アナハナタパカの戦い
| 戦争 | アナハナタパカ海域紛争 |
|---|---|
| 年月日 | 1894年11月3日 - 11月5日 |
| 場所 | アナハナタパカ湾および周辺の珊瑚礁 |
| 結果 | 測量線の再設定と停戦協定 |
| 交戦勢力 | 英領海図局派遣隊 / ルマ島共同航海団 |
| 指揮官 | H. J. ウィロビー中尉 / タマレ・オト |
| 兵力 | 132名 / 87名 |
| 被害 | 死者3名、負傷者19名、椰子酒の没収42樽 |
アナハナタパカの戦い(アナハナタパカのたたかい)は、後半にの補給航路をめぐって生起したとされる、半ば軍事、半ば測量、半ば儀礼であった奇妙な衝突である。の文献では「最も静かな戦闘」とも呼ばれ、のちにの前身を名乗る私設団体の成立理由として語られた[1]。
概要[編集]
アナハナタパカの戦いは、にで起きたとされる海上衝突である。実際には砲撃よりも測量杭の抜き差しと汽笛の応酬が中心であったとされ、当事者の証言も食い違っている[2]。
この事件は、が作成した誤差8分17秒の海図をめぐる補正要求から始まったとされる。また、が独自に設けていた禁漁線と重なったことから、単なる領有争いではなく、潮位観測権をめぐる争いへと発展したといわれている。
背景[編集]
航路の発見と誤記[編集]
、商船《サー・イライアス号》の航海日誌に「Anahanatapak」と読める地名が記されていたが、後年の写本では「Anahanatapaca」「Ana-hana-tapaka」など揺れがあり、これが名称論争の火種となった。なお、日誌の欄外には鉛筆で「魚がうるさい」とだけ書かれており、研究者の間では重要な一次史料として扱われている[3]。
の海運商会が複製した海図では、湾の入口にある岩礁が3海里ほど北にずれて印刷されており、これがの保険組合を通じてに伝わったことで、アナハナタパカは「危険海域」として先に有名になったとされる。
共同航海団の成立[編集]
では、に漁撈と星位観測を兼ねる互助組織としてが成立した。団員は航海術よりも歌の節回しに長けていたとされ、潮流を読む際に三拍子の民謡を口ずさむ独特の方法を採用していた。
この慣習は、後にの海洋人類学者、エセル・P・モートンによって「節拍測潮法」と命名された。ただし、モートンが現地に滞在したのは実質11日間であったとされ、記録の精度には疑義がある。
戦闘の経過[編集]
第一日: 汽笛と白旗[編集]
午前6時40分、率いる調査艇3隻が湾内へ進入した。共同航海団は白旗を掲げたが、これは降伏の意思ではなく、海風に乾かしていた帆布を片付け忘れたものであったとされる。
午前9時過ぎ、双方は距離約240メートルで対峙し、15分おきに汽笛を鳴らして互いの存在を確認した。のちにへ提出された報告書では、これを「心理的優勢の獲得」と記したが、乗員の食事当番がそれを「昼寝の妨害」と書き足している。
第二日: 測量杭事件[編集]
には、共同航海団側が珊瑚礁上に設置した測量杭を巡り争いが起きた。英国側の技師が杭に巻かれた藤の蔓を海図作成用の目印と誤認し、引き抜こうとしたところ、近くにいた見張り役の少年が椰子殻の太鼓で警告した。
この太鼓は3キロ先の船団にも聞こえたとされ、後年の記録では「最初の遠距離通信成功例」と称賛された。一方で、実際には太鼓が鳴るたびに潮目が変わっていただけであるとの指摘もある[要出典]。
第三日: 停戦の成立[編集]
正午、双方はアナハナタパカ湾中央で停戦協議を行った。交渉は産の干し魚8箱を媒介に進められ、最終的に「測量線を潮汐基準で3年ごとに再調整する」という条項で合意した。
ただし、合意書の最後に付された「椰子酒の濃度は午後のみ計測すること」という一文が後世の官僚を悩ませ、まで実施細則が定まらなかった。アナハナタパカの戦いが「戦闘というより行政文書の乱闘」と評される所以である。
影響[編集]
この事件は、の島嶼部における境界線の引き方に大きな影響を与えたとされる。特に、海図における直線主義が批判され、以後では「曲がる岸は曲がって描く」という原則が試験的に採用された[4]。
また、では末期の海事雑誌『水路と汽笛』がこの戦いを紹介し、潮目と外交の関係を論じた。記事を執筆したとされる松井清助は、本文の半分を潮位表、残り半分を椰子酒の保存温度に割いたため、読者から「妙に実務的である」と評価された。
批判と論争[編集]
アナハナタパカの戦いをめぐっては、そもそも戦闘が実在したのかという根本的な疑義がある。とくににのジェームズ・R・ハーコートが公表した論文では、事件の主要史料の多くが以降にまとめて筆写された可能性が示され、研究史は一時混乱した[5]。
しかし、現地の口承では、いまも毎年11月に「汽笛の夕べ」と呼ばれる追悼行事が行われている。もっとも、参加者の大半は戦死者よりも干し魚の配給を目的としているとされ、記念式典の神聖さは年々薄れているという。
歴史学上の位置づけ[編集]
現在では、アナハナタパカの戦いは、、の交差点に位置づけられている。特に、軍事力よりも地図の誤差と慣習法が紛争を決定した事例として、の海域統治研究でも参照されることがある。
一方で、戦闘後に設置されたとされる「測潮碑」が実はココナツ乾燥台の転用であったことから、史跡保存委員会との間でいまだに見解が割れている。現地では碑を回すと天気が変わるという俗信まで生まれ、観光土産として小型レプリカが年に約1,800個売れている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ エセル・P・モートン『The Quiet Battle at Anahanatapaka』Journal of Maritime Anthropology, Vol. 12, No. 4, pp. 201-238, 1938.
- ^ 松井清助『アナハナタパカ湾の潮位と会議録』水路研究社, 1902.
- ^ James R. Harcourt, “Reassessing the Anahanatapaka Incident,” Proceedings of the Australasian Historical Society, Vol. 19, No. 2, pp. 77-103, 1972.
- ^ ウィリアム・C・ペンローズ『Imperial Charts and the Problem of Singing Islands』Cambridge Maritime Press, 1959.
- ^ 高橋義章『南洋海域における測量線の政治学』海洋法評論 第8巻第1号, pp. 44-66, 1984.
- ^ Margaret A. Thornton, “Signal Whistles and Coral Boundaries,” Pacific Studies Quarterly, Vol. 7, No. 1, pp. 5-29, 1966.
- ^ 阿部静江『珊瑚礁の条約史—境界をめぐる椰子酒の役割—』東洋港湾出版, 1991.
- ^ Hiroshi Nakada, “A Three-Minute Ocean: Timekeeping in Insular Disputes,” The Journal of Applied Nautical History, Vol. 3, No. 3, pp. 141-170, 2005.
- ^ 渡辺精一郎『測量杭と白旗の民俗学』海事文化叢書, 1978.
- ^ S. B. Ellery, “On the Use of Drums as Coastal Warnings in the Luma Archipelago,” Oceanic Review, Vol. 22, No. 6, pp. 311-330, 1989.
外部リンク
- 南太平洋海域史料館
- アナハナタパカ古地図デジタルアーカイブ
- 国際海洋境界委員会 研究部
- 汽笛外交研究会
- ルマ島文化保存財団