もち米プリン
| 名称 | もち米プリン |
|---|---|
| 英語 | Mochigome Pudding |
| 発祥 | 横浜外国人居留地周辺 |
| 考案時期 | 1894年頃とされる |
| 主材料 | もち米、乳製品、砂糖、卵 |
| 分類 | 和洋折衷菓子、保存性菓子 |
| 主な普及地 | 関東南部、北海道の港湾都市 |
| 特徴 | 強い弾性と低い離水率 |
| 関連機関 | 横浜食糧試験場、帝国菓子協会 |
もち米プリンは、の粘性を利用してまたはとともに凝固させるの菓子である。19世紀末ので、の保存食研究との点心文化が偶然に交差して生まれたとされる[1]。
概要[編集]
もち米プリンは、蒸したを裏ごしし、または、、を加えて再加熱したうえで冷やし固める菓子である。一般的なと異なり、ゼラチンを用いない場合でも自立性が高いことから、戦前には「匙で切る菓子」とも呼ばれた。
その成立には、周辺に集まった洋食店、軍需向けの乳業会社、そして寺院の精進菓子を扱う職人集団が関わったとされる。もっとも、初期の文献では「もち米プリン」という名称は一定しておらず、「米膏洋羹」「蒸乳餅」などの呼称も併記されている[2]。
歴史[編集]
誕生期[編集]
通説では、の港湾検疫施設に勤めていた調理監督・が、輸送中に半乾燥化したを再利用するため、裏手の厨房で試作したのが最初とされる。彼は英国人技師の廃棄するを手本にしたが、乳脂肪が不足していたため、餅状に粘る米粉を混ぜ込んだところ、予想外に滑らかな口当たりになったという。
この試作品は、当初は港務局の夜食として配られたが、冷却後に表面へ薄い艶が生じることから、記録係が「磁器のようだ」と評した。これが評判を呼び、の菓子店数軒で模倣品が作られたとされる。なお、当時のレシピ帳には分量が「盃3、匙7、米1斗のうち半分」とだけ記されており、再現性は著しく低かった[3]。
普及と改良[編集]
頃には、の西洋料理店が「もち米プリン」を宴会向けの甘味として採用し、の周辺では小さな流行が起きたとされる。とくに初期の婦人雑誌は、これを「子どもが噛みながら食べる新型の洋風甘味」と紹介し、家庭用の蒸し器で作れる点を強調した。
一方で、米の粒感をどこまで残すかをめぐり、の料理研究家・との乳業技師・のあいだで論争があったとされる。松浦は「七割は餅、三割はプリン」と主張し、クラウゼは「離水率を3.8%未満に保てば十分」と反論したという。結果として、現在の標準形は両者の折衷案であるとみなされている[4]。
戦時下と再評価[編集]
戦前期には、乳製品の統制により一時的に姿を消したが、のやでは、ともち米を併用した代替版が学校給食向けに作られたとされる。終戦直後には砂糖不足のため、黒糖や麦芽水あめで甘味を補う案が採用され、これがかえって「素朴で懐かしい」と評価された。
以降、郷土菓子研究の隆盛とともに再評価が進み、の一部喫茶店で復刻販売が行われた。1987年にはが小さく取り上げたことを契機に、家庭向けのミックス粉が2社から発売されたが、のちに1社は「口当たりが現代人に過剰にやさしい」との理由で販売を終了している。
製法[編集]
伝統的な製法では、を一晩浸水させたのち、で40分以上蒸し、熱いうちに乳成分と合わせてすり鉢で練る。粘度が上がりすぎると「輪郭が立ち、プリンとしての気品を失う」とされ、職人は温度を前後に保ちながら作業したという。
また、表面の艶を出すために、仕上げ直前にを0.7%だけ加える手法が知られている。これはの技師長・が考案したもので、彼は「卵は香りではなく記憶を整える」と述べたと伝えられる。もっとも、この発言の出典は菓子見本市の講演要旨にしか見当たらず、信憑性にはなお議論がある[5]。
地域ごとの変種[編集]
関東型[編集]
関東型はもっとも標準的で、では型から外した際に底面へを極微量たらす習慣がある。これにより甘味のあとに軽い塩気が残り、港湾労働者の「午後三時の再起動菓子」として重宝されたという。
関西型[編集]
周辺では、もち米を粒状に残し、上からをかけるタイプが主流である。菓子商組合の記録によれば、見た目が白玉団子に近すぎるため、初期は「これはむしろ雑炊ではないか」と苦情が寄せられたが、逆にそれが行列の呼び水になった。
港湾型[編集]
やの港湾型では、保存性を高める目的でを混ぜることがある。これにより表面に微細なひびが入るため、船員のあいだでは「航海地図のようだ」と呼ばれ、出航前夜の縁起物として売られた。
社会的影響[編集]
もち米プリンは、和菓子と洋菓子の境界を曖昧にした象徴的な菓子として扱われている。とくに後期から初期にかけて、学校や軍の食糧改善運動で「米を甘味に転化する技術」の成功例として引用され、米消費の新しい用途を提示した。
一方で、食感が独特であるため、初対面の来客に出すと沈黙が生まれやすいという問題も指摘されている。これにより一部の茶会では、最初の一口を食べた者が必ず鐘を鳴らす「試食の鈴」制度が導入されたという。制度の導入時期はとされるが、実際には地域の料理会ごとにばらつきがあった可能性が高い。
批判と論争[編集]
もち米プリンをめぐる最大の論争は、そもそもと呼ぶべきかという点にある。伝統菓子保存団体は「蒸して固める以上は広義のプリンである」と主張する一方、洋菓子研究者は「米が主原料である時点で別種である」と反論している。
また、に内の食品博覧会で出品された“超硬質もち米プリン”が、展示用に硬度を上げすぎた結果、スプーンではなく紙ナイフで切る仕様になり、来場者の批判を浴びた。主催側は「本来は噛む菓子である」と説明したが、逆にその説明がもっとも不評だったとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 中川定七郎『港湾厨房試作録』横浜食糧試験場報告, 1896年.
- ^ 松浦和子「米膏洋羹の再解釈」『帝国菓子研究』第12巻第3号, pp. 41-58, 1914年.
- ^ Otto H. Krause, “Studies on Sticky Rice Custards,” Journal of Colonial Confectionery, Vol. 8, No. 2, pp. 113-129, 1913.
- ^ 三浦礼蔵『蒸乳餅の温度学』帝国菓子協会出版部, 1928年.
- ^ 佐伯美津子「戦時下代替乳製品と甘味菓子」『食糧と家庭』第4巻第1号, pp. 7-19, 1947年.
- ^ 横浜市史編集委員会『横浜港と甘味の変遷』横浜市, 1968年.
- ^ 平田真一『離水率3.8%の壁』日本調理科学会誌, 第21巻第4号, pp. 201-214, 1989年.
- ^ 神奈川新聞文化部「復刻される港町の味」『日曜版特集』, 1987年11月22日.
- ^ A. M. Thornton, “Pudding, Rice, and Memory in Port Cities,” The East Asian Culinary Review, Vol. 15, No. 1, pp. 5-28, 2002.
- ^ 菊池栄『もち米プリンのすべて—あるいはその限界—』中央菓子出版, 2011年.
- ^ 長岡由理「超硬質もち米プリン事件の記録」『食品展示年報』第9巻第2号, pp. 66-73, 1994年.
外部リンク
- 横浜食文化アーカイブ
- 帝国菓子協会デジタル資料室
- 港湾甜品研究所
- 和洋折衷菓子保存会
- かながわ味覚年表