エレベーターの美学
| 分野 | 建築学、都市文化論、メディア研究 |
|---|---|
| 主な対象 | 昇降機(エレベーター)の日常動作、操作音、待機空間 |
| 提唱の背景 | 近代の高層化と“無人化”が同時に進んだ時期 |
| 関連語 | 間(ま)、触感設計、聴覚環境、光学カレンダー |
| 初期の中心地 | の再開発地区(観察会の常連が多かったとされる) |
| 研究団体(名称例) | 一般社団法人昇降体験倫理研究会 |
(えれべーたーのびがく)は、エレベーターという昇降装置の所作・音・光・間合いを、生活の倫理や都市の品格と結びつけて論じる言説である。主に建築・都市計画の周縁領域で語られてきたが、意外にも消費文化研究の分野でも参照されている[1]。
概要[編集]
は、エレベーターの内部における一連の行為(呼び出し、扉の開閉、乗り込み、ボタン操作、発車音、着床時の“癖”)が、人間の注意の配分や共同体の礼節に影響すると考える立場である。単なる工学的評価に留まらず、待機時間の知覚や、照明の色温度が“気まずさ”の程度を左右するという主張が、しばしば含まれる。
成立の経緯としては、戦後の高層住宅と業務ビルの普及期に、乗員が増えるほど事故や苦情よりも先に「降り際の所作が雑になった」という観察が共有され、そこから美学的説明が要請されたとされる。なお、当初はエレベーターメーカーの広報資料に近い文体であったが、のちに研究会や学会向けの語彙へ整えられたとされる[2]。
歴史[編集]
起源:“静かな号令”の発明競争[編集]
この言説は頃、欧州の昇降機研究者が「乗員が次の行動へ移る前に、心理的に区切りを与える必要がある」とするメモから始まったと説明されることが多い。たとえば英語圏では、リーフレット『Quiet Regulation for Lift Rooms』が“沈黙の号令”という比喩を広めたとされる[3]。その後、都市の電灯が普及するにつれ、扉が閉まる瞬間に発生する残響と視覚の同調を“美”として捉える試みが増えたとされる。
一方、日本側の系譜は、の中規模ビルでに行われた「発車音の標準化デモ」が起点だとする説が有力である。ここでは音響測定が行われたものの、最終的に重視されたのは周波数ではなく、乗員が立ち上がる速度の揺らぎだったという。記録によれば、当日の被験者は合計で、平均乗車時間は、扉の閉まり際に一度視線を落とす割合はと報告されたとされる[4]。
発展:観察会と“間”の制度化[編集]
、を中心に、再開発ビルの共用部を歩きながら昇降体験を採点する観察会が始まったとされる。参加者の多くは建築士だけでなく、当時人気だった就職面接講師、さらに“接遇監修”を業としている人々まで含まれていた。そこで生まれた採点表が、のちに「間(ま)指数」と呼ばれる指標の原型になったとされる。
当該採点表では、例えば扉が開いてから乗り込むまでの遅延を「待機礼」として加点し、逆に到着階での立ち位置の移動を減点したとされる。また、光学面では上階照明の色温度をからへ上げると「“急かされている感”が減る」とする調整案が、現場で半ば神話のように語られた。もっとも、この数値の出典は当時の私的ノートに依存しており、のちの文献では「要出典」級の扱いを受けたとされる[5]。
社会への定着:倫理と消費の結節点[編集]
エレベーターの美学が広く知られるようになったのは、以降、ビルの入居企業が“快適性”を差別化項目として掲げ始めたことと結びつく。空調やセキュリティが同質化する中で、共用部の小さな振る舞いが企業の品位を代弁するようになったと考えられたのである。
ここで重要になったのが「誰が設計するのか」という問いである。メーカーは筐体と制御を担当し、デザイナーは視覚要素を担当したが、社内の接遇担当が“美学”の編集権を持つようになったとされる。その結果、などの組織が設立され、「音量(A値)」「扉開時間」「着床ショックの感じ方」を、倫理講座の教材として扱うようになったとされる[6]。
評価指標と実務[編集]
エレベーターの美学では、快適さを単一の数値で測るのではなく、複数の“知覚チャンネル”に分解して評価するのが特徴である。代表的な指標としては、扉の開閉音の余韻を測る「残響礼節度」、呼び出しランプの点灯から乗員が押すまでの反応遅延を測る「視線同期率」、そして着床時の床反力の立ち上がりに伴う体幹ブレを推定する「重心収束指数」が挙げられる。
実務では、設計会議に美学側の要求が入り込む場面がしばしば描写された。例えばの高級複合施設では、乗車ボタンの配列を“業務効率”ではなく“迷いの発生順序”で並べ替え、案内板の矢印の曲率をにしたという。これは運用担当が「人は直線を急いでいると感じる」と主張したことによるとされ、のちに批判的検討の対象にもなった[7]。
また、照明については「一段目の緊張を作らず、二段目で落ち着きを与える」という段階説が支持された。具体的には、乗り込み直後の色温度を少し高め、扉が閉まる瞬間に下げる設計が提案され、実証に成功したとする報告がある。ただし、成功条件が“観察者の気分”に左右される可能性があるとも指摘されており、再現性の議論が絶えなかったとされる[8]。
具体例:現場で語られた“美学の小話”[編集]
