アブドゥル晴明
| 成立 | 12世紀末頃とされる |
|---|---|
| 提唱者 | アブドゥル・安倍晴明(とされる) |
| 主な活動地 | 京都、奈良、敦煌経由の伝承地 |
| 系統 | 陰陽道、月相観測、香料護符術 |
| 主要文献 | 『月鏡秘伝抄』 |
| 伝承上の禁忌 | 丑三つ時の算木反転 |
| 象徴 | 三日月、白紙の符、青銅の印章 |
| 現存資料 | 江戸後期写本が2系統 |
| 影響 | 都市占術、祭礼設計、民間護符文化 |
アブドゥル晴明(あぶどぅるせいめい、英: Abdul Seimei)は、末期に成立したとされる、と系占術を折衷した架空の秘術体系、またはその祖師名である。後世にはの一部で「半月の式神」を用いる術として知られた[1]。
概要[編集]
アブドゥル晴明は、の算木術に期の天文観測法が混入して成立したとされる秘術体系である。一般にはの異名ないし秘伝の別系統と説明されるが、実際にはの外港に出入りした香料商人が持ち込んだ月暦の読法が核になったという説が有力である[2]。
この術は、朔望の時刻に合わせて符と砂を配置し、災厄の流れを「半月で受け、三日で返す」ことを目的としたとされる。なお、伝承ではの神官との測時師が同席した会合で原型が決まったとされるが、同席者の記録は写本ごとに人数が3人から17人まで揺れており、要出典性が高い[3]。
成立と伝承[編集]
平安後期の成立説[編集]
もっとも古い系譜では、元年にの六角堂裏で「月の位相により鬼気の方角が変わる」ことを記した小札が発見され、これを読んだ渡来僧のが晴明系の術に接続したとされる。小札は厚さ0.7ミリの檜皮紙に金泥で書かれていたというが、現物の所在は不明である。
当時の記録では、術は最初「アブダル清明」と呼ばれており、の蔵書目録にもそれらしき語が一度だけ見えるとされる。ただし目録の該当箇所は火災で失われたとされ、後代の筆写による可能性も指摘されている。
西アジア伝来説[編集]
経由で伝わった測星法がの交易船に積まれ、そこからを経てへ入ったという説もある。とくに商人の帳簿に「Abd al-Seimei」という署名が見つかるという話が有名で、期の寺院文書にまで影響が及んだとされる。
もっとも、この署名は筆跡から見て江戸中期の改竄である可能性が高い。しかし、改竄者がわざわざラテン文字と漢字を同一行に並べたことで、結果的に後世の研究者を40年以上混乱させた点は評価される。
術式[編集]
アブドゥル晴明の術式は、三つの工程からなるとされる。第一に、白紙をで刻んだ砂に埋め、第二に、青銅の印章でを反転押印し、第三に、月が雲に入る直前に東南へ七歩退く。これにより、家内の口論が平均で2日17時間以内に鎮まると『月鏡秘伝抄』は記す[4]。
また、術者は自らの名に「アブドゥル」を付すことで、災厄を遠回しに国外へ送ると説明された。これは外交儀礼の影響を受けたとみられ、の記録官が「音の強い名は凶事を遠ざける」と理解したため、儀式名が次第に豪奢化したとされる。
一方で、禁忌も厳しかった。特に「丑三つ時に算木を三回以上回すと、逆に本人の影が先に老いる」とされ、の某家ではこれを破ったために庭木が一年で半分枯れたという逸話が残る。
歴史[編集]
院政期から鎌倉期[編集]
院政期には、アブドゥル晴明は主に貴族の病占いとして用いられた。とくに周辺では、毎月3回、月齢の変化に応じて方違えの可否を判定したという記録があり、これにより移動の遅延が平均18分短縮したとされる。
鎌倉期に入ると、武家はこの術を戦場の方位判断に転用した。『相模護符記』には、のある御家人が戦の前夜に術を誤り、北を南として出陣した結果、味方が一度も合戦に遭わずに帰還したという珍事が載る。
江戸期の再発見[編集]
江戸期には、の古書店主・小此木丈右衛門が『月鏡秘伝抄』の断簡を入手し、これをとの中間に位置づけた。彼は8年に「晴明とアブドルは同じく空の穴を読む者なり」とする私刊本を出し、これが町人層に広く流布した。
ただし、私刊本の奥付には印刷所名として「南蛮堂」と「東山堂」が並記されており、同時代の出版慣行としてはやや不自然である。このため、後世の版元が売れ行きを見て急造した可能性があると考えられている。
近代の再編と民間信仰化[編集]
末期には、の神社調査係がアブドゥル晴明を迷信として整理対象に含めた一方、都市部では「月読み守」として流行した。とくにの文具店で売られた護符は、1912年の1年間で約4万8,000枚を記録し、同店の売上の17%を占めたとされる。
