まげメガネ
| 分類 | 眼鏡装具・着用技法 |
|---|---|
| 起源 | 江戸時代後期(とされる) |
| 主な地域 | 京都、江戸、大坂 |
| 用途 | 頭部固定、礼装補助、儀礼的視線制御 |
| 材質 | 鼈甲、真鍮、竹、漆 |
| 流行期 | 明治12年 - 明治31年 |
| 代表的職人 | 石塚源兵衛、長沢トメ、Dr. Elias C. Hargrove |
| 関連団体 | 日本視具改良協会 |
| 別名 | 曲輪眼鏡、寝返り止め眼鏡 |
まげメガネは、後期に発生したとされる、のを内側へ湾曲させて頭部に密着させる着用法、またはそのために特別に設計された器具の総称である。もとはの職人集団の間で「落ちぬ・歪まぬ・見えぬ」の三条件を満たすために考案されたとされ、のちに一部の期知識人のあいだで流行した[1]。
概要[編集]
まげメガネは、眼鏡の装着安定性を高めるため、を耳の後ろでなく頭頂側へ回し込む、あるいは耳介の内側に沿わせて曲げる構造を持つ器具である。一般には滑り止めの一種と見なされるが、期には「視線を正す道具」としても語られた。
この語は今日ではほぼ失われたが、の古書店やの道具帳に断片的な記録が残る。また、居留地の医療器具商が英語で Mage Megane と誤記したカタログが発見されて以降、研究者のあいだで一種の民俗技術として注目されるようになった[2]。
起源[編集]
京都の硝子師と巡礼者[編集]
起源については、年間ので、老眼に悩むの巡礼者向けに作られたという説が有力である。特にの硝子師・石塚源兵衛が、旅装の最中に眼鏡が脱落する苦情を受け、細い竹を湯で曲げて耳後ろへ回す形を試作したという逸話が残る。
もっとも、同時代の町触れには「眼具の異形を以て遊興することを禁ず」との記述があり、当初は実用具というより、舞台用の小道具に近かった可能性がある。なお、源兵衛の孫が残したとされる帳面には、試作品が8挺作られ、そのうち5挺がに落ちたと書かれているが、真偽は定かでない。
江戸への伝播[編集]
に伝わったのは末期とされ、の行商人が「曲がる眼鏡」として売り歩いたのが広まる契機であった。特に、芝居町で役者がつけると顔の輪郭が強調され、観客から「狐の知恵袋」と呼ばれたことが流行を後押しした。
頃の記録では、1組あたり銀7匁2分から高級品で2両1分まで幅があり、鼻梁の形に合わせて全42種の曲率を用意した工房もあったという。これらの数字はやや誇張があるとみられるが、の付録には実際に曲率表の断片が見つかっている。
明治期の流行[編集]
知識人の記号としての使用[編集]
12年頃になると、まげメガネは単なる補助具ではなく、学識と頑固さを示す記号として扱われた。とりわけ周辺の若手教員のあいだで、耳の後ろではなく帽子の内側に隠す着用法が流行し、「議論に負けても眼鏡は落ちぬ」という慣用句まで生まれた。
門下を名乗る人物の随筆には、来客の前でまげメガネを直す所作が「思索の起動音」と見なされたとある。また、の洋服店では、蝶番の硬さを競う「まげ締め試験」が毎週土曜に行われ、最長で17分間、机に置いたまま開閉し続けた製品が表彰されたとされる。
女性用の改良型[編集]
20年代には、髷や束髪に干渉しないよう、後頭部を避けて側頭部へ重心を逃がす女性用まげメガネが登場した。これを設計したとされる長沢トメはの女髪結いを兼業しており、髪結いと視具製造を同じ台帳で管理していた。
トメの工房は月産24本ほどで、色は鼈甲調、鼠色、深紅の三系統に限られていた。にもかかわらず、の写真館で「顔の印象が締まる」と評判になり、卒業写真の写りを気にする女学生が一時的に買い求めたという。もっとも、重さが平均で86グラムもあり、長時間の授業には不向きであった。
社会的影響[編集]
まげメガネの普及は、の実用化だけでなく、姿勢や態度を可視化する文化を生んだとされる。新聞では「まげが深いほど頑固、まげが浅いほど進歩的」といった半ば風刺的な論評が見られ、政治家の写真では眼鏡の湾曲の角度まで論じられた。
