エッチガニ属
| 名称 | エッチガニ属 |
|---|---|
| 界 | 動物界 |
| 門 | 節足動物門 |
| 綱 | 軟甲綱 |
| 目 | 十脚目 |
| 科 | ワタリガニ科 |
| 属 | エッチガニ属 |
| 種 | E. aurorae ほか |
| 学名 | Hettchigani |
| 和名 | エッチガニ属 |
| 英名 | Hettchigani crabs |
| 保全状況 | 情報不足 |
エッチガニ属(えっちがにぞく、学名: ''Hettchigani'')は、に分類されるの一種[1]。
概要[編集]
エッチガニ属は、沿岸の干潟と、の汽水域で断続的に記録されている小型のの属である。甲殻の縁が不規則に波打ち、脚部の遊泳毛が短いことから、古くはの変種として扱われたが、後に独立属として整理されたとされている。
本属は、潮間帯の泥質底に浅く潜る習性と、満潮時のみ巣穴の入口を閉じる行動で知られている。特に繁殖期の雄が、鋏脚を左右に素早く振る「H字示威」を行うことが、属名の由来になったという説が有力である[2]。ただし、初期標本のラベルには単に「痴れたように挙手するカニ」と記されており、命名の経緯にはなお異論がある。
の標本群では、1910年代から1960年代にかけて採集地の表記がたびたび改変されており、産とされた個体の一部は、後年になって由来であることが判明した。このような記録の混線が、属の分布論をやや複雑にしている。
分類[編集]
エッチガニ属の初記載は、7年にの嘱託研究員であった渡辺精一郎によって行われたとされる。彼は当初、標本をの未記載種として扱ったが、甲腹部の輪郭と雄の発音器官が既知種と一致しないことから、新属を提唱した。
分類上はの中でも、歩脚の第2節が著しく扁平化する系統に近いと考えられている。ただし、の再検討では、遺伝子抽出に用いた試料が実は剥製の防腐液に浸かっていたことが明らかになり、DNA系統樹の一部が「香辛料由来のノイズ」に左右されていた可能性が指摘された[3]。
現在では少なくとも3種が含まれるとされ、代表種である''Hettchigani aurorae''のほか、''H. limosa''、''H. tsukishiroi''が挙げられる。ただし後者2種は、いずれも夜間撮影の写真と殻片のみで記載されているため、再検証を求める声が強い。
形態[編集]
成体は甲幅38〜64ミリメートルほどで、雌のほうがわずかに大型になる。甲羅は暗褐色から黄土色を呈し、前縁に沿って三つの小突起が並ぶのが特徴である。とくに頭胸部の中央に、微細な黒点が半月状に集合するため、遠目には墨をこぼしたように見える。
左右の鋏脚はほぼ同大であるが、雄では内側の指節がわずかに湾曲し、挟むというより「挟む直前でためらう」形になる。この動きが観察者に奇妙な印象を与え、の記録写真では、標本番号CHM-Cr-217に「自意識過剰な姿勢」と手書き注記が残されている。
歩脚には短い遊泳毛が生え、泥底では歩行よりも滑走に近い移動を行う。また、腹節の第4節がやや肥厚し、抱卵雌ではここに卵塊を密着させる。なお、殻を脱ぐ直前の個体は全身が灰青色に変化することがあり、地元では「夜の洗面器」と呼ばれている。
分布[編集]
主な分布域はの太平洋岸中部から北部にかけての汽水域であるが、出現はきわめて斑で、同じ干潟でも年によって見つかったり見つからなかったりする。とりわけの周辺、の南岸、の河口域での記録が多い。
一方で、1940年代の文献には南部での採集例が1件だけ記載されており、これは寒冷化への適応を示す重要例として引用されることがある。しかし、その標本は現在所在不明であり、ラベルに書かれた採集者名も「坂本」としか読めないため、真偽は決め手を欠く。
近年はの湾岸再整備地でも幼体が確認されているが、これについては放流個体説と自然侵入説が併記されている。なお、干潟保全区画の照明に強く反応して巣穴を移動させることが報告されており、港湾工事との関係が議論されている。
生態[編集]
食性[編集]
エッチガニ属は雑食性で、底泥中の有機物、微小甲殻類、藻類片を摂食するほか、夜間には落下した果実片を好むとされている。特にに漂着したアオサを細かく刻んで巣穴へ持ち帰る行動が観察されており、地域によっては「海の裁断機」と呼ばれる。
また、餌を前脚で器用に回転させながら食べる習性があり、の飼育記録では、与えたアサリを食べ終えるまで平均17分42秒を要したという。もっとも、同じ個体が翌日には1分で食べ尽くした例もあり、空腹時の判断はかなり不安定である。
繁殖[編集]
繁殖期は主に初夏で、雄は巣穴の前で鋏脚を頭上に掲げ、H字状に見える求愛姿勢を取る。雌がこれに応じると、両者は数分間にわたり甲羅を接触させ、その後、満潮に合わせて産卵が行われると考えられている。
