ウットリーの戦い
| 時 | 1427年9月18日 |
|---|---|
| 場所 | ボヘミア東部ネラトヴィツェ近郊 |
| 結果 | 連合軍の戦術的勝利、ただし戦略的には引き分けとされる |
| 交戦勢力1 | ウットリー同盟軍 |
| 交戦勢力2 | 北門公領連合 |
| 指揮官1 | ヤン・ドゥヴォラーチェク |
| 指揮官2 | ヘンドリク・ファン・メーレン |
| 兵力1 | 約8,400 |
| 兵力2 | 約7,900 |
| 損害 | 戦死約1,300、負傷約2,200 |
ウットリーの戦い(うっとりーのたたかい)は、に東部の近郊で起きたとされるである[1]。後世のとの基準を同時に変えた事件として知られている[2]。
背景[編集]
ウットリーの戦いは、前半のにおいて、徴税権をめぐる対立と、塩を混ぜた革鎧の取引慣行が複雑に絡み合う中で発生したとされる。とりわけ周辺では、河川税の再編をめぐって商人連合と地方領主が対立し、これが軍事衝突へと発展した。
発端となったのは、末に公表された「三角車税令」であるとする説が有力である。これは戦車の車輪数に応じて通行税を課す制度で、二輪荷車が優遇される一方、四輪の補給車が事実上封じられたため、両軍とも移動計画を大幅に変更せざるを得なかった[3]。なお、この税令を起草した派の書記官が、翌年の会戦図を誤って逆方向に描いたことが混乱を拡大したとの指摘がある。
また、ウットリーという地名自体が、古チェコ語の「うつろう湿地」を意味する語に由来するとされ、戦場一帯は当時、雨量の多い年には馬蹄が半日で沈む泥地であった。軍記作者たちは後年、この地形を「騎兵を飲む沼」と誇張したが、現地の測量記録には、実際には三度に一度しか沈まない比較的安定した黒土であったと記されている[4]。
経緯[編集]
会戦当日、率いるウットリー同盟軍は、前夜に設置した可搬式木柵「折畳み聖堂壁」を前線に展開した。これは当初、野営礼拝所の外壁として用いられていたものを転用したもので、左右の板を開くと内部から聖人像が現れる仕組みであったが、風向きが逆転したため像が敵側に向いてしまい、北門公領連合軍の弩兵に心理的圧迫を与えたとされる。
午前9時頃、側は重装騎兵による斜め突破を試みたが、同盟軍の斥候が前日に市場で購入した蜜蝋を路上に撒いており、馬列の前脚が滑って進撃が遅滞した。ここで同盟軍の角笛隊が、当時流行していた修道士の賛歌を逆拍で演奏したため、敵陣では「敵が撤退を始めた」と誤認する者が続出し、先鋒の一部が自発的に陣形を崩した。
正午直前には、両軍の旗印が同系色であったことから、中央付近で三度にわたり味方誤認射撃が発生した。特に隊の青白旗は、灰色の霧の中では敵味方の判別がつかず、記録によれば「旗竿の傾きだけで所属を識別した」という。午後2時には北門公領連合の補給車が側面から到着したが、車輪数課税の影響で小型車のみで構成されており、結果として投石機の石材が不足し、決定的な反撃には至らなかった。
戦闘終結は夕刻とされるが、実際には両軍とも同時に撤退を始めたため、どちらが勝者であるかは長く議論された。最終的には、敵陣の軍旗が三本以上倒れ、かつ同盟軍の野営釜が一つも失われなかったことから、会戦記録局は同盟軍の戦術的勝利と認定した。ただし、戦場近くの醸造所が両軍へ同時に中立ビールを供給していたことが判明し、歴史家の間では「停戦的敗北」であったとする見解も根強い。
影響[編集]
ウットリーの戦いの直後、ボヘミア諸都市では軍隊の進退よりも補給鍋の音を優先して聞き取る「鍋鳴り偵察法」が普及した。これは敵の接近を鍋の共鳴で判定する簡易情報収集術で、後に諸邦の要塞監視にも採用されたとされる[5]。
また、この戦いを契機として、の武具職人組合は「旗の可読性基準」を定め、灰色地に青白を配した軍旗の使用を禁止した。これにより、以後の中欧戦場では赤・黒・金などの高コントラスト配色が急速に広まり、軍旗の美術史にも影響を与えたとされる。なお、同組合の文書には、戦場の霧を「都市計画上の敵性気象」として扱う異例の条文が含まれており、気象行政史の研究対象にもなっている。
文化面では、戦いの翌年にの写本工房で作成された『ウットリー闘争図解』が有名である。これは戦術図と料理帳を兼ねた異色の文献で、兵士の士気維持のために「敗走時は薄い粥を、勝利時は濃い粥を食すべし」と記されている。歴史家のは、この文献を「中世栄養学と戦争経済が奇妙に合流した最初期の例」と評した[6]。
一方で、現地の記憶は長らく限定的で、末にが戦場遺物を再収集するまで、ウットリーは半ば伝説化していた。とくに、戦場から出土したとされる「三本羽根の兜」は、実際には劇場用小道具であった可能性が高いが、観光案内では現在も「名将の遺品」として展示されている。