戦後はの民俗学ゼミが断片的資料を収集し、術式の再現実験を行った。結果、三日月型の紙片を戸棚に貼るだけで、家族会議の結論が平均で1案増えることが確認されたというが、統計の母数が23件しかないため、学術的評価は分かれている。
社会的影響[編集]
アブドゥル晴明は、都市の方位意識に独特の影響を与えたとされる。たとえばの商家では、店の入口を「吉方」に見せるために看板を斜めに掛ける風習が広まり、これが後の百貨店意匠にも影響したという説がある。
また、祭礼設計にも波及し、の山鉾配置を説明する俗説の一部にアブドゥル晴明由来の月相表が使われた。もっとも、実際には昭和後期の観光パンフレットが元になったとの指摘があり、伝統と広告が見事に混線した事例として知られている。
一方で、占い師や護符売りの間では「Abdul Seimei式」を名乗る亜流が乱立し、2010年代にはの商業施設で月1回の実演会が行われた。参加者の満足度は高かったが、儀式に必要な青銅印章がすべて同じ製造番号だったため、同一ロット説が囁かれた。
批判と論争[編集]
学界では、アブドゥル晴明の実在性よりも、文献群がいつ、誰によって整序されたかが争点となってきた。とくにの某研究会が「元資料の8割は江戸後期の擬古文である」と発表した際、民俗研究者からは「擬古であること自体が伝承の一部である」と反論が出た。
また、の保存団体は、術式の再現に使われる香料の原価が高騰したことから、月例講習を全12回から9回に短縮した。これに対し愛好家側は「3回減らすと月の欠けが足りない」と抗議し、最終的に講習会場がとで交互開催されるという妥協に落ち着いた。
なお、2021年に公表された写本比較表では、同じ段落に「アブドゥル」「清明」「晴明」「Seimei」が4回ずつ現れることが確認され、編集史的には極めて珍しい混成テキストとして注目された。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 宮地玄一郎『月鏡秘伝抄の成立と変容』東山学術出版, 1987, pp. 41-79.
- ^ Sarah M. Thornton, "Lunar Bureaucracies in Heian Cosmology," Journal of East Asian Ritual Studies, Vol. 12, No. 3, 2004, pp. 201-238.
- ^ 小此木丈右衛門『晴明阿部論 私版』南蛮堂, 寛政8年.
- ^ Hassan al-Kyoto, "Cross-Regional Astrometry and Household Divination," Proceedings of the Osaka Institute of Comparative Folklore, Vol. 5, 1998, pp. 88-117.
- ^ 藤井和馬『京畿護符文化史』平安社, 1969, pp. 130-164.
- ^ Margaret A. Wren, "The Half-Moon Seal and Its Urban Afterlives," Kyoto Historical Review, Vol. 21, No. 1, 2016, pp. 9-52.
- ^ 山根朔太郎『アブドゥル晴明資料集成』民俗書林, 2002, pp. 15-96.
- ^ Takeshi Okuno, "On the So-Called Abdul Seimei Tablets," Bulletin of the Institute for Imperial Calendrics, Vol. 7, No. 2, 1978, pp. 44-61.
- ^ 内藤由紀子『護符と印章の都市史』洛北出版社, 2011, pp. 233-268.
- ^ Jean-Pierre Hoshino, "Abd al-Seimei and the Question of the Missing Seal," Revue des Études Japonaises, Vol. 14, No. 4, 1991, pp. 301-329.
外部リンク
- 京都民間秘術アーカイブ
- 月鏡文庫デジタル写本室
- 東山比較占術研究所
- アブドゥル晴明研究会
- 平安都市方位データベース