の系の投書欄には、駅員がまげメガネを掛けたまま改札鋏を失くし、耳の後ろの空間に切符を挟んでいたという投稿があり、読者投稿は3週にわたって続いた。これを受けては「耳後部の空隙は私物置場に非ず」とする注意書きを配布したとされる。
一方で、の輸入商は、まげメガネの湾曲部に記号を刻み、商談相手の国籍ごとに色分けするサービスを始めた。これが後の識別タグ文化の原型になったという説もあるが、学界では概ね懐疑的である。
批判と論争[編集]
まげメガネには、見た目の滑稽さから「学術を装った奇術具である」との批判があった。とくにの周辺では、学生団体が「曲げるべきは眼鏡ではなく世相である」と書いた貼り紙を掲出し、4日で撤去された記録がある。
また、衛生局は、極端に強く曲げた場合に側頭部へ圧が集中し、午後3時頃に集中力が17%低下するとの試験結果をまとめたが、報告書の末尾には「被験者12名中2名が途中で居眠り」との注記があり、信頼性を疑う声も強い。なお、反対派はこの報告を受けて「まげメガネは文明開化の名を借りた頭部拘束具である」と主張した。
衰退と再評価[編集]
期に入ると、軽量のセルロイド製が普及し、まげメガネは急速に姿を消した。特に後は、修理の容易さが重視され、湾曲構造よりも交換可能なつるが好まれたのである。
しかし以降、民俗工芸の再評価の流れのなかで、の古道具市やの収蔵整理により再び注目された。2017年には復元職人の中村照義が、線0.8ミリと竹ひごを組み合わせた試作を公開し、SNS上で「結局これが一番落ち着く」と話題になった。
現代の文化的位置づけ[編集]
現代では、まげメガネは実用品としてよりも、レトロ趣味、演劇、小道具制作の文脈で参照されることが多い。また、の一部の和装店では、成人式用の記念撮影に限って「まげ締め仕上げ」をオプション提供している。
一部の愛好家は、まげメガネを「視界のための枠ではなく、視線のための枠」と解釈している。もっとも、保存会の会報には、復元品を一日中着用した会員が夕方には左右の耳の高さを3ミリ誤認したとの報告もあり、道具としての癖は今なお無視できないとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 石塚源治『曲輪眼鏡考』京都視具研究会, 1894年, pp. 11-38.
- ^ 長沢トメ『女髪結いと視具の接点』大阪女子手工業協会, 1901年, pp. 52-79.
- ^ 渡辺精一郎「明治前期における装着眼鏡の湾曲化」『日本器物史研究』Vol. 7, No. 2, 1968, pp. 101-128.
- ^ Margaret A. Thornton, "The Bending of Spectacles in Meiji Japan," Journal of East Asian Material Culture, Vol. 14, No. 1, 1987, pp. 44-66.
- ^ 中村照義『復元まげメガネの設計記録』神田古道具出版部, 2018年, pp. 5-19.
- ^ 小林善蔵「耳後部空隙の私物化に関する一考察」『衛生と器具』第12巻第4号, 1905年, pp. 201-214.
- ^ Harold P. Whitcombe, Spectacles, Curves, and Civic Manners, London: Albion Press, 1922, pp. 77-93.
- ^ 『日本視具改良協会報』第3巻第1号, 日本視具改良協会, 1889年, pp. 1-12.
- ^ 黒田末吉『まげ締めと近代化』東京民俗資料刊行会, 1976年, pp. 33-58.
- ^ Elias C. Hargrove, "On the Topological Stability of Curved Temples," Proceedings of the Yokohama Medical and Optical Society, Vol. 2, No. 3, 1892, pp. 9-17.
外部リンク
- 日本視具史アーカイブ
- 京都古道具継承研究所
- 横浜居留地器物目録データベース
- まげメガネ復元保存会
- 東京民俗装具図譜