オホーツク海レアアース島事件
| 発生時期 | 1978年夏〜1981年冬 |
|---|---|
| 発生場所 | オホーツク海中央部の漂流堆積域 |
| 原因 | 海底火山性粘土層の隆起とレアアース析出 |
| 関係機関 | 北海道大学、通商産業省、海上保安庁 |
| 主な論点 | 資源権益、海図表記、調査船の接触事故 |
| 別名 | 白泥島騒動 |
| 影響 | 資源政策の見直し、海洋測量基準の改定 |
| 現在の扱い | 地形記録上は「一時的堆積高まり」とされる |
オホーツク海レアアース島事件(オホーツクかいレアアースとうじけん)は、に浮かぶとされた小島状の堆積体に、希土類元素を高濃度で含む白色泥が一時的に露出した出来事を指す名称である[1]。のちにやの調査対象となり、資源騒動と海図改訂を同時に引き起こした事件として知られている[2]。
概要[編集]
オホーツク海レアアース島事件は、に沖約240キロメートルの海域で、直径約1.8キロメートルの白色堆積物が海面上に半日だけ現れたことから始まったとされる事件である。後年の研究では、海底の含有粘土が海氷圧と潮流の組み合わせで押し上げられたものと説明されたが、当時は「新島」か「軍事偵察用の偽装平台」かで大きく揉めた[3]。
事件名に「島」とあるが、実際には島ではなく、重金属を含む泥灰が波浪で固められた一時的地形であったとされる。ただし、現地で採取された試料の一部が異様に軽く、海水に入れるとの塩分濃度に応じて淡く青白く発光したという報告もあり、これが資源ブームを加速させた要因とされている[4]。
発生の背景[編集]
事件の背景には、後半の資源不安と、北方海域の詳細測量が未整備であった事情がある。当時の鉱物資源局では、海底マンガン団塊の代替として希土類泥を探す計画が進んでおり、の渡瀬重蔵教授らが「氷縁堆積体仮説」を唱えていた。
一方で、から沿岸にかけての海図には、季節ごとに位置がずれる「半固定島影」が複数記されており、古い漁労日誌には「春になると消える島」「コンブが鳴る丘」などの表現が見える。これらの民間記録が、事件発生後に一斉に再解釈されたことも、混乱を大きくした。
経過[編集]
白泥島の出現[編集]
、調査船「第七宗谷丸」が海氷域の縁で異常な反射を確認し、翌朝には白い円丘が海面上に約11メートル突き出しているのが視認された。乗員の記録では、丘の表面には「樹脂状の裂け目」があり、そこから採集した泥が乾燥すると薄紫色に変化したという。のちにこの現象は、試料容器に使用された洗剤が原因である可能性が高いとされたが、当時は誰もその説明を採用しなかった[5]。
資源局の介入[編集]
は直ちに臨時の「北方希土類調査班」を設置し、の分析装置を用いて試料を精査した。その結果、ネオジム、セリウム、イットリウムに加え、通常の地質ではほとんど見られない「極低温リン酸塩」が含まれると報告され、新聞各紙は一斉に「海上の宝石箱」と報じた。なお、後年の再検証で、この極低温リン酸塩は乾燥剤の混入で説明できるとされたが、当時の報道はすでに独り歩きしていた。
接岸事故と封鎖[編集]
にはの測量艇が堆積体に接触し、スクリューに白泥が絡みつく事故が起きた。この際、推進器が三分間だけ著しく静音化したことから、電波潜航体ではないかという噂まで流れた。周辺海域は臨時封鎖され、漁船には「白色浮遊物の採取禁止」が通達されたが、地元では逆に「縁起物」として小瓶に詰めて売る者まで現れた[6]。
調査と学術論争[編集]
事件後、地球化学教室との合同班は、堆積体が海底火山の噴出物ではなく、沿岸流に運ばれた火山灰と生物起源シリカがレアアースを吸着したものだと発表した。ただし、論文の脚注には「採取時刻が満潮表記と干潮表記で一致しない」との注記があり、のちに要出典扱いの対象となった。
これに対し、函館の民間研究会「北洋地形史懇話会」は、事件の正体を「古代の航海者が目印として投棄した白亜性杭列の再浮上」と主張した。学術的には支持されなかったが、地元紙の連載記事と結びつき、1980年代前半には一般向け講演の定番題材となっている。
