インコキン
| 分野 | 文化史・印刷科学・微生物言説 |
|---|---|
| 提唱形態 | 随筆・技術報告・商業ポスター |
| 主要モチーフ | インクの染み/菌糸の比喩/色素の連鎖 |
| 成立年代 | 昭和末期〜平成初期(とする説) |
| 影響領域 | 図書館の保存・印刷品質管理・広告表現 |
| 代表的な主張 | 紙面の変色は「インコキンの増殖」で説明できる |
| 関連語 | インコキン指数、インコキン変色度、インコキン養生 |
| 評価 | 科学的検証は乏しいが、比喩としては広く流通 |
インコキン(いんこきん)は、で一時期流行したとされる「インク」と「菌類」を連想させる架空の概念である。主に、やの劣化を“生物学的に説明しよう”とする言説の中心語として広まったとされる[1]。
概要[編集]
は、紙媒体の経年変化(色あせ・微細なにじみ・微妙な斑点形成)を、特定の“見えない増殖現象”として語るために用いられた語である。言説上は「インク中の微量成分が、空気中の胞子群と結びついて紙繊維に定着する」と整理されることが多いとされる[1]。
成立の背景として、当時の印刷現場では品質管理が細分化されつつあり、色の経時変化を「化学式」だけで説明しきれないもどかしさがあったとされる。そこで、研究者・職人・広告企画が共同で作った“語りの枠”としてが流通した、という筋書きがしばしば語られた[2]。
なお、語の実体は微生物学的に確認されたものではなく、あくまで現場理解の比喩として扱われたとされる。ただし、後述するように、一部の保存技術者がそれを測定指標にまで落とし込んだため、結果として「それっぽい数字」が独り歩きすることになったと指摘されている[3]。
歴史[編集]
誕生:インク工場の“黒い粉騒動”[編集]
の起源は、昭和末期のインク工場で起きたとされる「黒い粉騒動」に求められることが多い。工場はにある「東瀧インク精製(とうりゅうインクせいせい)」で、印刷用顔料の沈殿を早めるために添加していた微量助剤が、倉庫の外気に触れたことで“斑点”が増えたという記録が残っているとされる[4]。
当時の記録では、斑点の出現密度が「1平方センチメートル当たり平均0.73粒(±0.12)」で推移したと書かれており、担当技術者のはそれを「胞子由来の立体足場」であるとして説明したとされる。ただし後年、同じ資料の余白には別のメモとして「インクの香りが甘い。菌でもないのに、増える」との走り書きが見つかったともされ、起源からして“語りの滑稽さ”が混じっていたとする見方がある[5]。
この騒動の現場で、広告担当のが“インクが効いてくる”比喩として「インコキン」という当て字を提案した、と伝えられている。語呂がよかったため社内ポスターに採用され、のちに社外向けの講習会でも引用されたことで、単語が独立してしまった、とされる[6]。
拡散:図書館保存の「インコキン指数」[編集]
が社会に広く認知されたのは、の資料保存機関で採用された「インコキン指数」がきっかけだとされる。指数は、色差計と簡易顕微(10倍)を組み合わせ、紙面の斑点を“インコキン様”と見なすルールによりスコア化したものである。
指数算定の手順は、(1) 透明治具で紙を固定し、(2) 斑点の中心座標をグリッド化し、(3) 1グリッド(5mm四方)あたりの斑点面積合計を求め、(4) それを「変色度A」へ換算する、というものだったとされる。換算係数は「K=12.4(平成元年版)」と記載され、さらに「室温23.0℃を基準に補正する」と細かく書かれたため、実務家にとっては“科学っぽい説得力”を持ったとされる[7]。
ただし、後の監査報告では、同じ指数でも測定者によって平均誤差が「±0.8ポイント」に達したとされる。編集者のは当時の回顧録で「誤差が出るほど測る人が増えた。増えたから、ますます“存在する感じ”になった」と述べたとされる[8]。このあたりから、は“存在しそうな制度”として社会に定着していった。
転用:広告と教育の“菌語り”[編集]
一方で、は研究語ではなく、広告と教育にも転用された。企業は「インコキン対策インク」「インコキンに負けない紙」を商品名にし、さらに小学校の理科教材では「インクが乾くと、目に見えない“相棒”が働くことがある」などと、比喩を半ば授業用に整えたとされる[9]。
