鳴帖 第一巻』浪華資料社, 1952, pp. 1-88.
- ^ 田島和子『戦後民俗学の装置』青木書店, 1968, pp. 112-139.
- ^ M. Thornton, "Auditory Repetition in Field Folklore", Journal of Ethnographic Method, Vol. 12, No. 3, 1971, pp. 201-219.
- ^ 小松原清『聞き取りの倫理と技法』岩波新書, 1974, pp. 55-79.
- ^ Harold B. Kinsey, "The Humming Interview: A Japanese Case Study", Asian Folklore Quarterly, Vol. 7, No. 1, 1976, pp. 14-36.
- ^ 羽地美々『羽音で学ぶ聞き取り術』教育文化新報社, 1960, pp. 3-62.
- ^ 佐伯みどり『沈黙の賃料――羽地美々の方法』筑摩書房, 1988, pp. 90-118.
- ^ 長崎県文化振興課『羽地美々と西彼杵の記憶』長崎県庁出版局, 2016, pp. 7-29.
- ^ 岡本善之『民俗資料の巣板分類法』国文社, 1963, pp. 44-67.
外部リンク
- 長崎民俗資料アーカイブ
- 羽地美々研究会
- 地方口承技術データベース
- 民俗記録再現実験センター
- 西彼杵文化史オンライン