抱卵数は1個体あたり約1,800〜3,400粒と推定されるが、実際には潮位や月齢によって大きく変動する。1987年の委託調査では、人工湿地で孵化率が異常に高かった一方、屋外水槽ではほぼ全滅しており、調査報告書には「気配の問題である可能性がある」とだけ書かれていた。
社会性[編集]
本属は単独性が強いとされるが、繁殖直前の個体は数十匹規模でゆるく集合することがある。この集合は厳密な群れではなく、餌場と巣穴が重なった結果として生じるもので、観察者によっては「会議のようであり、会議ではない」と表現される。
個体間では、鋏脚を軽く打ち合わせることで威嚇と譲歩の両方を示す信号交換が行われる。さらに、干潟の一角に複数の出入口を持つ巣穴群を形成することがあり、の調査班はこれを「半自治コロニー」と呼んだが、査読では「概念が大きすぎる」として削られた[4]。
人間との関係[編集]
エッチガニ属は、食用として市場に大量流通した記録は少ないが、漁網への混入や干潟観察会を通じて広く知られるようになった。とくに50年代には、の埋立計画に伴う生息地減少が報道され、の干潟保全資料にしばしば引用された。
地方によっては縁起物として扱われ、甲羅の左右対称性が「夫婦円満」を象徴するとして、子どもの夏休み観察教材に採用された例がある。もっとも、のある小学校では、飼育ケース内で個体が互いに巣穴を取り違え、授業が30分延長されたという記録が残る。
また、1990年代以降はの指標生物として注目され、人工護岸における再定着試験が各地で行われた。しかし、試験区域にカニかごを設置したところ、近縁種ではなくアナジャコ類ばかりが入り、報告書の余白に「相手方の理解不足」とだけ書き足された事例もある。
脚注[編集]
[1] 渡辺精一郎『日本汽水域甲殻類図譜 第2版』帝国海洋研究所出版部, 1921年, pp. 114-118.
[2] 佐伯章『干潟生物の行動記録』東京自然史学会, 1933年, pp. 201-206.
[3] Margaret A. Thornton, “Reassessment of the Hettchigani Complex in East Asian Estuaries,” Journal of Coastal Crustacea, Vol. 14, No. 2, 1984, pp. 77-95.
[4] 田沼由紀子「半自治コロニーとしてのエッチガニ属」『京都大学生物圏紀要』第38巻第1号, 1997年, pp. 23-41.
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『日本汽水域甲殻類図譜 第2版』帝国海洋研究所出版部, 1921年.
- ^ 佐伯章『干潟生物の行動記録』東京自然史学会, 1933年.
- ^ 松井和雄『潮間帯の小型十脚類』南方館, 1948年.
- ^ Margaret A. Thornton, “Reassessment of the Hettchigani Complex in East Asian Estuaries,” Journal of Coastal Crustacea, Vol. 14, No. 2, 1984, pp. 77-95.
- ^ 田沼由紀子『干潟の見えない住民』京都大学学術出版会, 1997年.
- ^ K. H. Ellison, “Burrow Architecture and Tidal Timing in Hettchigani,” Marine Fauna Review, Vol. 22, No. 1, 1999, pp. 11-34.
- ^ 高瀬志保「エッチガニ属の再記載に関する予備的検討」『日本甲殻類学会誌』第51巻第3号, 2004年, pp. 145-162.
- ^ Hiroshi Naramoto, “On the Curious H-Display of Hettchigani,” Proceedings of the Estuarine Zoological Society, Vol. 8, No. 4, 2008, pp. 301-317.
- ^ 中村里奈『湾岸再整備と干潟生物』潮出版, 2016年.
- ^ S. Whitcombe, “The Crab That Hesitated: Notes on Hettchigani Behavior,” Estuarine Notes Quarterly, Vol. 5, No. 1, 2021, pp. 5-19.
外部リンク
- 国立干潟分類データベース
- 日本汽水域生物アーカイブ
- 東アジア甲殻類再検討会
- 湾岸生態観察記録室
- 干潟標本画像保管庫