このとき登場したのが、教材に付属した“色見本カード”である。カードは全12色で、色番号と対応する「想定インコキン活性(0〜100)」が印字されていた。特に色番号7のカードについて、配布マニュアルでは「湿度68%で最も色差が出る」とし、しかし実測では湿度ではなく紙種の差が大きかった、と報告されたことがある[10]。つまり、誤りがあったというより、“読み物として気持ちよくなるように設計されていた”とみるべきだとされる。
また、印刷業界紙の連載では、インコキンを擬人化した“インコキンさん”が登場し、ベタ塗り工程をサボると暴れる、などのコメディ調が人気を得た。こうしては、技術と民話の中間に位置する語として定着していったのである[11]。
批判と論争[編集]
の最大の論点は、言葉が比喩から制度へ、制度から商品へと“実在らしさ”を強めていったことにある。保存現場では指数が採用されたが、科学的には「斑点の原因が常に同一」だと立証されたわけではないとされる。にもかかわらず、現場の成功例が積み上がったため、反証のための追加実験が後回しになったと批判された[12]。
加えて、指数の算定に使われた「10倍顕微」が、斑点の性状を判断するには粗すぎる可能性があると指摘されている。実際、の民間試験所が行った再評価では、同一試料で顕微像の分類を変えただけで指数が平均「14%」変動したとされる[13]。このため一部では「インコキンは測るほど増える」という皮肉が流行し、学会でも冗談混じりに引用されることになった。
ただし擁護の立場からは、がもたらしたのは“原因究明”ではなく“観察と記録の文化”だとする見方がある。編集者のは「疑わしい理論が、人を測定に向かわせたのは事実」と書き、批判を“測定の原点”へ回収したとされる[14]。そのため論争は、真偽だけでなく、運用の設計思想をめぐるものへと移っていった。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 東瀧インク精製『黒い粉騒動の記録(倉庫版)』東瀧インク精製, 昭和63年.
- ^ 渡辺精一郎「紙面斑点の仮説的分類と当て字語の有効性」『印刷技術年報』第12巻第3号, 1989年, pp. 41-57.
- ^ 浅野ヒカル『広告コピーにおける科学語彙の翻訳』銀座編集局, 1991年.
- ^ 図書資料環境管理研究会『資料保存のための簡易指数運用ガイド』日本図書館協会, 平成2年, pp. 88-103.
- ^ 佐久間礼子「“測るほど増える”という現場感—インコキン運用回顧」『保存科学通信』Vol.7 No.1, 1992年, pp. 12-19.
- ^ M. A. Thornton, “Pseudo-Biological Metrics in Print Degradation Studies,” Journal of Bibliographic Chemistry, Vol.18, No.4, 1993, pp. 201-219.
- ^ R. Nakamura, “Micro-Observation Limits of 10× Schemes for Paper Spots,” Proceedings of the International Paper Stability Forum, 第6巻第2号, 1994, pp. 55-73.
- ^ 三浦和成『曖昧な概念が生む実務—制度化された比喩の効能』学術出版ネクスト, 1996年, pp. 9-28.
- ^ 関川めぐみ「湿度補正の誤差設計と教材の整合性」『教育用科学資料研究』第9巻第1号, 1997年, pp. 77-90.
- ^ 『インコキン対策インクの市場史』産業広告研究所, 2001年.
- ^ ※タイトルが微妙に異なる文献:『インコキンの索引—Inkokin, A Practical Index』Paper Heritage Press, 2003, pp. 3-6.
外部リンク
- 紙とインクの保存データベース(非公式)
- 図書資料環境管理研究会アーカイブ
- 印刷技術年報デジタル閲覧室
- 広告コピーと科学語彙の資料庫
- 色差測定ワークショップ(旧版)