社会的影響[編集]
事件は、沿岸の資源政策に大きな影響を与えた。特にの化学工業団地では、レアアース抽出試験に向けた小規模な湿式精錬設備が導入され、年間約14トンの試験処理が行われたとされる。もっとも、実際に回収できた希土類はその3分の1程度で、残りは「海藻由来の不純物」として再分類された。
また、はこの事件を受けて、北方海域の一時的地形に対する海図注記を強化した。以後、海図には「季節により消失の可能性あり」「接近時、白色反射に注意」といった、やや文学的な注意書きが増えたとされる。
事件の後日談[編集]
冬、最後に確認された白泥島は流氷に押されて砕け散り、採取班が残した観測杭だけが海面に並んだ。ところが翌年、近隣の漁師がその地点で「海底から鈴の音がする」と報告し、これが再調査の引き金になった。再調査の結果、鈴の音は沈んだアルミ製ブイの共鳴であると判明したが、事件を「海が自ら証拠を隠した例」とする伝承が定着した。
なお、には一部の環境運動家が、この事件を「国家による希土類採掘の失敗例」と位置づけたが、実際には採掘よりも観測機材の結露対策の方が深刻な問題であったとされる。
批判と論争[編集]
事件については、当時の報道が過度にセンセーショナルであったとの批判がある。特に、の『北方資源新聞』が「オホーツク海に金属の島出現」と見出しを打ったことで、観光客が実際に上陸できると誤解し、から臨時の見学船まで出たという。
一方で、事件を最初に怪しんだ測量課の佐伯隆一技官は、内部メモで「これは島ではなく、海氷と粘土と期待が固まったものである」と記していたとされる。この文書は長らく所在不明であったが、のちに道庁の倉庫から発見され、現在も引用されることが多い[7]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡瀬重蔵『北方海域における希土類堆積体の季節変動』北海道地学会誌 Vol.12, No.3, 1979, pp. 41-58.
- ^ 佐伯隆一『オホーツク海白泥島観測記録』海上保安庁測量部報告書 第18巻第2号, 1980, pp. 7-19.
- ^ M. A. Thornton, “Transient Seamounts and Rare-Earth Slurries in Cold Seas,” Journal of Maritime Geochemistry, Vol. 7, No. 1, 1981, pp. 113-129.
- ^ 高橋照夫『北方資源開発と臨時地形の政治学』日本海洋政策研究 第4巻第1号, 1982, pp. 88-104.
- ^ E. K. Holloway, “A Note on Phosphates That Glow in Saline Fog,” Polar Chemical Review, Vol. 3, No. 4, 1983, pp. 201-210.
- ^ 北海道大学地質学教室 編『オホーツク海レアアース島事件一次資料集』北大出版会, 1984.
- ^ 石井芳郎『海図に書けない島々』東洋測量出版, 1985.
- ^ 吉村あさみ『白泥と潮目: オホーツク資源騒動の記憶』道北文化研究所紀要 第9号, 1991, pp. 55-73.
- ^ R. S. Pembroke, “The Politics of Disappearing Islands,” Arctic Affairs Quarterly, Vol. 15, No. 2, 1994, pp. 66-92.
- ^ 中村慶一『異常反射海面の観測とその誤認』水路協会研究ノート 第22巻第6号, 1998, pp. 10-28.
外部リンク
- 北方海域地形アーカイブ
- 架空海洋資源研究所
- オホーツク資料電子図書館
- 白泥島事件デジタル年表
- 海図改訂史研究会