ひかきん
| 名称 | ひかきん |
|---|---|
| 読み | ひかきん |
| 英語表記 | Hikakin |
| 初出 | 1928年頃 |
| 提唱者 | 平川金次郎、佐伯ミナ |
| 主な用途 | 金属疲労測定、初期放送実験、児童向け啓発 |
| 普及地域 | 東京、横浜、名古屋、後に北米 |
| 関連機関 | 東京工業測光研究会 |
ひかきんは、末期のにおいて、光量の差を利用して金属表面の疲労を測定するために考案されたの一種である。後に・・の各分野へ応用が拡大したとされる[1]。
概要[編集]
ひかきんは、との境界領域に位置づけられる概念であり、もともとは薄い金属板に一定の光を当て、その反射の揺らぎから応力の偏りを読む手法として成立したとされる。名称は「光を聞く」ことを意味する古い業界用語「ひかく」と、現場で使われていた符号「KIN」を合わせたものと説明されることが多い[2]。
現在では、厳密な技術用語というより、初期の実験放送や啓発活動に付随して広まった複合語として理解されている。また、外苑周辺の仮設観測所で使われた簡易機材が、のちにの前身にあたる放送試験部に持ち込まれたことが、一般への流通を後押ししたとされる。
一方で、後年の研究者の間では、ひかきんは単なる測定法ではなく、当時の都市生活における「見えない疲労」を可視化する文化装置であったとの指摘もある。特に後の復興期には、建築資材の安全確認と児童教育の両方に用いられたという記録が残る[3]。
歴史[編集]
成立期[編集]
ひかきんの起源は、工学部の臨時実験室で、平川金次郎と佐伯ミナが行った「反射光疲労試験」に求められる。両者は、鉄道橋梁の継ぎ目に生じる微細な歪みを検出するため、を磨いた試料に白熱灯を当て、反射の「かすれ方」を観察したとされる。試験記録は全部で37枚残っていたが、そのうち9枚が湯呑みの受け皿として転用されていたため、初期資料の解釈には揺れがある[4]。
この技法は当初「平川式光筋法」と呼ばれていたが、試験機の振動音が妙に笛のように響いたため、学生のあいだで「ひかきん」と俗称された。名称が定着した背景には、の見世物小屋で使われていた「光のキンキン装置」との混同があったともいわれる。
放送への転用[編集]
になると、試験機材の一部がの簡易送信室に移され、映像信号の乱れを事前に読むための補助装置として用いられた。これが、のちに「ひかきん放送」と総称される小規模実験番組の端緒である。記録上は、1回あたり平均14分、出演者3名、照明器具2灯という極めて小さな編成で運用され、視聴可能範囲は半径およそ2.8kmに限られていた[5]。
には、試験放送の解説役として佐伯ミナが登場し、ひかきんを使った「疲労の見える化」を子ども向けに説明した。彼女は黒板にチョークで描いた橋桁の図を指しながら、「金属も人も、長く働けば少し曲がる」と述べたとされ、この一節は当時の教育雑誌でしばしば引用された。また、この時期にが配布した補助教材のうち、少なくとも6冊にひかきんの図版が挿入されていた。
戦後の再編[編集]
以降、ひかきんは放送技術から離れ、労働衛生と視聴者教育の中間領域へ移っていく。特にの製鋼所では、作業員の休憩時刻を決める合図として、赤と白の光を交互に点滅させる「ひかきん警告灯」が導入された。現場記録によれば、導入後の小事故は4か月で17%減少したが、同時に昼食時の行列が1.6倍に伸びたため、効果の解釈には注意が必要である。
には、教育番組『しごとのめとひかきん』が放送され、金属疲労の概念が一般家庭にも浸透した。放送台本には、実在の橋梁を想起させるような地名が多く使われた一方で、解説図の一部に「金属は励ましすぎると泣く」といった記述があり、後年の編集では削除されたともいわれる。
社会的影響[編集]
ひかきんは、技術的手法としての側面以上に、都市生活の不安を扱う比喩として機能した。とりわけ期には、工場、学校、鉄道、家庭電化のすべてに「見えない疲れ」があるという感覚が広まり、その象徴語としてひかきんが用いられた[6]。
また、の中小企業団体では、毎月第2金曜日に機械の異音を点検する「ひかきん点検」が半ば慣習化し、事務員が書類の角をそろえる儀式まで含まれていたという。統計上は1959年から1965年にかけて、同点検を導入した事業所の離職率が平均0.8ポイント低下したが、これは職場改善よりも「言葉が面白くて続いた」ことが原因だとする説が有力である。
教育現場では、ひかきんは理科教材と道徳教材の両方にまたがる珍しい例とみなされた。なお、内のある小学校では、1958年度の自由研究で「ぼくの家のひかきん」を提出した児童が41名おり、うち7名が扇風機を対象にしていた。
技法と装置[編集]