エレベーターの美学は、理論よりも逸話として広まった側面が大きい。例えば、の商業施設で、扉の開閉時間を“わずかに”伸ばしたところ、来店客の滞在率が上がったという。数字の出方が妙で、来店率は上昇、レジ待ちのクレームは減少、そして最も面白いとされる点として、傘立ての使用回数が増えたと報告された[9]。後に研究会では、この差は統計学というより「扉が閉まるまでに人が帽子を直す時間ができた」ことにあるのではないか、という説明がなされた。
別の例として、の官庁街にある庁舎では、深夜の巡回員が「夜間モードの発車音は星座の並びに似ている」と言い張り、音を敢えて変えない方針が採用されたことがある。技術的には周波数を調整したはずなのに、結果として“音の意味”をめぐる会話が先行し、メーカー側が「美学の勝利」と日報に書いたという(ただし当該日報の所在は確認できないとされる)[10]。
さらに都市伝承的に語られるのが、で起きた「ボタンの指紋が少ないほどクレームが少ない」現象である。清掃頻度の差が本因だと考えられるが、美学派は「指が迷わず触れられる配置になっているから指紋が薄い」と反論したという。ここでしばしば持ち出されるのが“触感設計”であり、材質の摩擦係数をに寄せたとする主張が残っている。もっとも、数値の測定手順は文献で曖昧にされており、実測したのか記憶を整えたのかが争点になったとされる[11]。
批判と論争[編集]
批判としては、エレベーターの美学が工学的安全性やバリアフリーを二次化してしまうのではないか、という点が挙げられる。特に視覚や聴覚の“快”を追求するあまり、緊急時の情報提示が過度に柔らかくなり、結果として認知が遅れるのではないかと懸念された。
また、測定指標の恣意性も問題とされた。「間指数」などの指標が、観察者の主観を過剰に含む可能性があることが指摘され、学術誌上では「文化として理解するならよいが、仕様として採用するには慎重さが要る」とする論文が出た[12]。ただし一方で、現場はその論文を“仕様の言語化”の材料にしたともされ、批判が即座に反転して導入へ繋がったという。
なお、最も有名な論争は、ある研究会が「エレベーターの扉閉まり音は“和解のチャイム”である」と提唱した件である。反論側は「和解は構造ではなく社会関係だ」と述べ、賛同側は「音が先に和解を呼ぶ」と応じた。この論争は長引き、結局は扉の音色をからに削ることで“どちらの主張も傷つけない”運用へ移行したとされる[13]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ M. A. Thornton「Lift Rooms and the Ethics of Pausing」Oxford Journal of Urban Etiquette, Vol.12 No.3, pp.41-58, 1997.
- ^ 佐藤礼司『エレベーター体験の測定倫理』建築言語叢書, 第1版, pp.13-27, 2001.
- ^ K. Watanabe「Aural Closure in Vertical Circulation Systems」Journal of Architectural Acoustics, Vol.8 No.1, pp.101-129, 1988.
- ^ 一般社団法人昇降体験倫理研究会『間(ま)指数の標準化手順』内規集, pp.3-22, 1999.
- ^ Laura Chen「Color Temperature as Social Timing in Lift Interiors」International Review of Interior Studies, Vol.19 No.2, pp.200-221, 2006.
- ^ 渡辺精一郎『都市の共用部はなぜ静かに語るのか』東京大学出版会, pp.55-73, 2008.
- ^ Ibrahim Noor「Perception-Friendly Buttons: Layout and Finger-Path Statistics」Proceedings of the Symposium on Human Micro-Interactions, Vol.3, pp.77-96, 2012.
- ^ R. J. McClure「Quiet Regulation for Lift Rooms」Elevator Heritage Review, Vol.2 No.4, pp.9-31, 1909.
- ^ 中村ひかる『音が先に謝る——昇降機と社会関係』メディア・ラボ出版, pp.118-134, 2016.
- ^ 青木克也『建築の小さな儀式(増補改訂)』日本工学文化協会, 第2版, pp.5-17, 2010.
- ^ J. L. Whitaker「Elevator Aesthetics in Practice」Sociology of Built Environments, Vol.7 No.6, pp.33-49, 2014.
- ^ (タイトルが不自然)『間の設計——駅前の扉だけが知っている』新潮計測社, pp.1-9, 2020.
外部リンク
- 昇降体験倫理研究会アーカイブ
- 間指数データベース(非公式)
- 扉閉まり音コレクション
- 都市所作観察ログ
- 色温度運用レシピ集