カモカモの乱
| 時代 | 江戸時代中期 |
|---|---|
| 発生地 | 京都・鴨川流域 |
| 原因 | 渡り鳥の餌付け規制と川沿いの流通統制 |
| 結果 | 鳥餌年貢の一部改定、河原札の導入 |
| 関係者 | 高瀬川会所、京都町奉行所、鴨見組 |
| 別称 | 鴨川鳥札騒動 |
| 想定死傷者 | 軽傷23名、羽根損耗多数 |
| 記録 | 『洛中河川見聞録』ほか |
カモカモの乱(カモカモのらん)は、中期にの流域で発生したとされる、渡り鳥の飛来時期をめぐると鳥類保護同心との対立である[1]。のちにやを巻き込み、年貢輸送と餌付けの規則をめぐる都市騒擾へと拡大したと伝えられる[2]。
概要[編集]
カモカモの乱は、鴨川に飛来する鴨の群れをめぐって起こったとされる、半ば行政事件、半ば民衆騒擾である。一般には年間の冬、からにかけての河原で、餌付けを担っていた町方と、川筋の警備を担当する役人が衝突したことに始まるとされる[3]。
この事件は、単なる鳥の取り合いではなく、実際には鴨肉の流通、舟運の優先権、さらには「カモ」と呼ばれる補助金の俗称まで絡んだ複合的な争いであったといわれる。なお、当時の記録には「鴨は川を見て寄り、札を見て去る」との一句が残されているが、出典はやや曖昧である[要出典]。
成立の背景[編集]
では末期から、川沿いの富裕町人が冬季の鴨飛来を季節の景物として競って保護する風習が広まっていた。とくにの染物業者が、染料廃液が浅瀬の藻を増やし、結果として鴨が集まりやすくなったという説が有力である[4]。
一方で、鴨は食用・羽毛・薬効の三用途で高値がつき、配下の御用商人が川辺に「仮設餌場」を設けたことから、町人側との摩擦が強まった。いわゆる「カモカモ」という呼称は、餌場の掛け声「かも、かも」と、商人が使った在庫札の「可毛」字表記が混同した結果とされる。
経過[編集]
第一波:河原札の押収[編集]
6年12月、の与力・は、川辺で配布されていた竹札「一羽につき三合」を不正な配給券とみなし、鴨見組の倉を封印した。これに対し、の茶屋が夜明け前に札を買い戻し、札の裏に鴨の絵を描いて再流通させたため、翌朝には同じ鴨に対して二重三重の給餌権が発生したという[5]。
第二波:鴨橋の小競り合い[編集]
方面から集まった荷駄人足約180名が、鴨を川上へ追い返そうとした役人側に投石したことで、事態は小競り合いとなった。石は実際には鴨ではなく鯉を狙ったものであったが、鴨が驚いて一斉に南へ飛び、の酒蔵の煙突を覆ったことから「空が黒い」と誤報が広がった。翌日、の台所方まで「鴨、二千羽反乱」と伝わり、御所では一時的に味噌汁の献立が変更されたとされる。
第三波:鳥類保護同心の介入[編集]
事件を鎮めるため、から鳥類保護同心12名が派遣された。彼らは赤い羽織に白い胴巻きを着け、鴨の足跡を見分けるために竹尺を携行していたが、実際には川岸の泥の硬さを測るだけで半日を費やした。記録によれば、同心の一人は鴨に昇進の辞令を読み上げ、鴨が理解したように首を傾げたため、現場の人々が「これで収まった」と安心したという。
制度化と影響[編集]
乱の後、京都では鴨への過剰な餌付けを防ぐため、2年に「鳥餌年貢」が試験的に導入された。これは米ではなく干粟と豆殻で納める制度で、鴨一羽あたり年間0.8升相当とされたが、実際には商家の台所事情に合わせて0.6升から1.4升まで揺れがあったと推定されている。
また、河原で発行される通行証が「鴨札」と呼ばれるようになり、のちの期には観光案内の先駆けとして再評価された。特に周辺では、乱を記念する小さな石碑が建てられ、冬の観光客に対して「ここで鴨が政を学んだ」と説明されたという。
関係者[編集]
中心人物としては、町方の便宜を優先した与力・、餌場の管理を担った茶屋主、そして鴨見組の頭取とされるが挙げられる。いずれも実在の同時代史料には断片的にしか現れないが、後世の聞書では三者が同じ鍋を囲んで和解を試みたとされる。
また、事件を象徴する存在として、片脚に青い糸を巻かれた雌鴨「およし」がしばしば言及される。およしは乱の最中にの橋下へ避難し、その後も3年にわたり同じ地点で確認されたため、「京都でもっとも議論の長かった鳥」と呼ばれた。
批判と論争[編集]
以降、カモカモの乱は実在性そのものを疑問視されるようになった。とくに期の郷土史研究では、鴨川の鳥害対策記録が誇張され、複数の別事件が一つに束ねられた可能性が指摘されている[6]。
ただし、30年代に発見されたとされる『洛中河川見聞録』の写本には、鴨の足に結ばれた小札、餌の配給表、そして「乱」の欄にだけ墨が濃い異様な帳簿が残されており、研究者の間では「少なくとも乱の気分だけはあった」との折衷的理解が定着している。なお、この帳簿の紙質がではなく産だった点は、史料批判上の大きな論点となっている。
後世への影響[編集]
カモカモの乱は、都市における動物管理と祭礼経済の関係を考えるうえで、しばしば象徴的事例として引用される。特にの民俗学者は、1958年の講演で「鴨の集団行動は町内会の意思決定と同じく、餌が見えると急にまとまる」と述べ、以後この比喩が行政文書にまで流入した。
また、鴨川沿いの土産物として「カモ札せんべい」が売られるようになり、表面に『乱』の一字が焼き印されるのが定番となった。売れ行きは年によって変動するが、観光協会の内部資料では、11月から2月の間に月平均2万7,000枚が流通するとされる[7]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 杉本義信『洛中鳥政史考』思文閣出版, 1978, pp. 41-79.
- ^ 河辺茂雄『鴨と都市権力』京都民俗学会, 1959, Vol. 12, No. 3, pp. 201-226.
- ^ 大橋澄子『川辺の札と人びと』岩波書店, 1984, pp. 88-104.
- ^ Thomas H. Wainwright, "Duck Administration in Early Modern Kyoto", Journal of East Asian Civic Studies, Vol. 7, No. 2, 1993, pp. 55-73.
- ^ 佐伯龍一『鴨川流域の経済と儀礼』同成社, 2001, pp. 113-149.
- ^ Margaret A. Thornton, "Feeding Licenses and Waterfowl Unrest", Proceedings of the International Society for Historical Ecology, Vol. 19, 2008, pp. 14-39.
- ^ 中井房江『河原札制度の成立と変質』法政大学出版局, 2012, pp. 9-62.
- ^ 清水英之『洛中河川見聞録の紙質分析』日本古文書学会誌, 第48巻第1号, 2015, pp. 1-18.
- ^ Eleanor P. Stokes, "The Kamo-Kamo Papers: A Problem of Too Many Ducks", Asian Antiquarian Review, Vol. 31, No. 4, 2017, pp. 233-249.
- ^ 近藤文也『鴨札せんべいの観光史』京都観光文化研究所, 2020, pp. 5-28.
外部リンク
- 京都河川史料館デジタルアーカイブ
- 洛中民俗研究ネット
- 鴨川鳥政研究会
- 古文書紙質分析センター
- 西日本都市騒擾年表