ひかきん装置は、原理上は非常に単純である。光源、反射板、振動を拾う受光部、そして目視用の表示板からなり、初期型はすべて木箱に収められていた。重量は約18kgで、持ち運びには二人がかりを要したが、現場では「軽い方」として扱われていた[7]。
測定手順は、試料に対して37度の角度で光を当て、反射像の乱れを3分ごとに記録するというものである。ただし、当時の担当者のメモには「昼に見るとまぶしい」「雨の日は全体に元気がない」といった主観的表現が多く、今日の基準では再現性に課題がある。また、試料の表面があまりにも磨かれている場合、逆に何も読めなくなるため、熟練者はわざと指紋を1本残して観察したという。
後期型では、を用いた増幅部が追加され、信号の微細な揺れが音として出力された。これにより、点検員は耳でも異常を聞き分けることができたが、試験中に「金属がため息をつくように聞こえた」との証言があり、記録班が注意書きを付した。
批判と論争[編集]
ひかきんには、初期から複数の批判が存在した。第一に、測定値が現場の気分に左右されやすい点である。とくにの港湾局報告では、同じ鋼板を午前と午後で判定したところ、午前は「要再検」、午後は「やや疲れ」、夕方は「本日は休養を勧告」となり、制度設計の曖昧さが問題視された[8]。
第二に、教育利用の名目で過剰に拡大したことへの批判がある。文部当局の委員会記録によれば、ひかきん教材は一時期、算数・国語・修身・家庭科にまで転用され、最終的に「鉛筆の削り方と橋の強度を同時に教える」無理な統合教材として配布された。これが児童の理解を深めたかどうかについては評価が割れている。
第三に、名称そのものが独り歩きし、実体以上に神秘化された点である。なお、に刊行された地方史誌では、ひかきんを「古来より伝わる金属の祈祷」と説明する一節があり、専門家からは強い反発を受けた。もっとも、同書は図版の出来が異様に良かったため、現在でも図書館で密かに参照されている。
再評価[編集]
以降、ひかきんは旧式技術としてではなく、戦前・戦後を通じた視覚文化の事例として再評価された。とくにの企画展『見る機械、聞く金属』では、ひかきん関連資料が来場者の関心を集め、会期中の入場者数は延べ12万4,000人に達した[9]。
また、の映像史研究では、ひかきんが初期放送番組における「説明の余白」を作り出した点が注目されている。つまり、装置そのものより、装置を囲む人々の身振り、掛け声、板書、試運転の沈黙が文化として残ったのである。このため、現在の研究者の一部はひかきんを「半分は測定器、半分は語りの形式」と定義している。
近年では、若年層のあいだで「ひかきんっぽい」という形容が、妙に大げさだがなぜか信頼できる様子を指す俗語として使われることがある。ただし、この用法の定着過程については体系的調査がなく、出典がSNSの断片に偏っているため、学術的には保留とされている[10]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 平川金次郎『反射光疲労試験とその周辺』東京工業測光研究会, 1932.
- ^ 佐伯ミナ『ひかきん教育論』文部省教育資料課, 1935.
- ^ 加藤義彦『戦前放送と装置文化』放送文化出版局, 1968.
- ^ Margaret A. Thornton, "Optical Fatigue Readings in Early Japanese Industry," Journal of Industrial Spectroscopy, Vol. 14, No. 2, 1974, pp. 88-112.
- ^ 田村一郎『都市の見えない疲労——ひかきん再訪』中央公論新社, 1987.
- ^ R. S. Bedford, "The Hikakin Method and Amateur Signal Discipline," Proceedings of the Eastern Technical Society, Vol. 9, No. 1, 1991, pp. 3-29.
- ^ 国立科学博物館編『見る機械、聞く金属』同館資料叢書, 1998.
- ^ 小野寺澄子『放送前夜の東京市における光の訓練』岩波書店, 2004.
- ^ H. Watanabe, "A Comparative Study of Hikakin Lamps," Bulletin of Urban Engineering History, Vol. 6, No. 4, 2011, pp. 201-219.
- ^ 『ひかきんと金属の祈り』地方史研究会編、彩流社, 1978.
- ^ 森下拓海『ひかきんの社会史——点検、教育、娯楽』筑摩書房, 2016.
外部リンク
- 東京工業測光研究会アーカイブ
- 国立科学博物館デジタル特別展
- 放送文化史資料室
- ひかきん研究会年報
- 都市工学口承史センター