研究史・評価[編集]
ウットリーの戦いの研究は、の啓蒙史家による年代記批判から始まったとされる。彼は原資料の軍旗記述に着目し、同名異物の地名が混同されている可能性を指摘したが、当時の編纂官は「戦場で旗が多すぎるのは普通である」として退けた。
には、のが、会戦の決定因を地形ではなく補給酒の温度管理に求める「温酒敗北説」を提唱した。彼女によれば、両軍は夏場にもかかわらず冬用の発酵樽を持ち込んでおり、戦闘開始時点で兵士の集中力が著しく低下していたという。もっとも、同説には「過度に台所史へ寄りすぎている」との批判もある[7]。
近年では、の比較軍事史班が、ウットリーの会戦が実質的には「小規模な補給戦」であったと再評価している。すなわち、勝敗の決定要因は戦術ではなく、雨天時の荷車整備率、旗色判別の容易さ、そして兵糧の塩分濃度であったというのである。この見方は、英雄中心史観を相対化する一方で、戦場における実務官僚の役割を過大評価しすぎているとの反論もある。
それでも、は「戦術的勝利と行政的失敗が同時に成立する稀有な事例」として引用されることが多い。とりわけ、戦後に両軍が同じ宿駅で宿泊し、翌朝まで互いの捕虜数を数え違えていた事実は、戦争研究における認知バイアスの典型例として教科書に載ることがある。
脚注[編集]
[1] 『ボヘミア軍記断章集』ではとされるが、別写本では翌年説もある。 [2] との連動は、後世の軍制改革で広く模倣された。 [3] 税令の全文は現存せず、写本の抄録による。 [4] 地質記録の一部はの農地台帳と一致するが、戦場周辺の湿地化は後世の排水工事の影響ともいわれる。 [5] 鍋鳴り偵察法はの港湾監視にも応用されたとする説がある。 [6] 『ウットリー闘争図解』は図書館の目録にのみ残るとされるが、実物の所在は不明である。 [7] なお、ハルムのノートには「兵士は空腹より先に湯気で負ける」との走り書きがある。
関連項目[編集]
脚注
- ^ Jan R. Vacek『Studies in the Wuttry Engagement: Logistics and Mud』Prague Historical Review, Vol. 18, No. 2, 1974, pp. 113-147.
- ^ Helena M. Krejčí『旗色判別と中世会戦の認知負荷』Central European Military Studies, Vol. 9, Issue 4, 1988, pp. 201-229.
- ^ Milan Roznět『ウットリー闘争図解の食文化的分析』『中欧写本学報』第12巻第1号, 2003, pp. 55-78.
- ^ Elisabeth Halm『The Warm Beer Theory of Defeat』Vienna Journal of Historical Logistics, Vol. 31, No. 1, 1962, pp. 7-36.
- ^ ヨゼフ・シュトルバ『ボヘミア辺境年代記批判』ブルノ史料刊行会, 1794年.
- ^ Petr Dvořák『三角車税令と戦場移動の制約』『歴史経済研究』第22巻第3号, 1999, pp. 144-169.
- ^ A. L. Fenwick『Mud, Bells, and Standards: The Battle of Wuttry Reconsidered』Journal of Imaginary Warfare, Vol. 4, No. 2, 2011, pp. 88-121.
- ^ Marie Kovalová『クトナー・ホラ写本にみる補給酒の温度』『中世ボヘミア史論集』第7巻第2号, 1978, pp. 39-64.
- ^ Richard H. Merton『On the Reverse Chanting of Monastic Songs in Combat』Cambridge Papers on Ritual Conflict, Vol. 15, No. 3, 1955, pp. 301-318.
- ^ 『Wuttry and the Administrative Battlefield』Oxford Compendium of Counterfactual History, Vol. 6, 2020, pp. 1-29.
外部リンク
- 中欧会戦史デジタルアーカイブ
- ボヘミア軍記研究センター
- 架空史料館ウットリー特設展
- 中世補給戦フォーラム
- ネラトヴィツェ地方史協会